進撃の巨人』のシャーディス教官。
そう突然言われて、皆さんそれが誰だったか思い出せますでしょうか?

そう、エレンたちが兵団に入った後、時に立体起動装置の練習装置を克服するエレンを見守り、時にじゃがいもを食うサシャを叱り飛ばし、厳しく彼らを育て上げた、あのスキンヘッドの怖いおじさんです。

彼はエレンらの訓練学校卒業を見届け、そのままひっそりと『進撃の巨人』という物語の舞台から姿を消すはずでした。しかし物語中盤の第71話(コミックス第18巻、アニメSeason 3前半)で、突然の再登場を果たします。

エレンは壁の中の王、ロッド・レイスとの接触をきっかけに、母を喪ったその日の夜、自分が父から巨人になる力を与えられていたこと、そしてその直前に、父がシャーディス教官と会っていたことを知ります。そこでエレンら調査兵団は、エレンが巨人の力を持つに至った理由を調べるため、あの日何が起こったのかをシャーディス教官に問いただすのです。しかし、そこで語られるのは、エレンの巨人の力の謎を解くには何の役にもたたない、シャーディス教官の半生の話でした。

このエピソードは、一見この『進撃の巨人』という物語にとって不要な、寄り道のようなものに見えます。しかし、このシャーディス教官の語る内容は、実はこの『進撃の巨人』という物語の根幹にあるものを鮮やかに描き出した、大切なエピソードなのです。

文 / いさお

◆語られるシャーディス教官の半生

まずは、原作第71話で語られるシャーディス教官の半生をご紹介します。

シャーディス教官は調査兵団の一兵士だったころ、人がいないはずの壁外で、一人の男性を発見します。彼の名はグリシャ。エレンの父です。

シャーディスは、記憶喪失らしいグリシャを行きつけの酒場に連れていき、この世界の成り立ちを説明します。この世界には恐ろしい巨人がいて、人類は壁の中で生活をしていること。その状況を打開するため、調査兵団は壁の外に繰り出し、巨人と戦っていること。その説明を受けたグリシャは、人類の可能性を広げるために命懸けの調査を行うシャーディスを称賛します。シャーディスは、初めてその行動を人から称賛されたことをきっかけに、命を賭して壁の外に出る自分こそ特別な存在なのだと、人類の誇りであるのだと、自負するようになるのです。

そうして、シャーディスの壁外調査への意欲はますます熱を帯びていきます。成果を残せない調査兵団上層部は無能である。自分が団長になりさえすれば、調査兵団は、自分はきっと人類の可能性を拓く存在になる。そう考え、仕事に勤しむようになるのです。

しかし、一向に成果は出ません。団長の地位を手に入れても、いたずらに兵を死なせ、壁の中に敗走する遠征ばかり。兵団内外の人望もみるみる失っていきます。一方で、グリシャは医者として人々の信頼を得て、ひそかにシャーディスが思いを寄せていた酒場の女性店員・カルラとも、結婚してしまうのです。

こうしてシャーディスはついに、自分が選ばれた存在でも何でもない、ただの凡人であることを自覚します。そんな自分への失望に任せて、グリシャとの子(つまりエレン)を抱くカルラに彼が悲鳴のような暴言を吐くシーンは、彼の愚かさ、そして失意にあふれています。

そして彼は、その団長の地位をエルヴィンに託すのです。壁が破られカルラが巨人に食われたことも、何もできぬままエレンから事後報告の形で耳にし、彼はなおいっそうの無力感にさいなまれながら、教官の地位に退くのです。

◆「主人公になれない」ということ

進撃の巨人』は、この何でもない一人の男のエピソードをとりあげることで、何を描いたのでしょうか。それは、どうしようもない、「主人公へのなれなさ」です。

シャーディスは最初、命を投げ出して壁の外に可能性を見出す自分の人生を、自嘲ぎみに語っていました。しかし、これは何も本当に自分の人生を下らないものと思っているのではなく、自分が身を投じていることの尊さ、そして自分の特別さを誰もわかってくれない、という諦めからのものでした。しかし、グリシャにその人生を初めて称賛されたことで、その自尊心が表に出るようになります。

しかしどれだけ足掻いても、兵団の前任者同様、成果が出せない。そしてそんなシャーディスをよそに、グリシャは確かに人々の信頼を得ていく。そして、カルラとも結婚してしまう。シャーディスは、壁の外で巨人と戦うという偉業に身を投じているはずが、壁の中で平凡な生活を送るグリシャの人生にも手が届かず、愛する女性と結婚するという日常の幸せさえ、手に入れることができないのです。どれだけ努力しても、どれだけ立派なことをしようとしても、シャーディスはグリシャのような特別な人間、すなわち「主人公」にはなれないのです。

