ペンギン・ハイウェイ』で注目を集めたスタジオコロリドの最新作『泣きたい私は猫をかぶる』がNetflixで全世界独占配信されている。本作を手がけたのは『おジャ魔女どれみ』『ケロロ軍曹』など数々の名作を手がけてきた佐藤順一監督と、本作が初の長編監督作品になる柴山智隆監督。ふたりはファンタジーの要素が満載の本作で、丁寧にキャラクターの感情を積み上げ、普遍的なドラマを描き出した。主人公と同じ若い世代も、かつて青春時代を経験した大人もグッとくるドラマはいかにして生まれたのか? 両監督に話を聞いた。

本作の主人公・美代はいつも陽気な中学二年生。周囲をアッと驚かせる行動を繰り返し、周囲からは“ムゲ(無限大謎人間)”と呼ばれているが、本当は周囲の空気を過剰に気にする性格で本当の気持ちを明かせないままでいる。想いを寄せるクラスメイトの日之出に対しても、ストレートに気持ちを伝えられず空回りばかり。そんなある日、彼女は夏祭りにいた猫の店主から“かぶると猫に姿を変えられるお面”をもらう。猫に姿を変え、日之出のもとをたずねるムゲと、猫にだけ自分の本当の想いを告げる日之出。ふたりの不思議な関係は続いていき、ムゲは猫でいる自分に気楽さを覚えるが、猫の店主がムゲに「人間を捨て猫として生きていく」ことを迫る。

自分の想いを相手に伝えられないムゲと日之出は、表面的にはあえてトリッキーに振る舞ったり、意図的にクールな振りをしている若者で、アニメーションならではのデフォルメされた表現やセリフまわしが効果的に使われているが、観る者が「ここで描かれている人が本当に存在する」と思える不思議なリアリティがある。

佐藤 アニメーションにおける“本当らしさ”は、実写や現実をトレースしただけではダメなんです。これまでのアニメーションの歴史がすでに何十年かありますから、そこにはある程度の“型”のようなものはあるので、それを無視しないというのがひとつ。それに表情はデフォルメしても、動きは本当の人間と同じように動かすことを軸にしています。あと、アニメーションのセリフの尺は実写映画よりも長いんです。それは小さい子どもに向けて、ひとつのセリフの中にしっかりと感情を入れていけるように、セリフの尺が少しだけ長く設定されているからなんですけど、それを実写の俳優さんがそのまま喋ってしまうと必ず画が余ってしまう。でも、その尺の中で描くことでアニメーションの“本当らしさ”が出てくる。だからこの作品でもセリフの尺を現実や実写に寄せるのではなくて、なるべくスタンダードなアニメーションの間でつくって、(ムゲ役の)志田(未来)さんにもそこは最初にお話をして「いつもよりもたっぷりとセリフがついていますので、いつもなら目や手で演技する部分をすべて声に寄せて演技してください」とお願いをしました。

柴山 一見、トリッキーなこともするキャラクターたちではあるんですけど、ひとつひとつの行動にはちゃんと理由があって、一面的には見えないように気をつけて描いていきました。制作の初期段階にはキャラクターごとの履歴書を書いて、過去にこんな行動があった結果、劇中のこの行動につながっているという風にして、映画内だけのご都合主義的な動きにならないようにすることで、説得力のようなものは出せたかなと思います。

本作は女の子が仮面をつけて猫に変身するファンタジックなモチーフが中心に据えられているが、ポイントになっているのはムゲと日之出の感情の細かな変化や、ふたりのやりとり。名作『ユンカース・カム・ヒア』や『たまゆら』などの作品でまるで実在するようなキャラクターを描いてきた佐藤監督の手腕が存分に発揮されている。

佐藤 アニメーションにおける“リアルな芝居”は、本当にリアルなものではなくて、本当“らしく感じる”芝居でしかないと思うんです。観客は感情を込めてセリフを言っているところよりも、セリフを言ったあとに鼻をすするとか(笑)、意味のないところの方が実は存在感を感じる。だから、そういう部分は落とさないようにして、観ている人が「ああ、あるな、それ」と思えるものは、たとえセリフを削ってでも入れていく(笑)

柴山 佐藤さんはアニメーション業界ではレジェンド級の方ですから、佐藤さんの言われることはすべて正解なんじゃないかと最初は緊張もしていたんですけど、それだけじゃダメだろうなと思って、いろいろとアイデアをぶつけていく中で佐藤さんのリアクションをもらいたいと思うようになりました。それに、制作したスタジオコロリドは若いスタッッフが多くて、僕は佐藤さんとスタッフの真ん中ぐらいの年代ではあるので、自分がうまくつないであげてスタッフのエネルギーを効果的に画面に活かせないだろうかと考えました。

劇中でムゲは仮面をかぶって猫に姿を変えて日之出の前に現れるが、結果として猫になっている時の方が自分の素直な感情を表現できる。日之出もまた、猫を相手にしている時にだけ自分の本心を語る。しかし、日常のふたりは周囲の空気や流れを過剰に気にしていて、本当の自分を出せず仮面をかぶっている状態だ。

佐藤 ムゲは仮面をかぶって猫になっていると思っているけど、実は仮面を被っている時がいちばん自然にしていて、脱いでる時は学校や家でも自分の居場所を荒らさないための仮面をかぶっている。ムゲは自分に居場所が与えられた時に、そこに自分を合わせてやっていく。それはいまの小・中学生の子供たちも苦じゃなくやっていたりすることなんですよね。それを“仮面をかぶる”と表現するのだとしたら、仮面をしていることに気づかないぐらい自然にやっている。でもそれがうまくいかなかったときにどうすればいいのかわからなくなってしまうことはある気がしたんです。そこを丁寧に描くことで観る人がちょっとずつ共感してくれるんじゃないかと思いました。

柴山 僕も人の気持ちを読みすぎてしまって、うまく話せなくなることがあって日之出に近い部分もあるのかもしれません(笑)。だからストレートに自分の想いを伝えられないことで行き違いやスレ違いが生まれてしまう。その心の機微を描くことがこの作品を描く上では大事な部分だろうと思ってましたね。

仮面をつけたように周囲に接する、仮面をつけていることに気づかないまま暮らしている、仮面をつけた時だけ本心を明かすことができる、仮面を脱ぐことができないまま大人になってしまった……本作では誰もが経験したことのある感情や葛藤が丁寧なキャラクター描写を積み重ねることで浮かび上がってくる。だからこそ本作で描かれる結末は観る者の心に“ストレート”に刺さるはずだ。

佐藤 ラブソングだと日常ではとてもじゃないけど言えないようなフレーズが歌えたりするように、アニメーションというフィルターを通すことで、ストレートな感情だったり、純粋な気持ちが描けたりする部分はあると思うんです。

柴山 ムゲや日之出だけではなくて、その家族だったり、猫世界のキャラクターもそれぞれが映画の中でほんの少しだけ救われる話だったりするので、観る人が自分の境遇に合った人を見つけて観ていただけたらうれしいですね。

泣きたい私は猫をかぶる
Netflixで全世界独占配信中

『泣きたい私は猫をかぶる』