(福島 香織:ジャーナリスト

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 アフリカ系米国人ジョージ・フロイド氏が警官に拘束されたとき窒息死させられた事件から始まった人種差別反対の抗議運動は、あっとういうまに略奪、焼き討ちを伴う暴動として全国に広がり、30都市以上で夜間外出禁止令が出る状況となった。トランプ大統領は州民兵だけで治安回復ができない場合、陸軍を投入することも示唆し、実際、陸軍憲兵部隊がワシントンDC周辺に移動しているという。

 新型コロナウイルスベトナム戦争以上の犠牲者を出し、経済、社会が疲弊している米国で、さらにこんな自由と民主と法治の根本を揺るが騒動が収まらない状況には本当に震撼しているのだが、時折流れてくる、自由と民主と人権を尊ぶ揺るぎない価値観を示す米国市民のコメントや、警官の犯罪に怒りを表明しながらも暴動や略奪をやめるよう懸命に訴えるフロイド氏の家族、対話を呼びかけるアフリカ系市民、怒るデモ隊にひざまずいて対話を求める警官の写真や映像などを見ると、やはり米国の根底を流れる価値観は中国と正反対であるなと、とつくづく思う。

 恐怖政治、圧政によって維持された治安と、自由と民主があるがゆえに表面化する争いや対立、暴力ならば、私は後者の方がいいと思っている。もちろん私とは違う意見の人もいるだろうし、人の価値観はさまざまあっていいのだが、異なる意見や価値観の存在が許され、ぶつかり合うことが許されているのも後者の世界だ。

香港で堂々と“反中狩り”か

 さて、そんな米国を眺めながら、私は中国屋ジャーナリストとして香港情勢が気になっている。

 ついに香港に国家安全法制(香港版国安法)の導入が全人代で決定されてしまった。法律自体はまだ中身が公表されていないが、早ければ6月中頃にも公布され、公布日即施行日となるようだ。おそらくは7月1日の香港返還記念日に起こるであろう大規模デモを制圧する法的根拠にするために急いでいるのではないか、と思われる。

 香港では9月6日に立法会選挙が予定されている。もし妨害なく選挙が行われれば、で民主派候補が過半数を勝ち取る可能性はゼロではない。昨年(2019年11月の香港区議選挙での民主派圧勝を教訓とする中国は、香港版国安法によって選挙前に民主派候補を政治犯として捕まえてしまおうという魂胆なのかもしれない。中国公安部や国家安全部などの出先機関が香港に創設されるともみられ、香港で堂々と“反中狩り”が行われる可能性がある。

 こうした法律を根拠につかまった“政治犯”が、外国人裁判官が過半数を占める香港司法制度の公正な裁判を受けられるとは考えにくい。容疑者が中国に連行されて裁かれるなどのリスクも懸念されている。香港市民は、死ぬ気で抵抗するか、海外に逃げるか、家畜のように支配されるか、の選択肢しか残っておらず絶望感が漂っている。

 6月4日夜に予定されている例年のイベント天安門事件犠牲者追悼のキャンドル集会は、新型コロナ予防の集会規制によって許可されていない。だが、私のためにいろいろと情報を集めてくれている香港で友人たちは、各地で集会が自然発生的におこり、それがどのような暴力を受けるかわからない、わらかないが、やはり多くの市民が抗議の集会に出かけるだろう、と言う。友人の多くが「死ぬ気で抵抗する」を選択するというので、私まで沈鬱な気分に陥っている。

中国政府の「恐れ」とは

 今の香港の情勢を簡単にまとめると、中国の全国人民代表大会(全人代)が5月28日に香港版国安法導入を賛成2878票、反対1票、棄権6票で可決。

 香港事務を管轄する政治局常務委員の韓正(副首相)が5月23日に香港地区政治協商委員との接見を通じて発信したメッセージによれば、今回の香港版国安法の導入は昨年11月の四中全会(第四回中央委員会総会)で提案された。昨年後半から、“香港独立派”が「攪炒」(敵も味方も共に滅びる覚悟での騒動攪乱作戦)を主張し始め、外部勢力がこれに乗じて中国を攻撃しようとしているとして、突出した国家安全リスクとの認識を深めたのが理由の1つだ。

