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外見から想像もつかない激しいサウンド

text:Richard Heseltine(リチャード・ヘーゼルタイン)
photo:Manuel Portugal(マニュエル・ポルトガル
translationKenji Nakajima(中嶋健治)

 
どこまで続くのかわからない、狭い道。大きく広がる山脈へ消えていく。今回選んだ道路は、レーシングカーを評価するのに理想的な場所とはいえないだろう。

手前へ視線を落とすと、少しくたびれた、黄色のシムカが目に入る。価値があるというよりは、貴重なクルマといった方が良い。見る人次第かもしれないが。

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シムカ1000ラリー2(1973年1978年

外見からは想像もつかない、激しいサウンドがカラムロの山へ響き渡る。最初に抱いた印象が覆される。排気量1.3Lの4気筒エンジンが放つ音響は力強い。最高出力は87ps程度しかないのに。

むき出しのボディには、ノイズを減らしてくれる防音材が一切ない。路面を強く掴むタイヤと、簡単には縮んでくれないダンパー。このクルマの前では、一般的な考えは通用しない。

オーナージョアン・ラセルダは、このシムカ1000ラリー2をゴーカートに例える。確かに、そう思えなくもない。

リアから放たれるサウンドは忙しない。ツイン・ウェーバー・キャブレターは元気な吸気音を鳴らす。激しく響くエグゾーストノートが、聴覚の混乱をさらに加勢する。

4速マニュアルの変速は、入りは少しあいまいながら、ストロークは短い。変速は難しくなく、年齢を重ねたクルマを急き立てて走らせる気にさせる。

ペダルの間隔は狭く、位置は少しオフセットしており、足首を変な角度に曲げる必要がある。ダブル・クラッチの操作もしにくい。

超が付くほどダイレクトなステアリング

フロントの荷重が大きいが、シムカ1000ラリー2の動きは素早い。ステアリングは、あまり充分な情報が伝わってこないものの、超を付けたくなるほどにダイレクトだ。

しばらく走らせて気持ちの高まりが解けると、小さなシムカが持つ可能性が見え始める。とても考えの寛大なオーナー、ラセルダ。取材に同行したスタッフも、このクルマに交代で乗る。誰もが、絶賛のコメントともに降りてくる。

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シムカ1000ラリー2(1973年1978年

ヒルクライムのコースを30分ほど、激しく走り込んだ。坂を登り、カーブを下る度に、小さなロケットに対する気持ちが大きくなっていく。

とても機敏で軽快。車重は860kg程しかないらしい。この道を走り慣れた、地元の人が運転するハッチバックを追い越すのは大変だとしても、運転がとても楽しい。

ポルトガル北部、ヒルクライムのコースは、平日で空いたカラムロの大通りを抜ける。優れたドライビング技術や才能だけでなく、土地勘も必要だ。

オーナーのラセルダにとって、ポルトガルの美しいこの地域は、地元と呼べる場所。毎日の通勤で走る道でもある。

小さなシムカは、2011年に全面的なレストアが終了して以来、歴史あるヒルクライムコースで活躍を繰り返している。シムカは常に全力で走っている。ラセルダは、クルマに投じた以上の情熱を、このコースへ傾けている。

父がレースで戦ったかけがえのないマシン

シムカ1000ラリー2は、家族にとってかけがえのない存在でもある。若くしてガンを患いこの世を去った、ラセルダの父、ジェロズニモがレースへ参戦してきたマシンでもあるのだ。

クルマを再び買い戻し、父の時代の姿をよみがえらせたいという思い。ラセルダにとっては、強迫観念のように強いものだった。

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シムカ1000ラリー2とオーナージョアン・ラセルダ

「父のジェロズニモは、クラシックカーとモータースポーツの世界に住んでいた人でした。彼の父、祖父もジョアンという名前ですが、カラムロ・ミュージアムの創設者でした」 と話すラセルダ。美術品だけでなく、クラシックカーレーサーを展示する博物館だ。

「祖父はポルトガルのビラ・レアルの街やサーキットで、何度かレースに参戦していました。英国のブランズハッチやシルバーストーン・サーキット、モナコなどへ観戦にも訪れていました。わたしの父も、一緒に出かけたそうです」

「父は1971年、21才の時にダットサン1200トロフィーでレースを始めました。当時はとても人気のチャンピオンシップ・シリーズで、フランシスコ・フィーノやマニュエル・ジャオ、ジョアキン・モウティーニョといったスタードライバーを生み出しています」

「クルマはノーマルに近いグループ1規定だったので、ドライバーの技術が証明されるレースでした。父のレースは、1972年モザンビークへ出兵したときに中断しています」

クラス優勝を経てアップグレード

ポルトガルに戻ると、たまにテスト走行はしていましたが、なかなかレース復帰はできなかったようです」 ラセルダが過去を振り返る。

1975年、日常的に乗っていたクルマを駆り、ラセルだの父はナショナルツーリングカー・シリーズを舞台にレース活動を再始動する。それが、サンティーニョ・メンデスが以前ドライブしていた、シムカ1000ラリー2だった。

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シムカ1000ラリー2とオーナーの父、ジェロズニモ

「サーキットでは、スリックタイヤに交換していたはずです。それ以外はグループ1スペックのクルマなので、大きなモディファイは施されていません。追加したのは安全装備のロールケージくらいでしょう」 と話すラセルダ。

「父は1300ccカテゴリーで戦っていました。エストリル・サーキットで7月に初参戦していますが、タイヤのパンクでリタイア。8月は、アルガルヴェのヴィーラ・ド・コンデという街のストリートコースで競っています」

「われわれにとっての、モナコみたいな場所です。そこでクラス優勝しました。父は好成績に気を良くし、少しのお金をシムカに投じることに決めたようです。フランス・リールにあった、シムカ・レーシングへ、この1000ラリー2を送りました」

「当時、シムカは排気量の大きいクラス上のクルマに対して、高い競争力を誇っていました。父のシムカにはアップグレードが施されましたが、残念ながらレースを戦う機会は得られませんでした」

この続きは後編にて。


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