(舛添 要一:国際政治学者)

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 プロレスラーの木村花さんが、5月23日、亡くなった。SNS上での誹謗中傷に悩んで自ら命を絶ったものとされている。将来の女子プロレスを代表する才能溢れる人材だっただけに残念である。

 彼女はフジテレビのリアリティー番組『テラスハウス』、通称「テラハ」に出演していたが、この番組はネットフリックスで先行配信されていた。男女3人ずつ6人が一つの家で共同生活することで起こる様子を記録して放映する番組で、若者の間で人気があった。

 この番組の中での木村花さんの言動に対して、SNS上で「死ね」、「消えろ」、「気持ち悪い」、「ブス」とかいう汚い言葉での非難が続いた。彼女は、それを気にして悩んでいたという。

 彼女を死に追いやったのは、今の日本社会が抱える様々な病理である。

「台本なし」でも演出はあり

 第一は、テレビ業界の黄昏である。私は、海外から帰国してから40年間にわたって、この業界に関わり仕事をしてきたが、かつての栄光の時代から、今や凋落の時代へと移りつつある。

 バブルの頃は、制作費も潤沢にあって、国際政治の焦点となっている現場に取材に行って、そこから中継で解説することが可能だった。安全上の問題もあるが現在では近くに駐在する特派員がリポートするのみになっている。

 今は、ほとんどの民放のテレビ局は、本業のみでは黒字を出せないようなじり貧状態にある。不動産業などで、本業の赤字を補填するような苦しい状況である。そのため、安上がりで、しかも視聴率を稼げる番組作りが主流となるのである。クイズ番組が全盛時代なのも、そういう裏事情がある。海外取材のようなリスクもない。

 民放の視聴率至上主義は仕方ないが、他局との競争に負けて低視聴率に喘ぐ局ほど、無理をしても視聴率を稼ごうとする。リアリティー番組は、予見不可能性、意外性、アドリブ性、素人性などが受けて、視聴率をとりやすい。

 テラハも、「台本なし」をうたい文句にしているが、実際は演出が加わっており、「作られた」バラエティー・ショーである。そのため、出演者は素人でも一定の演技が要求されるのであり、もはや生身の本人ではない。しかし、生地そのままであるかのごとく振る舞わねばならず、視聴者もそう信じてしまう。そして、過剰に反応し、SNSで非難の矢を放つのである。

 海外では、この種のリアリティー番組で、自殺を含め、人生を狂わせてしまった出演者も出ている。危険な麻薬のようなものである。テレビ業界の低迷が続くかぎり、このような麻薬の誘惑に負けてしまうことになる。

SNSの登場でいじめがますます陰湿に

 第二の問題点は、「いじめ」である。戦後の日本は、大人も子どもも、いとも簡単に「いじめ」に走る社会になってしまった。そして、その傾向は、SNSの登場とともに、ますます酷く、そして陰湿になっていっている。

 実は「いじめ」という言葉は、私の知る限り、英語、フランス語ドイツ語イタリア語などにはない。日本特有の現象である。木村花が受けた非難を、たとえば英語ではパワハラ、セクハラなどで使うハラスメントという表現を使う。しかし、私は、「いじめ」という日本語が最適な表現だと思っている。

 人間の持つ攻撃性が他人に向けられる極限形態が殺人であり、自分自身に向けられる自殺になる。殺人率や自殺率を調査した研究(たとえば、影山任佐・石井利文「イジメ考−攻撃性と新人類−」『こころの科学』第67号、1995年)によると、戦後は若い世代ほど、それらの率が低下していったのであり、それは国際比較でも特徴的である。

 つまり、諸外国の若者に比べて、日本の若者は攻撃性が著しく低下しているのであり、その背景には、戦後の日本では、徴兵制もなく、戦争体験もないことがある。この攻撃性の減少が、「いじめ」という形で発現するのである。

 日本の若者の攻撃性は、相手に殴りかかるというような能動的・直接的・物理的なものから、受動的・間接的・言語的なものへと移行している。具体的には、悪ふざけ、冷やかし、からかい、仲間はずれ、言葉での脅しなどである。これこそが「いじめ」なのである。登校拒否も、その一形態と考えてよい。