そんなシャーディスの姿は、自尊心に溺れ道を誤った愚か者にも見えます。しかしそれでも、私たちはこのシャーディスの姿に、どこか心を動かされてしまう。それは、私たちがどうしようもなく、この「主人公へのなれなさ」に共感を覚えてしまうからではないでしょうか。

私たちは子供のころ、プロスポーツの選手になりたいとか、総理大臣になりたいとか、まさに「特別な人間」になる将来の夢を持っていました。しかし私たちは大人になるにつれ、自分の限界を悟っていきます。
スポーツに打ち込んでも、勉強に打ち込んでも、上には上がいる。好きな人ができても、自分よりももっと魅力的な人が登場して、好きな人と恋人になってしまう。そして、子供の頃持っていた夢もいつしか消え去り、ありふれた職業に就くようになっていく。
いろいろな経験を通して私たちは、自分が何にもでもなれる、世界に大きな影響を与えることができる特別な存在ではないことを、徐々に理解するようになっていくのです。私たちにとって、世界を変える「主人公になる」ことは、ひどく難しいことなのです。

このエピソードの最後では、エレンが兵団に入ったころ、立体起動装置の練習台で苦戦したことが、後述する母カルラの遺志を組んだシャーディスの細工によるものだったことが明らかになります。しかし、エレンはそれを根性で克服し、細工された練習台でも姿勢のバランスをとるようになります。エレンという「主人公」の前では、自分は世界に対して何も働きかけることのできない「傍観者」にすぎないことを、シャーディスは改めて自覚するのです。

そんなシャーディスの感慨を、ハンジは幼稚な劣等感であると切り捨てます。これはどうしようもなく正論でしょう。しかし、私たちは生きている以上、「自分」という存在を世界に対して発揮することをどうしても望んでしまうのであり、そして私たちの大多数は、どうしようもなくそれに挫折するのです。その挫折を叱咤することはできても、どうして否定することができましょうか?

◆「私らしく生きる」ということ

そんな「主人公になれない」というエピソードを、なぜ『進撃の巨人』という物語はすくいあげたのでしょうか。

本作では多数の登場人物が登場し、「巨人への勝利」という世界の救済に向けて突き進んでいきます。その中心にいるのは、いつも本作の主人公であるエレンエレンはいわば人類に味方する唯一の巨人であり、作品中盤では、他の巨人を思い通りに操るという能力をも無意識に発揮します。まさに彼こそが人類の最も大きな力であり、巨人との戦いを前進させていく鍵なのです。

進撃の巨人』という物語を進めるには、基本的にエレン、およびその周辺のメインキャラクター達を描いていけばよいとも言えそうです。しかし本作は、シャーディスという「世界を変えられない男」に焦点を当てた。それも、ライナーらとの最終決戦の直前という重大局面に。この、一見奇妙にも思える采配にこそ、実は『進撃の巨人』が本当に大切にしているものが隠れているのです。では、それはいったい何なのでしょうか。

その答えに私たちを導いてくれるのは、本エピソードでシャーディスがエレンに伝える、母カルラの言葉です。カルラエレンを腕に抱きながら、自らに暴言を吐くシャーディスに対し、微笑んでこんなことを言うのです。

「特別じゃなきゃいけないんですか? 絶対に人から認められなければダメですか?」
「私はそうは思ってませんよ 少なくともこの子は…」
「偉大になんてならなくてもいい 人より優れていなくたって…」
「だって…見て下さいよ こんなにかわいい」
「だからこの子はもう偉いんです」
「この世界に 生まれてきてくれたんだから」

私たちは、他の誰かよりも劣るかもしれない。目立った能力なんて持っていないかもしれない。世界を変えることなんて、これっぽっちもできないかもしれない。「主人公」になどなれないかもしれない。それでも、私たちには、価値があるんです。「私」がこの世界に生まれ、「私」として「私」らしく生きる。それだけで、いいと言うのです。

これは一見おかしなことです。世界を変える力がないことを肯定し、「私」の存在自体に意味を付与してしまう。そんな姿勢を、「巨人に支配された世界を変える」物語であるはずの『進撃の巨人』がとるのは、一種の自己否定のようにも見えるからです。
しかし、その見方は誤りです。実は『進撃の巨人』が直接的に描いてきたのは、「世界を変える」物語なんかではない。むしろ、「私」として「私」らしく生きることそのものなんです。

