本稿は不定期連載「無駄な事にまじめに取り組むシリーズ」の一つ、【「巨頭オ」の看板がみつかった?噂の現場に行ってみた】の後編となります。前回までは、2018年にツイッターで話題になった、鹿児島県で発見されたという「巨頭オ」の看板探しで現地を訪れ、何もなかったというところまでを報告。

 本稿はそこからさらに、周辺に何か「巨頭オ」に関する言い伝えその他がないか、調査した結果のレポートです。

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【注意】
・本稿はWEB記事にはあるまじき文量があります。読むのに少し時間がかかるので、時間がない方はブックマークをして暇なときにゆっくりお読みください。
鹿児島での調査は前後編で計3回(他取材のついで含)行っています。記事では一連で紹介していますが、実際は時期が異なります。

■ さらに調査

 現地に看板がなかったので、ありませんでしたー。だけでは「巨頭オの村は鹿児島県にはない」「巨頭オも存在しない」とは言い切れない気もするのです。

 それにこの手の「オカルト話」が本当に存在するならば(話がですよ)、地域に残る何かの伝説や史実と関わり合っている可能性があります。ヒントは付近の神社や、歴史資料館、博物館、伝説(民話/昔話)にある場合が多く、一つ一つを丁寧に調べていくと、全く同じ年に起きた別の出来事や、似た言い伝えなどが見つかり、パチッパチッとパズルのピースがはまって、オカルト話が誕生したいきさつが分かることがあるのです。

 筆者は先述したとおり、元がオカルト好き。ただし言われたことを鵜呑みにして盲信するのを趣味としているわけではなく、元となった言い伝えの地に足を運んで付近を調査し「一人歴史謎解きミステリー」をするのが趣味。中には10年ぐらいかけてもなお、パズルのピース集めをしているテーマもあります。それにこのシリーズは「無駄な事にまじめに取り組む」がモットー!次はこの趣味のノウハウを活かして、付近に「巨頭オ」に関する伝説がないか調べていきます。

 まず訪れたのが、巨頭オの看板があったと噂された場所近くの金峰山(金峯山)。かつて山岳信仰の一種である修験道の道場であったとされ、山の9合目付近には金峰(峯)神社(旧名:蔵王権現社)が鎮座しています。旧社名にある「蔵王権現(金剛蔵王権現)」とは修験道における本尊であり、かつてこの山が修験道の道場であったことを今に伝えるお社です。


 金峰山にあった看板によると由来は「推古2年(594年)に大和吉野(現、奈良県)の金剛蔵王の分霊を招き10月19日この山に移したという」(金峰山由来記)とのこと。鹿児島県神社庁のHPでは同等の説明に加えてさらに詳しく書かれており、かつてこの地が古代人の自然崇拝、山岳信仰の場所であったこと、御祭神は現在「二十七代安閑天皇」となっているが、「金峯山神とも言い伝えられる」ことが紹介されています。

 現地に着くと、鳥居の手前に金峰山展望所をかねた大きな駐車場が用意されていました。


 そこに車をとめ、三つの鳥居をくぐって、神社の脇をとおり抜けて山の頂上を目指していきます。途中、この地に残る伝説を説明した看板でもないか……と探しつつ登ったのですが、唯一見かけたのが金峰山に関する看板。そこには由緒のほか「稚児の宮」という祠の伝説が書かれていました。


 伝説の内容は、幼くして溺れ死んだ子どもをこの地にまつったところ、岩のふちから絶えず水が流れるようになった。この水は、子の死を悲しむ母の涙と言われている。といったもの。巨頭オとはこれっぽっちも関係なさそうです。


 その他には、金峰山開山1400年を記念した石碑。記念碑の説明書きにある山形県鶴岡市長野県川上村、奈良県吉野町、山口県鹿野町、熊本市は、どれも「金峰山」という修験道の道場となっていた山があるところ。碑の建立当時、合併して南さつま市となる前の日置郡金峰町だった時代は、金峰山の山岳信仰を通じて自治体間の交流があったようです。これにも特に、巨頭オに関することは書かれていませんでした。




 さて、神社の脇を通り抜ける前には、きちんと本殿にご挨拶(お参り)。そして、いよいよ山道に入っていきます。駐車場から頂上まで大した距離はないのですが、神社の場所から徐々に足場の悪い道になっていきます。頂上付近では岩がゴツゴツした場所も。筆者は幸い運動しやすいシューズを履いていたので何とか登りきれましたが、散歩気分で行くと痛い目を見ること間違いなし。もし行くことがあれば、動きやすい服装と靴をおすすめします。


 そんなこんなで20分ほどかけてでしょうか、ようやく頂上までたどり着きました。頂上にはあちこちにむき出しの岩が有り、少しひらけた場所には鉄柵で守られた磐座(いわくら)がありました。




