2020年6月5日、韓国で与党圧勝の総選挙を受けた第21代国会が幕を開けた。
2年後の大統領選挙に向けて政局の動きも活発になることは間違いないが、そんな中で「基本所得支給」が争点として急浮上している。
「基本所得」についての論争に火をつけたのは、4月15日の総選挙で惨敗した保守系の未来統合党が事実上の党首である「非常対策委員長」として招聘し、6月1日に就任した金鍾仁(キム・ジョンイン=1940年生)氏だった。
パンを食べたくてもお金がないなら…
「パンを食べたくてもお金がないとしたら、どんな自由があるというのか?」
金鍾仁氏は、就任前後からこんな話を繰り返していた。保守政党の理念である自由のために「基本所得支給」を導入すべきだというのだ。
保守系の未来統合党は、それまで文在寅(ムン・ジェイン=1953年生)政権の、失業手当拡大などの経済政策を「ばらまき」と痛烈に批判してきた。
小さな政府、減税、規制緩和などこれまでの保守政党特有の政策枠組みから抜けられなかったのだ。総選挙惨敗を機に、「一気に政権与党もびっくりの政策を打ち出した」(韓国紙デスク)わけだ。
韓国メディアは、こうした発言を「中道層を取り込むための未来統合党の左シフト」とも報じている。
保守、進歩を渡り歩く
金鍾仁氏は、韓国の政界では「保守、進歩を問わない救世主」としてここ数年は有名だ。
ドイツ留学後の1970年代にソウルの名門大学である西江(ソガン)大学教授になった。
若い頃から直接政策にかかわることへの志向が強く、全斗煥(チョン・ドファン=1931年生)政権で経済ブレーンから国会議員となる。
盧泰愚(ノ・テウ=1932年生)政権では閣僚や青瓦台(大統領府)の経済首席秘書官を歴任する。
ところがその後、進歩系の政党に転じ国会議員になる。
経済民主化を提唱
さらに今度は、2012年の大統領選挙で朴槿恵(パク・クネ=1952年生)氏のブレーンとして活躍する。
「経済民主化」
金鍾仁氏は、保守系候補の朴槿恵氏の重要政策にあえて財閥改革を盛り込んだ、さらに「経済民主化」という分かりやすく中道支持層にアピールするキャッチフレーズを付けた。
ところが朴槿恵氏が大統領就任後に財閥改革に消極的だと見るや、決別した。
すると今度は、2016年に進歩系の「共に民主党」の非常対策委員会代表に就任して劣勢だった総選挙の責任者となる。
朴槿恵政権誕生の功労者から進歩政党に
左派の学生運動や市民運動出身候補を次々と公認から脱落させ、中道票を獲得して選挙勝利の立役者となる。
朴槿恵政権作りの功労者だったと思えば、今度は、文在寅政権誕生に向けた地ならしをした。
与党圧勝との予測もあった2016年の総選挙で敗れたことが、朴槿恵氏の転落の引き金になってしまった。
しかし、金鍾仁氏は、当選した左派系の議員との対立で、このときも民主党と衝突して離れていた。さらに2017年には、第3極から大統領選挙に出馬しようとしたが、1週間でこれを撤回した。そして、今度は惨敗した保守系の未来統合党だ。
「節操がない」「ずっと昔の人物だ」
金鍾仁氏については、何年も前からこういう批判がつきまとう。それでもそのたびに「秘策」を繰り出して世間をあっと言わせて求心力を確保する。
これまでの経歴を見ると、特定政党への固執はない。閣僚や国会議員などへの執着もない。だから誰にも気兼ねせずに発言できる。
基本軸は、保守であっても進歩であっても、中道層の取り込みがカギを握るとの信念だ。保守陣営にいるときは左側に、進歩陣営に入れば右側に寄る。
「争点」を選ぶ際に、時代背景や国民のニーズを深く分析し、さらに一歩先を見ているイメージを与える。
こうした「老獪さ」「緻密さ」が、長年にわたって保守、進歩を問わず韓国の政界を渡り歩いていた秘訣だ。
今度は「基本所得」で勝負
「基本所得」については、金鍾仁氏の提唱以来、メディアや政界で最大争点に浮上している。
もともと韓国内では、新型コロナ対策の一環として、国民に直接財政支援をすべきだという声が進歩系の知事から出ていた。
こうした声を受けて、政府が、「災難支援金」の支給を実施していた。
その後も、特に進歩系の知事や今回当選した国会議員などから追加支援を求める声は後を絶たなかった。
生活支援や雇用保険の拡大など様々なアイデアが出ていたが、金鍾仁氏が「基本所得」という分かりやすい表現を使い、さらにこれまで「ばらまき批判」を繰り広げていた保守系の未来統合党の党首の発言だということでメディアが大々的に報じて、この問題の「提唱者」のようなイメージを握ってしまった。
では、「基本所得」とはどういう考え方なのか。
韓国でも、「基本所得」あるいは「ベーシックインカム」「最低生活保障」を主張する声は以前からあった。