ミカサは、自分を家族だと言ってくれたエレンを守るために、戦ってきました。
アルミンは、壁の向こうにあるらしい「海」というものを見るために、戦ってきました。
クリスタは、胸を張って生きるために、巨人になってエレンを食えと言う父と戦いました。
エルヴィン団長は、巨人が存在するこの世界の有り様の謎を知りたいがために、戦ってきました。
そして誰よりもエレンは、「オレがこの世に生まれたから」、外の世界を求めて戦ってきたのです。

そう、この『進撃の巨人』という作品を支えてきたキャラクターたちは、実はほとんど誰も、世界の存続や人類の救済を目的として動いていないんです。みんな、極めて個人的な願望、意志に従って、自分のやりたいことをやっている。そしてその全てが混ざって大きなうねりとなって、結果的に人類の勝利という目標に、確かに一歩一歩近づいている。それが、この『進撃の巨人』という物語の構造なのです。

であるならば、『進撃の巨人』に、実は「世界を変える力を持つ主人公」など、不要なのです。誰も、ゲームの中で魔王を倒す勇者のような、「世界を救う」力なんて持っていない。ならば私たちは、世界を救うことではなく、「私」のやりたいことを、「私」らしくやりぬくことに、その生を捧げていい。そのバラバラな力を重ね合わせることで、世界は確かに変わっていくのだから。それこそが、『進撃の巨人』という物語がたどり着いた「答え」なのです。

この「答え」は、シャーディスと会った後、エレンミカサアルミンに言った以下の言葉にしっかりと凝縮されています。

「教官に会ってよかったよ」
(中略)
「何でオレにはミカサみたいな力がねぇんだって 妬んじまったよ オレはミカサリヴァイ兵長にはなれねぇからダメなんだって…」
「でも兵長だってお前(筆者注:ミカサ)だって一人じゃどうにもならないよな… だからオレ達は自分にできることを何か見つけて それを繋ぎ合わせて 大きな力に変えることができる」
「人が人と違うのはきっと こういう時のためだったんだ」

ここまで来ると、シャーディス教官に『進撃の巨人』がクローズアップした理由も、段々と見えてきます。

シャーディス教官の苦しみは、「世界を変える主人公になれない」というものです。しかし、『進撃の巨人』は、実は「世界を変える主人公」に意義を見出しません。何より、「私」として「私」らしく生きることを大事にします。だから、シャーディス教官の人生を、『進撃の巨人』は祝福できるのです。

彼は世界を変える主人公にはなれませんでした。しかし、彼の「主人公になりたいから、主人公になるために全てを捧げた」人生は、まさに、シャーディス教官が「私」のやりたいことを、「私」らしくやりぬくことを徹底した人生です。だからこそシャーディス教官の人生には、『進撃の巨人』という物語にとって、大きな意味があったんです。

彼の半生を描いたこのエピソードが、この壮大な物語の一編を紡ぐに足る立派なドラマとして成立していることは、何よりその証拠でしょう。彼の「主人公へのなれなさ」を描いたこの1話に限っては、逆説的ですが、彼は確かに、「主人公」だったのです。

◆『進撃の巨人』の「答え」のゆくえ

最後に。

自分のやりたいことを、自分らしくやりぬくことに、全てを捧げていい。そんなバラバラな力が合わさることで、世界は変わっていく。『進撃の巨人』がたどり着いたこの「答え」を、どうか覚えていてください。というのも、この「答え」こそ実は、やがて本作が迎える最終章、すなわちアニメThe Final Seasonが、自ら抗おうとするものであるからです。

アニメThe Final Seasonでは、アニメSeason 3の最後に開示された壁の外の世界の様相が、さらに詳しく明らかになります。それによって、エレンたちがこれまで持っていた世界観や価値観は、大幅な修正を余儀なくされていきます。そしてこれと同時に、『進撃の巨人』が、エレンたちがこれまで積み上げてきたその「答え」も、その正当性を厳しく問われることとなっていくのです。

自分らしく生きれば、世界は前進する。巨人との戦いの果てにエレンたちがついに手にしたその「答え」は、最終章が描く全く新しい戦いの中でも、依然エレンに、明るい未来を提示してくれるのか。その答えは、本当に「正しかった」のか。これは、これまでのエピソードを受けて『進撃の巨人』最終章が問う、最も重要な問いかけの一つです。
まだ最終章に触れていない方は、ぜひ、この問いかけを頭の片隅に置いて、アニメThe Final Seasonを見届けてください。それが、The Final Seasonのすばらしさ、奥深さを認識できる、一番の方法なのですから。

(c)諫山創講談社/「進撃の巨人」The Final Season製作委員会

進撃の巨人』TVアニメThe Final Season放送決定! “シャーディス教官”が教えてくれる、物語の根幹にあるテーマは、WHAT's IN? tokyoへ。
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掲載:M-ON! Press