太平洋戦争の帰趨を大きく左右したミッドウェー海戦、日本に勝ち目は全くなかったのでしょうか。壮絶な最期を遂げた空母「飛龍」と山口多聞司令官の戦いを追いつつ、勝敗の分かれ道だったかもしれないひとつの「if」を考察します。

ミッドウェー海戦 太平洋戦争の命運分けた「6分間」の「その後」

1942(昭和17)年6月5日(日本時間)のミッドウェー海戦では、同午前7時22分(現地時間6月4日午前10時23分)から6分間のアメリカ艦爆(艦上爆撃機)隊による攻撃で、日本海軍が誇った第一航空艦隊の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が次々と被弾、ダメージコントロールの稚拙さもあって大破炎上、戦闘力を喪失してしまいます。

たまたま敵雷撃機からの回避運動で上述の3空母から離れ、曇天の下にいた「飛龍」は攻撃を免れます。3空母が炎上する様を見た第二航空戦隊の山口多門司令官は、旗艦「飛龍」より全艦に対して「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」の信号を発します。孤軍奮闘の反撃が始まりました。

「無敵」だった日本の第一航空艦隊

世界初の空母機動部隊として編制された日本海軍第一航空艦隊は、真珠湾攻撃はじめ緒戦の作戦で多くの戦果を挙げ無敵と言われました。しかしこれは最強という意味ではなく、物理的に敵空母が存在しないという意味での「無敵」でしかありませんでした。

ミッドウェー作戦の目的は、ミッドウェー島攻略とともに敵空母を誘い出して叩くことです。しかし、必須だった作戦前のハワイ真珠湾への戦略偵察計画もずさんを極め、肝心の敵空母は所在不明、出動しているのか真珠湾に引きこもっているのかさえ分からないまま、作戦は始まります。

さらに、アメリカによる暗号解読、日本の防諜体制の弛みによる情報漏洩など、事前の情報戦からして雲行きはかなり怪しくなります。第一航空艦隊(一航戦「赤城」「加賀」、二航戦「飛龍」「蒼龍」)は自らの姿を晒しておきながら、敵のことはわからないという、いわば情弱無敵の状態でミッドウェーにコマを進めたのです。

分かれ道のひとつ? 却下された山口司令官の意見具申

ミッドウェー海戦は、6月5日未明(現地時間4日早朝。以下特記ない限り、日時は日本時間、カッコ内併記はミッドウェー島の現地時間)、かねてからの計画通り第一航空艦隊がミッドウェー島を空爆し幕を開けます。その間アメリカ空母の出現に備えて、対艦攻撃用に雷装(魚雷を搭載)した艦攻(艦上攻撃機)も準備されていました。

ミッドウェー島を空爆した部隊から「第二次攻撃の要を認む」との連絡が入ると、午前4時15分(4日午前7時15分)に艦攻部隊へ、雷装から対地攻撃用の爆装(投下爆弾を搭載)に転換する命令が出されます。ところが午前5時20分(4日午前8時20分)に、重巡洋艦「利根」が飛ばしていた哨戒機「利根四号機」から、空母らしきものを発見した旨の報告が入ります。

「直ニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」――二航戦「飛龍」の山口多門司令官は空母発見の報を受け、対地攻撃用の爆装のままでもよいからとにかく飛べる攻撃隊を発進させるべき、と司令部に意見具申をしています。史実ではこの意見具申は却下され、午前5時40分(4日午前8時40分)に艦攻の対地攻撃用爆装を対艦攻撃用雷装に転換する2回目の換装命令が出されています。これによって攻撃隊の発進は遅れ、午前7時22分(4日午前10時23分)、その隙を付かれて空母は次々と被弾してしまいます。

この時、山口司令官の意見具申が通っていたら、逆転劇はあったのでしょうか。

ミッドウェー島二次攻撃のために準備中だったのは、「赤城」と「加賀」からは九七式艦攻各18機の計36機で、「赤城」では半数以上が陸用爆弾に転換済み、「加賀」は詳細不明。「蒼龍」と「飛龍」からは九九式艦爆各18機の計36機で、全機が陸用爆弾装備でした。「赤城」「加賀」の艦攻は爆装の場合、水平爆撃しかできず(より命中精度の高い急降下爆撃は不可)、高速で移動する目標にはほとんど命中した実績が無く、対艦攻撃の成果は期待できません。

もしすぐに艦爆隊が発進していたら…?

他方、艦戦(艦上戦闘機)はこの時、艦隊直掩(艦隊の上空で敵機に備え護衛すること)のため全機出払っていました。よって、山口司令官が意見具申した時点で編成できる有効なアメリカ空母への攻撃隊は、陸用爆弾装備の護衛無し九九式艦爆36機のみという事になります。

史実では、3空母が被弾したのち、「飛龍」から艦戦6機と艦爆18機で空母「ヨークタウン」を攻撃し3発の命中弾を与えますが致命傷とはならず、艦戦3機と艦爆13機が失われました。そのあと艦戦6機と雷装の艦攻10機で2本の魚雷を命中させたことが「ヨークタウン」の致命傷となっています。この時は艦戦3機と艦攻5機が撃墜されています。とどめを刺したのは潜水艦「伊一六八」の雷撃でした。

艦爆のみ36機で攻撃した場合どうなるでしょうか。艦戦の護衛無しというハンデもあり、史実の損耗率からも、機数が2倍だからといって2倍の戦果はとても期待できそうにありません。またアメリカ空母を発見した「利根四号機」が、航法の間違いから敵位置も誤って報告しており、艦爆隊は敵空母を補足できなかった可能性さえあります。史実で「飛龍」の艦爆隊が「ヨークタウン」にたどり着いたのは、帰艦する敵機を発見して追尾できたという偶然の部分もあるのです。

映画などでは、2回にわたる兵装転換は大混乱だったように描かれますが、ミッドウェー海戦に先立つ1942年4月5日に、第一航空艦隊がインド洋セイロン島でコロンボ空襲を実施した際にも、対地攻撃準備中に敵艦隊発見の報を受けて2回にわたる兵装転換を行っており、必ずしも異常な事態とはいえませんでした。

「飛龍」1艦の奮戦では歴史は変わらない

確実な戦果を見込むための、当時の司令部の判断は真っ当なもので、山口司令官の意見具申も理解できるものの、実行してもさほど歴史は変わりそうにありません。「ヨークタウン」も沈められない、さらに悪い結果となった可能性さえあります。

敵空母の出現について草鹿龍之介参謀長が「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べたことからして、ミッドウェー作戦の日本海軍はあまりに情弱であり、負けるべくして負けたのです。戦略レベルのエラーは戦術レベルではカバーできないという典型的な作戦でした。

山口司令官は「飛龍一艦、少数の飛行機を駆って敵空母二隻に全艦隊の仇を報じ得たるいはれ(根拠)なきにあらず。体当たりでやって来い、俺も後から行くぞ」とパイロットに訓示しました。果たして攻撃隊の損耗率は40%に上ります。その後、山口司令官は言葉どおり「飛龍」と運命を共にしています。

「飛龍」の軍艦旗は、脱出した機関科員が持ち出したものの、アメリカ軍に捕虜として収容される前に海中投棄されました。山口司令官の少将旗は、広島県呉市の呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)に展示されています。

ミッドウェー海戦に臨む「飛龍」。写真右側に敵の水平爆撃で弾着した水柱が上がる(画像:アメリカ海軍)。