(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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戦争が増えると城も増える

  南北朝時代に入ると、もう少し本格的な城が築かれるようになります。日本のあちこちで、武士たちが幕府方と朝廷方、北朝方と南朝方に分かれて戦うようになるからです。

 といっても、この時代の城はまだまだ土造り。土地を平らにならして曲輪を造り、必要な場所に空堀を掘り、柵や木戸を設けたような城です。こうした素朴な城が、戦いのたびに必要に応じて築かれ、戦いが終われば用済みになりました。

 様子が大きく変わるのは、室町時代の後半、15世紀の半ばくらいからです。まず、1452年に関東地方で享徳(きょうとく)の乱という大きな内乱が起き、1467年には京都で応仁の乱が始まります。室町幕府の統制力は失われて、各地の勢力が、たがいに実力で領地を支配しようとする、戦いの時代に突入します。戦国時代です。

 日本全国にある城の総数は、4万とも5万ともいわれていますが、そのほとんど、おそらく80〜90%くらいは、戦国時代に築かれたものです。なぜ、そんなにもたくさんの城が築かれたかというと、答えは簡単で、たくさん戦争をしたからです。

 日本のあちこちで、いろいろな勢力が入り乱れて戦うと、情勢が複雑になります。すると、戦いの様相も複雑になって、作戦上の駆け引きが大切になってきます。

 たとえば、前線に大軍をずっと張り付けておくと、兵たちが疲れてしまうし、兵糧の補給も大変です。主力部隊はいったん後ろに下げて、前線は少人数でしばらく持ちこたえたい。本拠と前線の間があいてしまったら、途中に中継基地もほしくなります。

 本隊が敵の主力とにらみ合っている間に、山あいの抜け道をとおってきた敵の別働隊に、横あいを衝かれたりするのも困ります。部隊を出して、抜け道を警戒させなくてはなりません。送り込まれた部隊は、敵をいち早くキャッチできるように、道を見下ろせる山の上に陣取ります。そして、夜討ちを食らったりしないように、敵を防ぐ工夫をします。

戦国の城は使い捨て?

 これが、築城になります。ですから、戦国の城造りは、大急ぎ。どんなに立派な城を計画しても、できあがる前に攻められたのでは、意味がありません。明日、攻めてくるかもしれない敵に備えて、取りあえず防げるようなものを造る。それが、戦国の築城です。

 使うマテリアルも技術も、その場で調達できるものが基本となります。前線では、石工や大工といった、専門の技術者を呼んでくる余裕もありません。現地にいる兵たちと、せいぜい動員した農民くらいで、作業をこなさなくてはならないのです。

 一方、具体的な任務のために築かれた城は、任務が終われば役目も終えます。戦いの局面が変われば、別の場所に新しい城が必要になります。こうして、さまざまな城を築いては捨て、築いては捨て、と繰りかえしていった結果、日本全国に何万もの城跡が残されることになったのです。

 こんなふうに書くと、戦国の城は使い捨ての紙コップみたいな、ちゃちなものだと思うかも知れません。でも、考えてみて下さい。いくら使い捨てとはいっても、簡単に落とされるようでは、生き残ることができません。限られた時間と手間で、限られた材料と技術を使って、簡単に落とされない城を築くにはどうするか。

 縄張りを工夫するしかありません。なので、土造りの戦国の城は、パッと見はタダの山か雑木林のようで地味ですが、よく見ると、実戦的な工夫が凝らされたものが多いのです。

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埼玉県嵐山町の杉山城(撮影/西股総生、以下同)