 香港には基本法と呼ばれる香港の憲法に相当する法律がある。基本法23条で香港自らが国家安全条例を制定することになってはいるが、いつまでたっても香港政府だけでは実行できず、最終的に中国政府がこの権利と責任を実行することになった、ということらしい。法治というものが理解できていない中国特有の論理の飛躍だ。

 だがその懸念の根本には、今、ミネアポリスから米国全土に暴動が野火のように広がったように、香港から中国本土に民主化要求や騒乱が広がることへの恐れがある。中国共産主義青年団中央のSNS「微博」公式アカウントは、米国の暴動を「これが(ペロシ下院議員が言った)美しい光景?」などと嫌味たっぷりにコメントしたりしているが、中央政府にしてみれば、一つ間違えば、あれは国内でも起こりうるリスクなのだという危機感をもっている。

 中国国内は恐怖政治で庶民の不満不平を抑えこんでいるが、なにかのきっかけで、容易にそれが表面化し、暴動や無秩序状態が起こりうることは、これまでの経験から中国共産党政権は十分に知っている。香港問題を長引かせて、そういうリスクを抱え続けるよりは、香港の経済的価値を捨てても安定をとるという決断をしたということだろう。

米国経済圏と決別する中国

 この全人代決定の翌日の5月29日、米トランプ大統領記者会見で、香港政策法に基づいて香港に与えられていた関税優遇や、香港人へのビザ優遇措置を撤廃すると発表。さらに世界保健機関WHO)との決別も宣言した。

 こうした米国の決断は、2019年11月27日に発効している香港人権民主法(一国二制度が維持されなかった場合の制裁措置を決める法律)に基づいている。トランプは香港版国安法は中英連合声明(正式名称は「中華人民共和国政府とグレートブリテン及び北アイルランド連合王国政府の香港問題に関する連合声明」)に違反していると批判し、一国二制度が破壊されたと認定した。トランプはさらに、香港の自由を毀損した香港高官と中国高官への制裁を含む「必要な行動」をとるとしている。

 トランプはまだ「必要な行動」の具体的な内容には踏み込んでいないが、香港市民も金融界もトランプの本気を見取って、手持ちの香港ドル資産を米ドルに換金し、香港中の換金ショップで米ドルが消えてしまうという現象も起きた。また香港島南区に米総領事館が所有している職員宿舎が売りに出されており、「米国が香港から職員をかなり引き上げるつもりのようだ」「不動産などの資産引き上げ準備に入った」などと話題になった。香港が国際金融センターの地位を失えば、香港から引き上げられる資金はざっと4兆香港ドルにのぼるといった推計も報じられた。

 香港には1300ほどの米企業があり、8.5万人の米国人が働いている。ほとんどが重要金融機関、あるいは金融業に関わりがある。中国側は、香港に米企業の方が多いので、優遇的地位撤廃によってより大きな損をこうむるのは米国経済だとしている。だが、中国企業が米国市場で上場したり、ドル建ての債券を発行する場合、香港で起債するのが一般的だ。厳しい米中貿易戦争中も香港が貿易の抜け穴の1つになっており、中国は香港貿易企業経由で高関税を回避して米国企業と取り引きしたり、米国が中国への輸入を禁止している米国製技術製品を香港経由で手に入れたりする方法も、若干は残されていた。その迂回ルートがこれで完全に閉じられる。今後、国際銀行送金に必要な国際銀行間通信協会のシステムSWIFT)のネットワークから香港の銀行を排除するなどの“核爆弾級”の措置もありうるという予測もあり、こうなれば米中金融戦争のステージだ。

