前回は織田信長の功績、優れた面にスポットライトをあてましたので、今回は信長の問題点などを見ていきたいと思います。まずは、家臣の不和です。これは前回、プラス面として取り上げた能力本位の人材抜てきと表裏の関係になりますが、実は、行き過ぎたが故の弊害も出ていたのです。

競争が過ぎて家臣が不和に

 信長の身辺を警護する親衛隊は「馬廻(うままわり)衆」と呼ばれていて、信長はそれを2つのグループに分けています。1つのグループには、赤い母衣(ほろ)を背負わせていたので「赤母衣衆」、もう一つのグループには黒い母衣を背負わせていたので「黒母衣衆」と呼ばれていました。

 赤母衣衆のリーダーが前田利家で、黒母衣衆のリーダーが佐々(さっさ)成政だったのですが、この2人は常に競争させられていたため、仲はよくありませんでした。同じ組織の中でいがみ合っているのはマイナスです。

 なお、前回、能力本位の人材抜てきとして紹介した羽柴秀吉明智光秀の仲も悪かったことで知られていますが、これは、信長が2人のライバル争いをあおったからともいわれています。

 2人とも、今でいう「中途入社組」ですが、信長はこの2人に功を競わせ、勝ち進んでいったという側面があります。1575(天正3)年、光秀に丹波平定を命じ、2年後には、秀吉に中国平定を命じています。

 1581年2月28日の信長による京都御馬揃(おうまぞろ)えでは、光秀が正親町(おおぎまち)天皇臨席の軍事パレードの総指揮を執りました。光秀としては「これで秀吉に勝った」と思ったはずです。

 ところが翌年5月、信長から光秀に「お前は秀吉の応援に行け」との命が下ります。応援に行くということは、秀吉の軍事指揮下に入ることを意味します。「秀吉に勝った」と思っていた光秀には、相当ショックだったのではないかと思います。もしかしたら、これも、光秀が本能寺の変を起こす引き金の一つになっていたのかもしれません。

戦国時代でも際立つ「恐怖政治」

 さて、信長の問題点、マイナス面として落とせないのが、信長のいわゆる「恐怖政治」です。敵対する者に対する容赦ない殺戮(さつりく)は、殺し合いが日常的だった戦国時代にあっても、やや異常といっていいかもしれません。1574年の伊勢長島一向一揆との戦いでは、2万人の門徒が殺されていますし、翌年の越前一向一揆との戦いでも、合計4万人、ないし5万人が犠牲になっています。

 こうした恐怖政治は、どこから生まれたのでしょうか。筆者は多分に、信長の唯我独尊的性行にあったのではないかと見ています。この点について筆者が注目しているのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによる信長観察です。

 フロイスの「日本史」に、信長について、「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」とあり、さらに、「彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた(中略)。自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして、人々は彼に絶対君主(に対するように)服従した」と記されています。

 これによって、信長が家臣たちとどのように接していたかが分かるわけですが、「家臣の忠言に従わず」とあるところは特に注目されます。家臣たちの諫言(かんげん)を受けつけなかったというのは、事実と思われます。おそらく、それは能力本位の実力主義で抜てきした明智光秀に対しても、同じだったのではないでしょうか。

「殿、これは違います」と言われれば、普通は反省するところですが、信長の場合はむしろ、諫言してきた者に暴力を振るった可能性はあります。今でいう「パワハラ」です。松永久秀荒木村重、そして最後に、明智光秀に裏切られた背景にこの唯我独尊的性行があったことを見ておくべきでしょう。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

岐阜市にある織田信長像