遣隋使や遣唐使の存在が示すように、日本は古代中国から多くの事物を学び、取り入れてきた。では、隋や唐の時代の中国人たちは当時の日本についてどのように見ていたのだろうか。

 中国メディアの百家号は3日、「唐の時代の中国人の目に映っていた日本の姿」というタイトルの記事を掲載し、古い文献にある日本についての記述を通じて、当時の中国人が日本をどのように認識していたのかを考察した。

 記事は、日本と中国は一衣帯水の隣国同士であり、二十四史の1つであり、3世紀ごろに書かれた歴史書「三国志」にも日本に関する記述があることから、中国人はかなり古くから日本の存在を知っていたと強調する一方で、日本に対する理解は「一向に深まることはなかったのが現実である」と指摘した。

 続けて、隋の時代になると隋の初代皇帝である楊堅が裴世清を使者として日本に派遣したことが「隋書」に記されていると紹介。一方、当時の日本は文化がまだまだ立ち遅れていて、「文字を持っていない」との記述が見られると伝えた。確かに日本が朝鮮半島経由で漢字を本格的に導入し始めたのは5世紀から6世紀にかけてと言われているようだ。記事は「隋王朝までの中国人は、日本について未開の立ち遅れた国として認識し、重視していなかったようだ」と論じた。

 一方、中国が唐の時代を迎える頃には、「日本は大きく発展、進歩していた」ことが、唐の時代の著作物から分かると指摘。二十四史の1つである「旧唐書(くとうじょ)」にある記述からは、日本人は「文字を尊重し、勤勉で、学習を好む民族」に変化していたことが読み取れるとし、こうしたイメージは遣唐使として唐に渡り、唐王朝の高官となった阿倍仲麻呂の存在が大きいようだと論じた。

 また記事は、日本人は宋の時代になっても多くの良書を求めて、中国を訪れていたと伝え、宋の時代の政治家であり、学者である欧陽脩は「日本刀歌」で、「中国人は自らの優れた文化を自ら壊してきたため、優れた文化は日本に残っている」という意味合いの詩を残していると伝え、宋の時代の中国人にとっての日本人は、やはり「文化を大切にし、学習を好む民族」として映っていたことが分かると伝えた。

 記事は、日本と中国の長年にわたる交流において、勤勉な日本人は中国文化の精髄を学びとってきたものの、尊大な中国人は長年にわたって日本に対する理解を深めようとしてこなかったと強調、これは中国人にとっての悲哀ではないだろうかと主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

遣隋使や遣唐使で日本人と接触のあった当時の中国人は「日本人をどう評価していた?」=中国