PanAsiaNews:大塚智彦)

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 インドネシアのカリマンタン島南カリマンタン州コタバル市で5月4日、地元メディアに記事を執筆した記者ディアナンタ・プトラ・スメディ氏が地元警察に逮捕された。

 逮捕容疑は電子情報商取引法(ITE)違反で、「国民に対して民族間の嫌悪や差別を煽り、社会を不安定化させる可能性がある」というものだが、この逮捕容疑の裏にはインドネシア特有の報道に関するタブー(禁忌)があった。

記事公開から半年後に突然の逮捕

 南カリマンタン州の南東部に浮かぶ島コタバル県の中心都市コタバルの記者・ディアナンタ氏は、5月4日、突然コタバル警察に逮捕された。5月16日の主要紙「テンポ」(電子版)などの報道によると、ディアナンタ記者は2019年11月9日インターネット上のウェブサイト「バンジャルヒット」に、地元の土地収用を巡るプランテーション会社と地域住民の対立を伝える記事を執筆、アップした。

 記事は「ジョリン・アグロ・ラヤ」(以下、ジョリン社)というプランテーション開発・運営会社が、地元民所有の土地を正規な方法ではなく収用した可能性を指摘した「盗まれた土地」との見出しの記事で、「この土地収用問題に地元ダヤック人が不満を抱き、南スマトラ州警察に訴えを起こそうとしている」という内容になっている。

 記事の中で問題にされたのが、地元の宗教関係者へのインタビューの中の「この土地を巡る争いは、ダヤック人とブギス人との紛争の引き金となるだろう」という引用部分だった。これがダヤック人とブギス人との民族間対立を煽り、紛争に発展する可能性がある、と判断されたのだ。

 騒ぎが大きくなると問題の発言を引用された宗教関係者は、「自分はそんなことは一切言っていない」と内容を否定し、ディアナンタ記者による捏造を示唆した。そのことも、記事公開から半年も過ぎてから、警察が動く一因になったようだ。

企業と住民の土地問題記事が民族対立を扇動

 ところで、この記事の中で不正な方法で土地収用をしているとされたジョリン社は、南カリマンタン州出身のビジネスマンアンディシャムスティン・アルシャド(俗称ハジ・イサム)氏の所有する会社なのだが、そのイサム氏はブギス人という異なる民族であることから、記事の公開直後から「ブギス人とダヤック人の間の緊張を高め、紛争を招く可能性がある」として大きな問題となっていた。

 そのためこの件は、同州の報道協会が間に入って解決の道筋が探られ、2020年2月の時点で「確かにこのディアナンタ記者の記事は民族間の緊張を高める偏見に基づく内容と言えなくもなく、不適切である」と判断、ディアナンタ記者が記事をアップした「バンジャルヒット」などとパートナーとして提携する地元メディアグループ「クンパラン」の編集長に対して警告するとともに、「責任の所在と記事掲載の詳細の説明を求める」と通告したことで「一件落着」したはずだった。

 それが突如、警察が捜査に乗り出し、しかも記事を書いた記者を逮捕するという事態になってしまったことを不可解に思う向きもある。

 その一方で、今回の記者逮捕にはジョリン社のイサム氏が関係していることから、地元では、2018年6月10日にコタバル市の収容施設で死亡した記者、ムハンマド・ユスフ氏の事件との共通点を指摘する見方もある。

 ムハンマド記者は、今回のディアナンタ記者と同じように、地元住民とイサム氏が所有する別の会社との間の対立を取材して記事を執筆。それがITE法違反の名誉棄損罪に問われて身柄を拘束され、収容中に死亡した。

 今回の突然ともいえるディアナンタ記者の逮捕について、地元警察は「同じような民族の対立を煽る記事を再び書く可能性がありそれを阻止する必要があった」と説明しているが、仲介にあたってきた報道協会は「ディアナンタ記者は協会や警察の事情聴取にも素直に応じるなどしており、いまさら逮捕するのは警察の過剰反応である」と警察批判を繰り広げている。

東南アジアでは100%の保証はない「言論の自由」

 東南アジアでは「報道や言論の自由」が100%保証されているわけではない。例えばタイでは国王や王族に関わる公式発表以外の報道は原則タブーとされ、そこに触れてしまった場合、最悪のケースになると「不敬罪」で刑事処罰の対象となる。

 またタイやミャンマーなど仏教徒が多数を占める国では、仏教高僧や仏教会など仏教に関係するタブーも厳然と存在する。そのため外国人観光客などが観光地の仏教遺跡で仏像に触れたり、仏教寺院敷地内に肌を露出した格好で入ったりすると、これも処罰の対象になりうる。