 見た瞬間ふと、過去に訪れた奈良県桜井市・大神神社のご神体「三輪山」の磐座(山頂の奥津磐座にはオオモノヌシノカミが鎮まるとされる)を思い出しました。祀られ方が似ているな、と。もしかしたら記憶違いかもしれませんが……。三輪山は入山(登拝)に際し撮影禁止が求められるため写真がなく、記憶を確認しようにもできないのが少し残念です。

 山全体がご神体で「神宿る山」と呼ばれる三輪山と似て、金峰山もまた山全体をご神体とし「神降りの峯」と呼ばれ古代より大切にされてきたという経緯があります。頂上の柵で囲われた場所についての説明板が一切なかったので、あくまで筆者の想像でしかありませんが、ここも三輪山の磐座と同じように古代人らが祈りを捧げた聖地か、はたまた真似して再現した場所か……。想像はつきません。


 山頂からの景色ですが、事前調査で出てきた「吹上浜から、桜島、さらには開聞岳まで見える」という噂どおり、それぞれ違う場所から見ることができました。ところどころ木や山陰が邪魔になり一望というわけには行きませんでしたが、それでも絶景であることは間違いなく、遠くに見える山を眺めながら、思わず何か心洗われるものを感じずにはいられませんでした。

 ……と、古代のロマンに思いをはせ、絶景に心奪われている場合ではないのです。私の今回の目的は「巨頭オ」。現代を生きるオカルト伝説「巨頭オ」探しなのです。

■ 昔話にヒントは?

 この手の調査をするとき、もう一つ手がかりになるのが地元に残る「昔話」。これにも巨頭オに関するものがないか……近くの大きな神社から、博物館や資料館、さらに少し足を伸ばして霧島にある仮面に関する資料館や民族資料館までと、複数足を運んで(神社5か所、史跡5~6か所、博物館・資料館6か所 ※紹介しきれないので記事掲載は極一部です)調べてみましたが、これまたさっぱり。全くヒントが見つかりません。

 あったといえば、ネットでみかけた金峰山の喧嘩話ぐらい。いちき串木野市薩摩川内市の境にある冠岳と、「薩摩半島の三名山」の仲間である指宿市の開聞岳、南さつま市の野間岳、それぞれと喧嘩したという昔話です。細かい設定はことなりますが、大きくは似ており、互いに物を投げて(石、木、燃える薪、矢、など)て相手を傷つけた、その結果が現在の山容(山の見た目)であるというお話でした。

 怪談にしろ、伝説にしろ、地域にあるものなら付近を調べれば、一つ二つはヒントが見つかるものなのです。それが全くということは、この地に「巨頭オ」に関わる言い伝えやその他がもともと無い、としか考えられません。

 ちなみに、「巨頭オ」の手がかりをもとめて、鹿児島県に昔からある「巨人伝説」も少し調べています。巨頭オの村に現れた「頭の大きな何者か」に共通するものがあるのではないか?と考えたからです。

■ 鹿児島に残る巨人伝説「弥五郎どん」

 訪れたのは、金峰山から陸路で約100キロ、錦江湾を船で渡ったとしても約80キロ離れた場所にある、曽於市大隅町岩川。「弥五郎どん」という巨人伝説(大人伝説)が今に残る地域です。正直「関係ないだろうなぁ」という気持ちの方が強かったのですが、伝説などは広範囲に拡がり、伝わる内容が少しずつ異なっていることがあります。このため丁寧に調べてゆくと、少し離れた場所で意外なヒントが見つかることもあるのです。

 鹿児島県の大隈地方や、隣接する宮崎県の南西部一帯に伝わる昔話の弥五郎どんは巨大な男で、山に腰掛けたり地域の人にいたずらしたりと、全国区でいう「だいだらぼっち」のような“ゆるふわ”物語で語られています。

 しかし、地域には別の話もあり、弥五郎どんの正体は「隼人の反乱」(720年)で「朝廷と戦った隼人族の長」という説や、6代の天皇につかえたとされる朝臣、武内宿禰(明治時代から戦後まもなくにかけ、何回か紙幣の肖像にもなっている)という説が存在しています。

 弥五郎どんを今に伝える「岩川八幡神社」では、約900年(1300年説もある)の伝統をもつ「弥五郎どん祭り」が毎年11月3日に行われています。祭りのはじまりは「隼人の反乱で死んでいった隼人族の人々のための放生会(慰霊祭)」とされていますが、「五穀豊穣を祝う豊祭」という側面ももっています。祭りには身長4m85cmの弥五郎どん人形が登場して「浜下り」(練り歩き)を行います。



 到着した岩川八幡神社。本殿に向かい軽くその横をみると、小さい弥五郎どん人形(子弥五郎どん)が置かれていました。祭りで使われる巨大な弥五郎どんは、祭りのときだけ組み立てられるもの。祭りの日以外は、解体され神社の奥で保管されているので見ることができない代わりに、代理として子弥五郎どんが置かれているそうです。