「いじめ」が社会問題化したのは、昭和50年代であるが、10代の青少年の攻撃性が低下しはじめたのもこの時期である。

 さらに付言すれば、親や教師の威信が低下し、家庭における「父親不在」的状況が反抗期無き若者を生んだのである。また、受験競争、偏差値教育の若者は、他人からの評価に敏感である。そこに、多数の傷つきやすい青少年が生まれてくる。

ポピュリズムにつながりやすいSNSでの攻撃

 その後もこの傾向は続いていったが、それはSNSの登場とともに、ますます激しくなっている。匿名で誹謗中傷ができるという新たな武器が登場したのである。自らは匿名の安全地帯に身を置いて、汚い言葉で相手を罵倒することができるようになったために、心理的な抑止力が無くなってしまったのである。これこそ、陰湿な「いじめ」以外の何物でもない。

 そしてこの「いじめ」は、集団リンチにつながり、対象とされた者を死に追いやってしまう。今の日本では、若者だけではなく、この「いじめ」に快感を感ずるものが全世代に拡散しており、まさに由々しき事態である。

 新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言が発令され、外出自粛が続きストレスが溜まると、SNSを使った「いじめ」が嵩じてしまう。そして、フェイク・ニュース(嘘)を含むSNSでの発信がポピュリズムの一つの源となっているのである。その傾向は、世界よりも日本において甚だしい。

 たとえば、今回のコロナ騒動では、陽性になった者や医療関係者に陰湿な「いじめ」を行使する者がいる。海外では、たとえば感染の酷いイタリアを見ても、患者を温かく皆で守り、医療従事者には惜しみない称賛の拍手を送っている。日本では、テレビ番組で海外の真似をして「医療従事者に感謝を」と呼びかけても、何となく付け焼き刃的な感じがするのである。

 いつになったら、日本は「いじめ」というリンチ社会から脱却できるのであろうか。

SNS規制の大統領令にサインしたトランプ

 第三の問題は、SNS時代の法の不備である。

 私も、木村花さんが受けたような罵詈雑言をいつも投げかけられている。どのような政治思想を持つかは個人の自由であるが、思想的に異なる者が、SNSで攻撃してくる。論理明快な反論ならまだしも、感情的な攻撃のみである。これに集団心理が加わると、いわゆる「炎上」現象となってしまう。このような誹謗中傷は、表現の自由に対する看過できない挑戦である。その先には、言論を暴力で弾圧する独裁社会が待っている。「いじめ」がポピュリズムの重要な要素だと言ったのは、そういう意味である。

 SNS上であっても、たとえば「殺すぞ」と書き込めば、それは刑法222条の脅迫罪に当たる。かつて、私に「殺すぞ」と殺害予告した者に対して、警察が捜査し、犯人の身柄を確保したことがある。

 しかし、木村さんや私に「死ね」と言っても、脅迫罪に当たらない。つまり、今の刑法では取り締まれないのである。

 使える法律としては、「プロバイダ責任制限法」(2002年5月施行)がある。たとえば、私が被害者の場合、損害賠償請求をするには、相手の氏名や住所などが必要である。そこで、この法律に基づいて発信者情報の開示を求めようと思えば、裁判が必要であり、しかも罰則もない。時間も費用もかかるし、開示要求に応じない事業者もいる。

 そのような点は以前から問題になっており、総務省も、裁判なしに開示求めることができないか、発信者情報の中身を増やせないか、海外事業者にも適用できないかといった課題について、検討を開始するようである。

 そのような法整備を行う場合には、憲法で定められた表現の自由を侵害しないような注意が必要である。これは言うは易いが、行うは難しい課題である。トランプ大統領は、自分の投稿に「根拠がない」と警告したツイッター社に反発して、SNS規制の大統領令に署名した。これはこれで問題である。

 権力に対する自由な批判が封殺されることがあってはならないが、木村花さんのような悲劇を生んでもまたならない。

 結局は、皆が基本的な良識を持つしかないのだが、それに過大な期待は持てないのが、悲しいかな日本の現状である。

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