 中国政府が、そうした状況になることを承知の上で香港版国安法を導入したということは、つまり、中国自身が米国経済圏と完全に縁を絶つと決断し、新冷戦構造の先鋭化に伴うブロック経済化に突き進む判断を下したのだと言えるだろう。中国経済がグローバル経済の恩恵を受けて成長してきたことを思えば、中国が経済成長をいったんあきらめ、別のなにか、体制の維持や国家のメンツを選択したという見方もできる。

 もちろん、米国も大きな痛みを伴うが、グローバルサライチェーンからの中国排除の動きはトランプ政権が当初から覚悟を持って進めてきたことだ。米国も、また企業の利益や経済以上に何かを選択したわけだ。

 どちらの痛みが大きいか、というと意見の分かれるところだが、私は中国だと思っている。それは世界の基軸通貨がいまだ米ドルである以上、香港金融センター潰しで苦しむのは、米ドルの外貨準備の裏付けがあって初めて信用を得ることのできる人民元の方だからだ。もっとも、デジタル人民元や新しい形の仮想通貨の登場が、こうしたドル一極体制にどのような影響力をもたらすかなど不確定要素はまだたくさんある。

沈む船から金と頭脳が流出する

 悲壮なのはこの米中対立の駆け引きのカードになってしまった香港と香港市民だ。

 香港財政長官の陳茂波は5月31日の立法会で「香港ドルと米ドルのペッグ制に変更はない。為替の安定と資金の自由な移動は確保されている。(国安法導入による米中の対立で)香港の国際金融都市の地位に悪影響はない」とコメントしたが、その時の彼の目には涙がにじんでいた。それは国際金融センターとしての香港の臨終を悟った涙ではないか、と言われた。

 香港ドルと米ドルのドルペッグ制はもともと、中国経済の影響力増大でかなりきしんでおり、対ドル下落が続いているが、いよいよ終焉の局面に入っているとみられている。陳茂波は、2兆香港ドル以上の預金と3兆香港ドル以上の外貨準備があるので、ドルペッグ制は防衛できると説明している。しかし、資金の自由流動と自由兌換は基本法第112条で保障されており、香港への信頼が完全に失われている今後、市民や投資家が資金を引き上げる行動を阻止することはできない。ちなみにシンガポールの非居住者口座の外貨預金が4月の段階で前年同期比44%増になっている。香港から移された資金だとみられている。これから、沈む船から鼠が逃げるように金と頭脳が流出するだろう。

 資産があり、教育レベルの高い富裕層は英国、オーストラリアカナダあたりを移民先に考え、連日、移民コンサル業は問い合わせに大わらわだという。英国は香港人の英国パスポート申請資格を緩和し、およそ300万人以上に英国パスポートを発行できるようにするという。中流階級は台湾への移民を望む人が多い。台湾には昨年9月から今年3月まで、毎月600人以上のペースで香港人が移住している。昨年の香港からの台湾移住者は5858人で前年比41.12%増。国安法導入が決まってから、蔡英文政権が香港の政治難民へのサポートを打ち出しており、今年はもっと増えるはずだ。1997年の香港返還前、あの天安門事件を起こした中国に帰属することを恐れて、多くの香港人が香港を脱出した。今回はそれ以上の“出香港記”となろう。

 心配なのは、移住できる資産もない、香港の普通の人々だ。死なばもろとも、と言わんばかりの覚悟で抵抗運動を続けている若者たちを、暴徒だ、馬鹿者だと切り捨て、あざ笑うようなまねだけはしたくない。あれほどの暴動を足元で起こす米国も、決して自由と民主の理想は失われていないのだ。

 残念なのは、日本が香港問題に対して「深い憂慮」というあいまいな表現しか立場を表明していないことだ。中国に忖度しているのか? この後におよんで習近平国賓訪問の実現を模索しているのか? この新冷戦構造の先鋭化とブロック経済化の行方を見極めてどういう立ち回りをするのか、日本政府にはそろそろ覚悟を決めてほしいものだ。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  香港「国家安全法」の衝撃、習近平が暴挙に出た理由

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