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ラリー・ポルトガルで5度の優勝

text:Richard Heseltine(リチャード・ヘーゼルタイン)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
一見、穏やかな雰囲気のマルクアレン。時折気難しそうな表情を浮かべる。インタビューを始めると、不意に笑顔を作った。「早く終わらせましょう」 といいたげなように。

世界ラリー選手権WRC)で活躍した、フィンランドラリードライバーと知られる、マルクアレンカリスマ的なスーパースターへ迫るために、質問を投げかける。

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フィアット124アバルト・ラリー

ポルトガルで毎年開かれる、カラムロ・モーターフェスティバル。にぎやかな雰囲気で、ここでは落ち着くこと自体が難しかっただろう。

フィンランドドライバーは、ラリーポルトガルで5度の優勝を遂げている。4万人近い来場者が、国旗やモデルカー、写真、帽子などへサインを希望するのに、不足のない偉業だ。大声で叫ばなければ、会話が成り立たない。

この数時間前、われわれはミュージアムの受付にいた。ヒーローはリラックスしているようだが、疲れてもいるようだった。

わたしはこの国が大好きです。ポルトガルでの成績は良かったですから。ここで15回ラリーを走っていますが、リタイアは1度だけ。いつも良い結果で走れるラリーでした」 と話すアレン

「モンテカルロなどでは、勝つことはできませんでした。でも、ポルトガルでは表彰台に登っていましたね。立つ位置はマチマチでしたが」

アレンは20年に渡りWRCで最もエキサイティングなドライバーであり続けた。誰よりも激しく戦いへ挑むように、容赦なくマシンを突き動かした。周囲の人の目には、そのように見えた。

次もマキシマム・アタック!

英国を会場としたRACラリーでも休憩の度に、続くステージへの質問が飛んだ。いつも死と隣り合わせの状況で、「次もマキシマムアタックです」 と淡々と話した。その次の夜も。

実際、彼はマキシマムアタックを繰り返した。全力で戦うも、結果的にWRCドライバーとして世界チャンピオンに登り詰めることはできなかった。論争の中で剥奪された、1986年の11日間を除いて。

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1980年マルクアレン

マルクアレンWRC129回のスタートを切り、19ラウンドで優勝。WRCへと切り替わる前の1978年には、ドライバーとしてFIAカップを獲得している。

彼は、801勝という、ステージ最多優勝という記録も長年保持してきた。2011年セバスチャン・ローブが記録を塗り替えるまで。

アレンの父親も、アイスレースチャンピオンアレンドライバーになっても不思議ではない。だが、父の経歴がモータースポーツを始めるきっかけではない、と主張する。

わたしの幼少期のヒーローは、ティモ・マキネン、ヘンリ・パウリ・トイヴォネン、ハンヌ・ミッコラだけです。飛ぶように速いフィンランド人、フライング・フィンの、元祖です」 と話している。

1967年、16才の時にラリーフィンランドの前進、1000ラリーを観戦しました。この時のドライバーを見て、ラリーカーを運転したいと思ったんです。モータースポーツの入り口として始めたレーシングカートバイクが、さらに夢中にさせました」

クルマの免許を取るとすぐに、競技へ参加しました。最初のイベントは、ハンクラリー(スノー・ラリー)でした。結果は2位です」

177位からの壮絶な巻き返し

「18才になると、1969年フィンランドジュニアカップで優勝しました。その翌年も。わたしスターとして見上げていたドライバーたちと、同じイベントでの戦いです。とても素晴らしい体験でした」

アレンラリーを始めたのは、ルノー8ゴルディーニ。サンビーム900インプが、印象深かったという。

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フォード・エスコートRS1600

1968年ヨーロッパラリーチャンピオン、トイヴォネンが、彼がアマチュアからプロへステップアップするのに貢献してくれた。「わたしはトイヴォネンからサンビームを購入したんです。わたしにも関心を寄せてくれました」

「彼はハードな人物でした。わかりますよね。とてもタフで、多くを学びました」 アレンが振り返る。彼の風貌は、ずっと昔に伝説的なラリードライバーになって以来、あまり変わらない。

1970年1000ラリーでは、グループ1のオペル・カデットを借りて出場。だが、彼のラリー人生の中でも最大のクラッシュを起こし、リタイアしている。

アレンフィンランドで、ボルボ販売代理店のドライバーとしての座を獲得する。マルボロ・レーシングチームフィンランドスポンサーを背負った。

1973年アレンは一躍脚光を浴びることになる。デイビッド・サットンのフォード・エスコートをドライブし、リンディスファーン・ラリーへ出場。英国のRACラリーでは、モータークラフトのRS1600を駆った。

RACラリー会場のサットン・パーク初日、彼はコ・ドライバーのイルッカ・キビマキと走り、クラッシュで177位へ順位を落とした。そこから壮絶な巻き返しを決めたのだ。

フィアット124アバルト・ラリーでの勝利

ステージの高速区間でコースアウト。ハンヌ・ミッコラがクラッシュしたのと同じコーナーです。多くの人がコースから離れて見ていました。5速に入れて、かなりのスピードのまま、体勢を崩して立木へ突っ込みました」

クルマは酷い状態でしたが、観客の手を借りて道へ戻しました。その後すぐに、別のドライバーも同じ場所でクラッシュし、リタイアしています」

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ランチア037

「安全上、そのクルマも動かす必要があり、われわれも再スタートにかなりの時間を失いました。でも、次のステージでは最速でしたよ」

RACラリーの最終日、22才のアレンは3位にまで順位を戻していた。その戦いぶりに、ファクトリー・ドライバーとしての要望が殺到。1974年は、フォードフィアットチームで走ることに決まった。

「同じ年に2つのチームで戦ったドライバーは、わたしだけだったと思います。最終的にどちらかを選ぶ必要がありました。フォードとの契約は、1974年シーズンの一部のみ。フィアットはより多くのイベントでの参戦を希望していました」

「エスコートは素晴らしいクルマでしたが、フォードにはフィンランドの重鎮(マキネンミッコラ)と、ロジャークラークが既に在籍していました。そこでフィアットを選んだんです」 

大きな笑顔を浮かべ、少し間を置くアレン。「もちろん、その駆け引きで、沢山のお金も得ましたけれど」

1975年フィアットで粘り強く速さを見せつけた。WRCポルトガルでは、フィアット124アバルト・ラリードライブし、初めての勝利を獲得した。

この続きは後編にて。


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