 祭りで使われる弥五郎どんの組み立ては、毎年祭りの日の午前1時から行われます。午前1時という真っ暗闇のなか「弥五郎どんが起きっど~」という声とともに、触れ太鼓が響き渡り「弥五郎どんの目覚め」が町中に知らされます。それから拝殿の中である程度まで組み立てられ、狭い出入り口から参加者の手により運び出されます。

 神社の境内には、弥五郎どんが立って入っても大丈夫なくらいの大きな建物も別にあるのですが、ある程度のところまでは狭い拝殿の中で必ず組み立てられます。これは、一説によると出入り口を産道に見立てて、弥五郎どんを出す時の行為を通して「出産」を再現するという、「再生/復活」の儀式の一種とも言われています。おかげでこの祭り自体が弥五郎どんを「年に一度復活させる/蘇らせる」意図があるのでは?という説も。とはいえ、重ねて書きますがあくまで一説。あくまで一説です。


 しかし、午前1時という暗い時間から始まる組み立ての儀式には、神秘性を感じずにはいられません。復活や甦りはあくまで「諸説あり」の一つでしかありませんが、戦いにやぶれて大和朝廷下に組み敷かれた隼人族の人たちが、ささやかな抵抗として密かに行っていた儀式……と想像してしまい、どうしてもロマンをかき立てられてしまいます。

 なお、祭りにでる本物の弥五郎どんは祭りの時にしか見ることはできませんが、すぐ近くにある「大隅弥五郎伝説の里」の「弥五郎まつり館」(入場料:無料)で実物大のレプリカが常設展示されています。



 「弥五郎まつり館」では、弥五郎どん祭りの歴史から、弥五郎どん祭りの影響が疑われる県内の神社のお祭り、さらには岩川以外にもある弥五郎どん伝説(宮崎県都城市山之口町の「的野正(まとのしょう)八幡宮」と日南市飫肥の「田ノ上八幡神社」)についても紹介。訪れることで、少しディープな弥五郎どん伝説を知ることができます。


 ほかにも、建物のすぐ裏手には高さ15mもある弥五郎どんの銅像があります。この15mという高さは、偶然にも漫画「進撃の巨人」に登場するエレンが巨人化したときと同じ高さ(筆者調べ)。進撃ファンで、巨人化エレンの大きさを体感したい人は訪れてみるといいかもしれません。




 と、話がそれまくりましたが、本題の「巨頭オ」よ……。どこをどう調べて、細かく見ていってもまー近い話すら一切出てこない。せめて何か共通するものがないかと、弥五郎どんまで調べたのに。とはいえ、弥五郎どんは誰が正体であれ、地元の人にとっては「神(英雄)」であり「よかにせ(イケメン)」という対象。巨頭オとの共通点なんて、これっぽっちもあるはずがなく……。わかってましたけどね。

 ここまで探して何もみつからないってことは、やはり鹿児島県と「巨頭オ」には関わりがない、ということなのでしょう。結構頑張ったんですけどね。最後の方は、「むしろ何かあってくれ!」と期待ばかりしていました。

 ツイッターを発端とした、今回の鹿児島県での「巨頭オ」探し。私の調査では「ないものはない」という結論に至り、目的の成果は得られなかったのですが、私個人は「金峰山に関する歴史や民話の知識」から、いくつかの博物館や民族系資料館で知った「指宿は東洋のポンペイ」(過去におきた開聞岳の噴火で色んなものが埋まっているらしい)という知識、さらには「南九州には広く仮面文化(神面王など)がある」や、「隼人族の伝説にはロマンしかない」、「弥五郎どん伝説にはオカルトファンを興奮させる神秘性がある」、「弥五郎どんはよかにせじゃっど!」といった知識を得ることができました。まぁ、普通の人はほぼ役立つことない知識ですが、私は仕事がライター業なので、いつか何かで役立つかもな、と期待しています。いつか役立てばいいなぁ。

 鹿児島といえば、幕末に関する印象がつよく、西郷さんや人斬り半次郎(中村半次郎、後の桐野利秋)など様々な傑物たちが注目されがちです。しかしそのさらに前の時代には、古代史ファン、ミステリーファンにはたまらない、まだ明かされていない様々な魅力が埋もれています。今回記事で紹介した金峰山や岩川八幡神社は、鹿児島県内では有名でも全国区では少しマイナーな場所。せっかくなので、この記事を通じて、せめてこれら場所が少しでも注目されれば私の苦労も報われます。といっても、「巨頭オ」の看板があったとされる場所には無駄に行かないように。行っても「なんにもありません」から。

<前編>
「巨頭オ」の看板がみつかった?噂の現場に行ってみた<前編>

(宮崎美和子)

「巨頭オ」の看板がみつかった?噂の現場に行ってみた<後編>