(小谷太郎:大学教員・サイエンスライター)

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 最先端の研究テーマというものは、分野外の人には珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)、日本語にさえ聞こえないことがしばしばあります。

 2020年5月8日東京大学大学院生・柴田直幸氏、吉岡信行・理化学研究所研究員、桂法称・東京大学准教授が、「量子の世界に『傷跡』を残す数理モデルを無限に構成する方法」を発見したと発表しました*1。論文は学術誌『フィジカル・レビュー・レターズ』に掲載され、さらに「編集部のお薦め」に選ばれました*2。業界注目の研究です。

 しかし「量子の世界」の「傷跡」とはいったい何ごとでしょうか。「数理モデルを無限に構成する」とはどういうポエムなのでしょうか。

 今回は、量子力学なんて食べたことないとおっしゃるかたを対象に、この量子力学の正統的な研究を、ガチで解説いたします。一緒に量子力学という分野の先端を垣間見てみましょう。

*1:https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/6864/
*2:https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.124.180604

量子力学とは

 量子力学とは、原子や分子や素粒子といったミクロな「物」を取り扱う科学です。今から100年近く前、ハイゼンベルクシュレディンガーやパウリやディラックその他大勢の伝説的な天才たちが、よってたかって創り上げました。

 そういうミクロな「物」を取り扱うには、どうして特別な科学が必要なのでしょうか。10 kgの重りに働く物理法則と、1 kgの重りの物理法則は同じです。0.00・・・(ゼロを25個省略)・・・0009 kgの電子に働く法則は違うものなのでしょうか。

 はい、電子や原子や分子などのミクロな世界を支配する法則は、日常見たり触ったりできる物体の法則とぜんぜん違うのです。

 例えば、ヘリウム原子などある種のミクロな存在は、同じ場所に同時に2個も3個も詰め込むことができます。

 もちろん私達の知る常識的な物体ならば、同じ場所を同時に占められるのは1個だけです。

 また例えば電子というミクロな「物」を穴の2個開いた壁に投げつけると、2個の穴を同時に通り抜けます。もうちょっと正確に表現すると、電子の存在を表わす「波動関数」が2個の穴を同時に通り抜けます。

 日常生活においては、常識的なボールを、2個の常識的な穴に投げつけて、その片方を通ったならば、もちろんもう一方は通っていません。私達は生まれた時からこうした常識をわきまえています。

 100年前の天才たちは、ミクロな存在の非常識な振る舞いに驚き、私達をしばる常識を全て捨てて、ある場所を占めることのできる粒子はいくつなのか、壁のどちらの穴を通り抜けたかを区別できるか、といった根本から物理法則を問い直し、創りなおさないといけませんでした。そうして誕生したのが量子力学です。

 この量子力学はまだ完成したとはいえません。ミクロの世界の法則はまだ分からないことが多くあるのです。量子力学誕生から100年近くたったのに、量子力学の原理に関わる根本的な発見がいまだに報告されます。今日も研究者たちが、実験装置や計算機や紙とペンを使って、この不思議な世界を探り、常識をくつがえし続けています。

最も基本的で最も不可解

 量子力学に登場する奇妙な事象の中で、最も基本的で、最も有名で、最も研究されているのに、最も不可解な存在が、「スピン」です。

 日常世界には量子力学のスピンに相当する現象が存在しません。そのため説明がはなはだ困難です。専門家でも、スピンを説明しようとすると、

「自転みたいだけど自転と違う」
「上向きか下向きかの2通りの基底状態がある。あ、量子数が2分の1の場合ね」

などと、なんだか支離滅裂なことを口走った挙句、ホワイトボードに行列やブラ記号やケット記号を書き始めるので、聞いている方は結局わけが分かりません。

 これを明快に説明できない限り、おそらく人類はスピンもミクロな世界も理解したとはいえないと思いますね。

改めましてスピンとは

 スピンとは、電子や陽子などのミクロな「物」の持つ性質のひとつです。スピンの測定実験を行なうと、「上向き」か「下向き」の2通りのどちらかの測定結果が得られます。中間の測定結果はありえません。

 測定結果が2通りしか得られないとは、全くもって奇妙で、実に量子力学的です。

 量子力学の扱うミクロな存在は、得られる情報量が少ないという特徴があります。やつらは情報に関してはなはだケチです。電子を壁の穴に投げて通過させても、2個の穴のうちどちらを通ったかという情報さえ与えてくれません。

 ミクロな「物」がケチケチよこすそういう情報をやりくりして、「物」の状態や、次の測定結果を何とか推定する方法が量子力学だ、という見方もできます。近年、量子力学は情報を取り扱う体系なのだという認識が共有されつつあります。

 測定値が2通りしかない、いわばケチの極みであるスピンは、それゆえに量子力学の基本であり、最も重要な研究対象となっているのです。

スピン名人伝

 みなさんが物理学を学校で習ったとき、球が衝突する問題や、滑車にひもが絡まる問題や、摩擦のない斜面に置かれた物体を押したり引いたりする問題を、「こんなこと現実にあるんだろうか」と、首をかしげながら解いたのではないでしょうか。