基本所得支給というのは、普遍的、無条件で一定の所得を定期的に支給するということだ。
有名なのが、フィンランドの実験だ。
2017年から2年間、25歳から58歳の失業手当受給者2000人を無作為に選んで毎月560ユーロを支給した。
韓国でも、導入を求める声はもちろんあった。
2000年代以降経済格差が拡大した。さらにここ数年、ロボットやAI(人工知能)の普及で雇用がますます脅かされるという懸念が高まっていたからだ。
「基本所得」を主張する学者は「就職して月給をもらって生活し、その後は年金で暮らす。こういう制度ができてからせいぜい200年から250年しか経っていない。この制度が立ちいかなくなってきた」という立場だった。
ただ、あくまでも一部の学者の主張に過ぎなかった。最近、脚光を浴びる背景は、新型コロナの流行で、生活が一気に変わってしまったことだ。
スーパーに消費者が行かなくなる。たまに行ってもレジには人がいない。オンライン、ロボット、AI…すべてすぐ身近な存在で雇用と直結してもいる。
雇用情勢もさらに悪化している。たたでさえ20代の就職は厳しかったのに、もう絶望的ですらある。
このままでは生活ができない。そんな不安が急速に高まっていた。
様々な主張
では、金鍾仁氏ら政治家はどんな主張をしているのか。
金鍾仁氏は、先に紹介した「パン」の話で分かるように、自由を保障するために制度に重点を多く。
保守政党らしく財源にも配慮して、青年層や高齢層などからの導入を念頭に置いているようだ。
一方で、進歩系の李在明(イ・ジェミョン=1964年生)京畿道知事は、「基本所得支給は経済政策である」という立場だ。
少額であっても全国民に支給し、徐々に支給額を増やすべきだとの主張だ。
ただ、両氏の主張は、「最初は一部から支給し、徐々に拡大する」という点で、ほぼ同じ内容だともいえる。
さらに、与党民主党の朴元淳(パク・ウォンスン=1956年生)ソウル市長などは、お金を直接国民に渡すのではなく、雇用保険の拡大などを優先すべきだという主張もある。
韓国メディアはこのところ、連日、この「基本所得」についての記事を大きく掲載している。
当初は、進歩系の政治家やメディアが賛成、保守系のメディアは「ばらまきだ」と反対という単純な構図だった。
だが、金鍾仁氏も連日、主張を繰り返す中で、具体的な議論が出てきている。
例えば、財源問題だ。
当初は、「全国民に毎月10万ウォン(1円=11ウォン)配ると、10万ウォン×12か月×5000万人=60兆ウォン、30万ウォンだと180兆ウォン必要だ。誰が出すんだ!」という批判で終わっていた。
ところが、税控除の縮小や財政支出項目の組み換えでかなりの部分をまかなえる」という試算などが出てきている。
韓国の2020年度の国家予算は513兆ウォン。保健福祉雇用関連予算規模は180兆ウォンだ。「基本所得」を主張する専門家は、「無責任なバラマキ策ではない」と語る。
政治問題化への懸念
さて、では、「基本所得支給」がこの後すんなり進むのか?
韓国紙デスクはこう話す。
「今の政府は、財政支援については積極的だ。とはいえ、基本所得支給は議論が先行し過ぎだと警戒している」
韓国のGDP対比国家債務比率は2020年に43.5%と比較的低い水準だ。
しかし、2020年に29.7%、2015年には35.7%だったことと比較すると急ピッチで上昇している。どこかでタガが外れると一気に債務は膨張する。
別の政治記者はこう話す。
「経済政策や福祉政策として幅広い専門家の議論を経て検討するというのなら分かるが、2年後の大統領選挙をにらんだ人気取り競争の主テーマになると危ない」
韓国の世論調査会社リアルメーターが6月5日に実施した世論調査では「基本所得」について48.6%が賛成、42.8%が反対だった。
つい最近までほとんど広い議論がなく、言葉さえ聞いたことがなかった「基本所得」がすでに世論調査の重要項目に入っているのだ。
与党の議員の中には、「土地公概念」を掲げ、「土地保有税を導入してこれを財源に基本所得を支給すべきだ」との主張もある。
経済政策なのか、福祉政策なのか、はたまた金持ち増税策なのか…。
2017年の大統領選挙で保守系候補として出馬した国会議員は「社会主義配給制をやろうということではないか」と強く批判した。
こうした論争とともに、新型コロナ対策にからめた議論も出ている。2022年3月の大統領選挙を控えた有力候補者の「話題集め」も始まった。
経済の先行きに懸念が強まる中で、「基本所得」は韓国で、様々な議論を呼ぶことは間違いない。
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