これは地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載中)。

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昭和53年~54年:31歳~32歳

 澤井社長は北原屋の社長を務める傍ら、業界団体の役職などを幾つも兼務し、忙しく動き回っていた。都内に点在する現場は、それぞれの責任者に大幅な権限を与え時折顔を出すだけだったが、その演出が実に見事だった。

 繁忙期あるいは閑散期を捉えて、絶妙のタイミングで澤井社長はふらりと現れる。訪れる際はいつも手ぶらではなく、ドリンク剤であったり果物やケーキであったり、心憎い手土産を持参する。

 そのタイムリーさに感嘆した旨を村野常務に伝えると、

「本川さんだから、教えるけれど…」そう断ったうえで、耳打ちされた。

「社長訪問のタイミングやお土産の品は、全て現場責任者からの要請なんだよ」

(成程!そうだったのか…)とは言え、そう仕向けたのは社長だろうから、やはり卓越した人心掌握である。

 ある時、澤井社長に北原屋の年商を訊ねたことがある。

「昨年の売上は、55億円ほどだ」

 即座に答えられたが、同席していた村野常務が後からこっそり教えてくれた。

「当社の年商は、正確には49億3千万円ですよ。うちの社長には妙な見栄が在って、何でも少しずつ大袈裟に話すんだよね」

 その口ぶりには社長を非難する気配は微塵も無く、むしろ見栄を張る社長を慈しむようにすら感じられ、恭平は二人の人柄と二人の関係を羨んだ。

 北原屋での研修も3カ月を過ぎた頃、恭平は何か恩返しをしたくて、「昔取った杵柄」ならぬ、「直前までのコピーライター経験」を活かして、製造マニュアルや営業ツールの作成を思い立ち、村野常務に提案した。

 製造の現場で痛感したことは、とにかく自分の次に作業する人の立場に立って考え行動することの大切さだった。そうすることで結果として自分もラクができ、組織全体の成果にも繋がる。

 例えて言えば、調理の担当者は盛付けの担当者が盛付けし易いように気を配り、盛付の担当者は配送者が配り易いように気を配る。さらに俯瞰して言えば、製造者は常にお客様の立場に立って、お客様が喜んでいただけるよう工夫を凝らす。

 そうすることで全体の流れがスムーズになり、結果として全員がハッピーになるという図式だ。

 恭平が、「次工程はお客様」などと言う生産現場の慣用句を耳にするのは、この研修から数年も後だった。

 でも、言葉から入って理解する知識と、実体験で失敗を重ねて習得した知恵は、同じ言葉の重さにも雲泥の差があると思い知らされ、何事も現場が一番で、現場を大切にしない経営はリスクを招きかねないとも実感させられた。

 相変わらず不勉強な恭平は、「三現主義」と言う言葉の存在すら未だ知らなかった。

 7か月余の丁稚奉公を終え広島に帰り、専務取締役の肩書の入った名刺を手にした恭平は、一週間も経たぬうちに帰郷したことを後悔していた。あらゆる面において広告代理店との違いはもちろん、北原屋との差も歴然としていた。

 10時だった出勤時間は、早朝の5時に早まり…週休2日だった休日は、正月の元旦と翌日だけの「年休2日」になり…給与は激減し、残業代はゼロになり、賞与は無くなって、年収は半減…しかし、これらは予測していたことだから納得もできた。

 恭平が我慢できず、サラリーマン時代には感じなかった強いストレスを感じたのは、社長である父親や常務である弟との軋轢だった。

 父親が社長を務める「ひろしま食品株式会社」は、専売公社の工場と支社、そして信用組合の3事業所を合わせ、1日千食足らずの従業員食堂を業務委託されていた。

 また、住宅街の片隅にある建坪100坪余りの倉庫を賃借し、セントラルキッチンとは名ばかりの工場において、千食余りの給食弁当に加え、注文数が日々変動する折詰弁当の仕出しを行うと共に、市中に10数店舗を構える弁当ショップを運営して、年間の総売上は4億円を少し超えていた。

 従業員食堂は、安定はしていたが単価は低く従業員数は徐々に減り始めており、給食弁当や折詰弁当は他社との競合が激しいものの、品質とサービス次第では売上を伸ばす余地は充分にあった。

 大きく経営の足を引っ張っていたのは、弁当ショップだった。

 以前からその点が気になっていた恭平は、父親に弁当ショップの撤退を進言したが、折角伸ばしてきた売上が減ること、売り上げが減ると資金繰りが苦しくなることを理由に、耳を貸さなかった。