 物理学の法則や数学は、最初は現実を観察して考えだされたものでも、それ自体が美しくて面白いので、「こんなこと現実にあるんだろうか」と思われるような状況に当てはめて解いても、それは物理学の研究として成り立ちます。

 その方向に極度に推し進められた研究手法が理論物理学といえます。だから理論物理学においては、研究対象は高度に抽象化され、現実の物体とどう結びつくのかもう分からない、ということがしばしばあります。摩擦のない斜面どころではありません。

 そのため量子力学に限らずどの分野でも、理論の研究会や学術雑誌には、「そんな状況あり得るの」「それ何の役に立つの」と、思わず聞きたくなるような発表がごろごろしています(が、聞かないのが暗黙のルールです)。

 例えばスピンの理論的研究では、たくさんのスピンを鎖のように一列に並べたり、あるいはオセロゲームのように平面に並べて、そうした集合の振る舞いを調べるという手法があります。ピンセットで実際に並べるのではなく、計算機のデータや、紙の上の記号として並べるのです。

 先程はスピンを「電子や陽子などのミクロな『物』の持つ性質」と説明したのですが、こういう抽象的な理論研究になると、電子も陽子も原子も実際には使わず、もうスピンがどんな「物」に備わっているかはどうでもよくなるのです。

 中島敦の『名人伝』に登場する弓の名人は、技を磨いて修行を極めたところ、最後には弓も矢も不要という境地に達しますが、なんだかそのエピソードを彷彿とさせます。

量子の世界の「傷跡」

 さてこれでようやく今回の本題「量子の世界に『傷跡』を残す数理モデルを無限に構成する方法」が、いったい何を扱っている研究なのか、説明する準備ができました。

 今回発表された、柴田氏らグループの研究では、たくさんのスピンを並べ、互いに影響させ、その時間変化を調べます。前述のとおり、並べるといっても計算機のデータや紙の上や頭の中でのことで、その時間変化もやはり仮想的なものです。秒や分で測るような実際の時間変化ではありません。

 仮想的な時間がたつに連れて、スピンは隣のスピンの影響を受けて、上向きになったり下向きになったりそれらの線形結合になったり、ぱたぱた変わっていきます。変わっていく様子が計算できます。

 スピンがこうしてぱたぱた揺れ動くさまは、通常の物質中の原子や分子がぱたぱた熱で運動するのに似ています。原子や分子がぱたぱた動く際、そこには熱があり温度が測れます。ぱたぱた動くスピンの群れにも、(仮想的な)熱があり(仮想的な)温度が測れます。これは、スピンの群れに「熱力学」「統計力学」という分野の手法が使えることを意味します。

 スピンの群れはぱたぱた動いた末に、見かけ上変化しない「熱平衡」と呼ばれる状態になります。熱平衡は静止状態ではなく、個々のスピンはぱたぱたし続けているのですが、群れ全体としての変化はしなくなります。さざ波は立つが水位は変化しないプールのようです。ここまでは熱力学の予想と一致します。

 ところが今回発見されたのは、時間がたっても熱平衡にならず、いつまでも最初の運動を保ち続けるような特殊な状態です。まるでいつまでもプールを往復し続けて消えない波のようです。

 このような特殊な状態を「量子多体傷跡状態」と呼びます。

「多体」とは、電子や分子など「物」の集合を指しますが、「物」が3個もあればもう「多体」と呼ばれちゃいます。今回はスピンの群れのことです。

 そして「傷跡(scar)」は、こうした、熱平衡にならずにいつまでも残る状態を呼ぶ言葉ですが、大変カッコいい命名です。

 今回報告された傷跡状態は、これまで報告されたものよりもゆるい条件で起きること、「オンサーガー代数」と呼ばれる数学で記述できることなど、理論物理学者が色めき立つ魅力を備えています。量子力学の新しい鉱脈を発見したといえるかもしれません。「編集部のお薦め」に選ばれたのもそのためでしょう。(しかも筆頭著者の柴田氏は、まだ博士課程の2年という若手です。) 将来の発展が期待できます。

量子力学とは(再)

 さて今回は、量子力学なんて習ったことがないとおっしゃるかたを対象に、量子力学の理論的研究について、できる限り初歩から解説を試みました。

 現在量子力学の研究者が取り組んでいる問題や用いている手法が、垣間見えたら、記事の狙いは成功です。

 しかし今回発表の研究テーマについて説明したところ、量子力学そのものに対するみなさんの疑問は、かえって深まったかもしれません。

 ミクロの世界の法則はどうして日常世界と違うのでしょうか。スピンの本質とは一体何なのでしょうか。つまるところ、量子力学とは何なのでしょうか。

 説明されればされるほど、こうした疑問がわいてきます。

 なぜこうした疑問がわいてくるかというと、じきに100歳を迎える量子力学はいまだ発展途上の体系で、ミクロな世界を支配する法則を、大げさにいえば宇宙の仕組みを、人類はまだ真に理解してはいないからでしょう。

 結論は分かりませんでした!

 いかがでしたか?

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