1970年代に「キモい」の起源がある!?

 現代のルッキズムを考えるこのコラム、第1回は産業ロボットの導入期に見られたキモい話を、第2回は全国キャンディーズ連盟のキモい話を紹介しました。現在の私たちが感じている“キモい”という感覚は、その歴史的起源を1970年代にもっているだろう、という仮説をたてました。

 「キモい」という言葉が指し示す範囲は、非常に広く、深いものです。それは特定の外見的特徴を指す言葉ではありません。それは外見であるよりも、その人の言葉遣いや行動の様態にかかわっていて、社会学の用語でいう“ハビトゥス”の領域を指しています。“ハビトゥス”とは、その人の身についた振る舞い、その人の身振りからうかがえる社会的位置、身振りが含んでいる思考様式です。「キモい」という表現は、たんに人間の外見をあげつらうのではなく、外見をとおして人間の中身をえぐっていきます。90年代にこの言葉が使われ始めたころ、「キモい」はもっと軽い意味だったのかもしれません。しかしこの表現が流行し、人口に膾炙するうちに、「キモい」は人間を深くえぐる言葉になっていきました。

◆いつまでも大人になれない大人たち
 「キモい」という言葉には、充分に大人になれていない、幼児的である、という意味が含まれています。私の付き合っている友人には、こういう人間がたくさんいます。私たちはいわゆる「就職氷河期世代」ですから、同世代の友人は企業に属したことのないフリーターや、フリーランスだらけです。中年を過ぎても収入は不安定で、結婚しないで独身のままでいる男性もたくさんいます。私はある理由があって結婚することになって、子供も授かりましたが、それにしても充分な稼ぎのある立派な父親ではなく、妻の収入に頼って生計を立てている「主夫」のような状態です。大の男が平日の昼間にぶらぶらしているのです。赤塚不二夫が描く「バカボンのパパ」のようなものです。

 90年代の就職氷河期は、収入の不安定な下層労働者を大量に生み出し、“大人になれない大人”を一般的なものにしました。そして誤解のないように付け加えると、問題は就職氷河期であぶれてしまった失業者ではないのです。氷河期世代の男たちは、大人が大人になれない状況を見えやすくしたにすぎません。

 本当の問題は、企業に所属して稼ぎの安定している男たちもまた失業者と同じ不安定な構造のなかにあって、いつまでも大人になれないという経験をしているということです。就職に失敗した下層労働者や失業者は、自分が大人になれていないということを自覚しています。そのことを自覚しているぶん、まだ軽症だと言えます。本当に問題なのは、自分はきちんとした会社に勤める立派な大人だと考えている人々です。彼らは自分の客観的な姿を充分に自覚しないまま、“大人になれない大人”になっているのです。

90年代に進んだ「学校化」 終わらない学び直し
 90年代、就職氷河期と同時に進行したのは、社会全体が学校化するという事態でした。「労働者」は「ビジネスパーソン」と名を変え、企業がもとめる学習と研修に追われるようになりました。大人たちがつねに学習し、スキルアップに励む時代です。身に付けた知識や技術は数年で古びたものになってしまい、また新たに学びなおさなければならない。彼らはつねに学習に追われ、書店はビジネスパーソン向けの学習書で埋め尽くされるようになりました。その知識が数年後には陳腐化し役に立たなくなることを予感しながら、彼らは学び続けたのです。

 昔の職人は10年も働けば一人前になることができましたが、現代のビジネスパーソンは何歳になっても勉強中の小僧です。勉強をやり終えて一人前になるということができない。どれだけ知識や経験を持っていても、その地位は不安定な小僧のままなのです。

◆産業構造の変化で大人になれなくなった
 こうした状況は、70年代の産業構造の転換から始まります。日本の企業は“生産性向上”のために、人員削減と社員研修を強力に推進していきます。産業は、労働集約型から技術集約型へと、スリム化していきました。この大きな政策転換を、当時は“技術立国”と呼びました。これは日本が経済大国へといたる成功の物語です。

 しかしこの成功物語には、副作用もあったのです。この転換は、大人が大人になることを困難にしてしまいました。私たちは何歳になっても若々しく振舞えるようになりました。それは好ましいことだと思います。しかしそれは裏を返せば、人間がいつまでも成熟しない、なにかをやり終えることが困難になった時代だということです。何歳になっても勉強が終わらない。まるで踊り場のない階段をのぼり続けるように、成熟の節目をもたないで、私たちは老いていく。だから私たちは、“大人なのに幼くてキモい”のです。

 キモいという表現は、70年代以降の産業と労働の構造的な変化をよく捉えていると思います。

※近日公開予定の<史的ルッキズム研究3>に続きます。

<文/矢部史郎>

【矢部史郎】
愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズアントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランスイタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。