 確かに毎日の現金収入は魅力的だったが、配送コストや店舗の賃借料、人件費などの販管費、そして売れ残った商品のロスは、将来とも改善の見通しは立たなかった。

 恭平は、入社と同時に毎朝5時前に出勤していた。その時間には数名の調理担当者が出勤しているだけで、社長はもちろん常務の姿も見えない。

 全く調理技術を持たぬ恭平が早朝出勤して何をしていたかと言うと、ゴミ置き場の掃除だった。

 大きなポリバケツや漬物ダルに入れられた10数個の生ゴミは前日の業務終業時、道路に面したゴミ置き場に纏めて置かれ、深夜にゴミ収集業者が回収。早朝には、空になったバケツやタルが乱雑に放置されていた。

 恭平は、散乱するバケツやタルを一つ一つタワシ手洗いし、定位置に配置する。その後、ゴミ置き場の床をデッキブラシで洗い流し、その勢いを借りて箒と塵取りを手に、工場に面した道路を清掃して歩く。 

 1時間もせぬうちに従業員が出勤し始め、互いに朝の挨拶を交す。何人かのパートタイマーや近所の方から、「朝早くから、大変ですね」「毎日、ありがとうございます」などの声を掛けられるが、常務をはじめ幹部社員は顔を合わせぬようにして出勤する。

 彼らからは、どうせ直ぐに生ゴミを入れるのだから、ゴミバケツは簡単な水洗いだけで充分だと言われ、道路の掃除は人気取りのスタンドプレーと見られていたようだった。

 しかし恭平は、ポリバケツやゴミ置き場を清潔に保つことは、衛生を最優先すべき食品工場として当たり前と考え、朝晩の道路の掃除は住宅街に立地する工場として最低限のマナーだと考えていた。

 そして、こうした振る舞いは確かにスタンドプレーであることも自覚していた。

 中学時代、美術部に籍を置き、写生大会やポスター・コンクールに出品すれば、ほぼ間違いなく入選していた恭平が、高校に入学と同時に、サッカー部に入部した動機は、単純にして不純。「女の子にモテたい!」その一点にあった。

 昭和30年代、サッカーはまだまだマイナーなスポーツ。それでもサッカーを校技とする広島K高校の新入部員は40名を超え、半分が中学からの経験者。体格、資質、技術の全てに劣る恭平が、レギュラーになりたい一心で選んだ策は、「キャッチフレーズ作戦」。

 まずは「タフネス恭平」と称し、どんなことがあっても「疲れた」とか「参った」と口にしないよう心掛けた。次に「タックルの恭平」を宣言。試合なら一発退場必至のラフプレーで、先輩を辟易とさせていた。

 そうこうするうちに激しい練習に音を上げ、新入部員は一人減り二人減りし、夏合宿が終わった頃には10名に減っていた。

 それでもレギュラーへの道は依然として遠く、恭平は夏休み後に早朝練習を校門の直ぐ横で開始した。

 監督や先輩の目を必要以上に意識しながらの練習は、三日坊主になることなく継続。一人黙々と蹴り続けたフリーキックに限れば、キャプテンをも凌ぐ程に上達し、自ら「フリーキックの神様」を標榜し始めた。

 そうした甲斐あって、1年生の新人戦からレギュラーに抜擢され、3年になると県の選抜チームの一員に選ばれるようになった。

 高校卒業時、同期部員は入学時の10分の1まで減り、僅か4人。恭平は退部した36名の誰よりも、サッカー選手としての資質は劣っていることを自覚していた。そして、どんなに優れた才能を持っていても、遣り抜かなければ宝の持ち腐れだと開き直ってもいた。

 同時に3年間サッカーを全うできたのは、不純ながらも不屈の動機の支えがあればこそと自覚していた。

 一方、本分の勉強には「純」「不純」を問わず、然したる動機がなく悲惨な成績だった。

 唯一誇れるのは現代国語だけ。これには「心を揺さぶるラブレターが書きたい!」と願う、「不純」な動機があった。

 遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎芥川賞受賞作品は必読!)など、教科書を読むより熱心に読み漁った乱読と精魂を傾けて書き綴ったラブレター群のお陰で、国語力は知らぬ間に向上していたようだ。

 こうした経験から恭平は、物事を始動、継続、成就させるためには強いモチベーションが必須であることを学び、立派過ぎる大義名分よりも、むしろ不純な動機の方が継続力も増し成果も上がるとの持論を得ていた。

つづく

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