 それはインドネシアマレーシアブルネイなどのイスラム教寺院、インドネシアバリ島ヒンズー教寺院などでも同様で、そうした宗教施設に相応しい服装や態度、言動が求められることがある。

 そしてインドネシアでは、そうした宗教上の禁忌に加え、政治・経済・社会・文化のあらゆる分野で触れること、報道すること、話題にすることすら可能な限り控えなければならない「タブー」が存在する。

インドネシア特有のタブー「SARA」

「民族(suku)」「宗教(agama)」「人種(ras)」「階層(antargolongan)」の4つがそれで、それぞれのインドネシア語の単語の最初の文字をとって「SARA(サラ)」と呼ばれている。

 民族はジャワ人、スンダ人、ダヤック人、アチェ人、ブギス人、バリ人などインドネシアに約300存在するといわれる民族で、それぞれに固有の文化、言語がある。

 宗教は国民の88%を占めるイスラム教徒、10%のキリスト教徒、1.7%のヒンズー教徒、0.7%の仏教徒などの各宗教。

 マレーシア系のインドネシア人にメラネシア系のパプア人、華僑の中国系インドネシ人、アラビアインドネシア人などの「人種」。

 そしてインフォーマルセクター従事者や歴史的背景に基づく王族や貴族の末裔、財閥関係者のほか、かつて共産主義者として投獄、差別された思想政治犯関係者や農業・漁業従事者、さらに近年はLGBTなどの性的少数者なども含めた「階層」である。

 最近のインドネシアでは、イスラム教の宗教施設であるモスクイスラム教が禁忌とする犬を連れて入ろうとした統合失調症の女性が拘束されたり、モスクスピーカーから流れる音声がうるさいと文句を言った仏教徒の女性が逮捕されたりするなどの事件が起きているが、これらも一種のSARAに関わる問題といえる。

 さらに言うなら、2019年8月17日インドネシア独立記念日にジャワ島スラバヤのパプア大学生寮で起きたパプア人への差別発言事件は瞬く間に全国のパプア人による抗議運動に発展。パプア地方では運動が暴動へと過激化し、非パプア人の移民を含めた約40人が死亡する事件に発展した。これほど事態が過熱したのもSARAに触れる問題だったからだ。

 この時ジョコ・ウィドド大統領は、いち早く動き、差別発言の問題視と再発防止策の徹底、さらに治安部隊現地急派、パプア地方のインフラ整備拡充という「アメとムチ」による硬軟両面での対応に追われた。「この問題を放置すれば国家、民族の分断に発展する可能性がある」との焦燥感が、ジョコ・ウィドド大統領を突き動かしたといわれている。

 インドネシアでは、国是である「多様性の中の統一」を実現するためにも、異なる民族、宗教、人種、階層の間に横たわる問題は全て「触れてはならない問題」「あえて問題化すれば政治社会経済の混乱を招きかねない根の深い問題」と一般に理解されている。それが「SARA」なのである。

異例の警察による逮捕の背景には何が

 ただ一般的に言って、警察などの治安当局がSARAを問題視して誰かを逮捕することはあまりなく、宗教関係者や人権問題関係者、あるいは政治指導者、社会学者などが、社会の根底、国民の潜在意識の中に存在する課題として問題提起や説明されることが大半だ。

 そうした中での今回の逮捕劇。直接の容疑はITE(電子情報商取引法)違反だが、これまで同法違反で逮捕、あるいは検挙された報道関係者は名誉棄損容疑による14人で、SARAに関連しての逮捕はディアナンタ記者で3人目、非常に少ないのが現実だ。ただし裁判の結果、同法違反で有罪となれば、最高で禁固6年の刑となる可能性がある。

 しかし、今回の件で明らかになったのは、タブーを犯してしまった記者を逮捕したから事態が収束する、というわけではないということだ。むしろ、ディアナンタ記者が逮捕されたことで、記事を巡る騒動が大きくなった。そのため、責任を問われたメディアグループの「クンパラン」の編集幹部は、地元メディアなどに対して「パートナー社のウェッブ報道の内容にまで我々は責任がない」として責任回避に動きだしているという。

 そうなることが予見できていたからこそ、報道とSARAの問題については今回も報道協会などが解決に当たっていた。そこに警察が記者逮捕に乗り出したことで「問題がさらに大きくそして複雑になった」(報道協会)。警察が動いた裏に何らかの糸や働きかけがあったのか。同報道教会では、ジャカルタの国家警察本部に対して、「南カリマンタン警察による今回の対応について内部調査をするべきだ」と要望を提出する事態となっている。

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2016年には、キリスト教徒でもあるジャカルタ州の知事がイスラム教の聖典コーランを冒涜したとして、知事の即時辞任を求め、イスラム教徒による大規模な抗議活動が起こった(写真:AP/アフロ)