梅雨だというのに連日のように夏日が続く。そうかと思えば朝から夜まで、昼の間じゅう、夜通し、雨が長時間降り止まないこともある。こんな時は雨の似合う作品を読みたい。

文 / 永田 希

◆2018年デビューの新鋭が作画を手がけるコミカライズ版『天気の子』(原作:新海 誠・漫画:窪田 航)

今回最初に取り上げるのは、新海 誠監督のアニメ映画天気の子』をコミカライズした作品。映画の内容に忠実に、ところどころコミック版ならではの描写もある。映画版を好きなほど、映画版とコミック版との差異を探して楽しめるかもしれない。

コミック版『天気の子』の作者である窪田 航は、アフタヌーン四季賞2018年春のコンテストにて大賞を受賞した新鋭。大賞受賞作『蛇の山』は、Webで公開されるやいなやマンガ好きの間で大きな話題となった。

主人公たちが足を踏み入れる「山」の豊かな自然の描写が印象的な『蛇の山』。その作者によって映画版『天気の子』には描き足されている部分がある。それは家出をする前に帆高が住んでいた島の描写などだ。また、映画版では絵の動きによって表現されていた、「雨」つまり「水」の躍動感が、マンガの絵という静的な表現でどのように描かれているのかを比較するのもいいだろう。配信・比較の結果、ソフト販売が始まった映画版に新しい発見があるかもしれない。

日照りの世界と雨が降り止まない世界を往復する『水域』(漆原友紀)

天気の子』は、異常気象により雨が止まなくなった世界を舞台にしていた。続いて紹介する『水域』は、逆に日照りが続き断水の懸念や熱中症の心配を抱える現代が舞台。

主人公の千波は、水泳部でありながら水不足のためにプールを使えず、部活のランニングの最中に倒れてしまう。千波が目を覚ますと、そこは静かに雨の降り続く村だった。人の気配はするのに、老人と少年の2人しか住人がいない様子のその村に、千波は不思議な懐かしさを覚える。
村の近くには、竜神が住むと言われている滝壺がある。少年に誘われてその滝壺を訪れた千波は、気を失う前の世界で再び目を覚ます。日照りの続くもとの世界と、雨が降り止まない村とを断続的に往復するうちに千波は、自分の家族が経験した悲しい出来事のことを知っていく。

アニメ化もされた『蟲師』の漆原友紀による上下巻の中篇。強い日差しがじりじりと照りつける現実の世界と、千波が気を失って訪れる幻想的な村の空気感とが見事に描き分けられている。湿度を感じさせる画面をつくれる作家は多くない。静かに雨が降り続く村の景色、川や滝で少年たち川遊ぶ場面の透明感と瑞々しさ、現実の乾いた世界のけだるさのコントラストが効いている。

千波の母と祖母がかつて暮らしていた村は、ダム開発のためにダム湖に沈められることになり、気を失った千波が夢の中で出会うのは、かつて滝壺で命を落としたと思われる幼い頃の兄と、ダム建設に反対して失踪した父との、それぞれの幽霊のようなものだ。かといって本作にはホラー的なおどろおどろしさはほとんどない。あるのは、故郷を離れること、家族が失踪したときのどうしようもない心許なさだろう。

本作を満たしている水のイメージには、離れ離れになった人々の意識を媒介するメディアとしての側面と、ダムによって村をその下に閉じ込める泥水の窒息するような重たい側面という、異なるふたつの役割が与えられている。それは、愛する者との別離や不在の原因になる、人智を超えた圧倒的な何かとしての水(泥水、ダム)と、やはり人智を超えているものの、別離の痛みや不在の心許なさをかりそめに癒す何かとしての水(雨水、川)にそれぞれ体現されている。本作を読んでから他の作品を読むと、他の作品の水の描かれ方も違って見えてくるだろう。

◆自然現象とコミュニケーションする『ひさかたのおと』(石井明日香)

天気の子』のコミック版および『蛇の山』の窪田 航と同様、『水域』と『蟲師』の漆原友紀もアフタヌーンの四季賞を受賞している。次に挙げる『ひさかたのおと』の作者である石井明日香も四季賞を受賞している作家の1人だ。

『ひさかたのおと』の主人公は元博物館職員の新人教師。生まれ故郷である離島に赴任するところから物語は始まる。海で、庭で、霧の中で、主人公は不思議な現象に出会う。日光の反射とは異なる海の中の煌めき、霧の中を泳ぐように移動する巨大な生物のような何か、理詰めで考えて捉えられないものを認めたくないカタブツの主人公は、それぞれ科学的な解釈を与えて納得しようとする。
しかし、亡き母から幼い頃に預けられた首飾りをきっかけに、不思議な現象はやがて日常に溶け込み始め、主人公は封印されていた記憶を思い出すにいたる。赴任先の学校で受け持つことになった僅か二人の生徒や、幼馴染の同僚の教師、島の住人たちの暮らしに主人公は徐々に馴染んでいく。

人間は自然の中で生かされているということと、人間が社会生活の中で自然のことを忘れがちになっていること、この2つの現実を思い出させてくれる作品だ。
もちろん、本作に描かれているような不思議な現象は現実には起こり得ない。起こり得ないことはフィクションだからこそ描くことができる。現実の生活の中でであったら到底信じることのできないような出来事に、登場人物がどのように向き合うのか、その描き方に各作品の作者の手腕が伺える。

単に信じがたいような現象に直面するだけではなく、心のどこかでその現象を受け入れたいと願ってしまうような要素が現象に含まれていること。ホラーであれば、恐怖の対象を現実だと受け入れたくない気持ちが対策を誤った方向に導く場合もある。

常識では受け入れられないような現象に対して「落とし所」を見つけることは、生き抜くために必要な場合もある。今回取り上げた3作品はいずれもいわゆるホラーではないが、『水域』と『ひさかたのおと』はどちらも「不思議な現象」に対して登場人物がそれを受け入れていく過程がていねいに描かれている。
天気の子』ではこの「受け入れ」をあまり描写していない。「100%の晴れ女」という能力の発現を、子供たちはビジネスに利用しようとするし、大人たちもそれまでの経済活動のなかにやすやすと組み込んでしまう。もちろん多少の驚きがそれぞれに無くは無いのだが、考えてみれば「経済活動」というものは、日常に少し不思議なもの、驚きを生み出すものを組み込んでいくシステムなのだから、これも当然のことなのかもしれない。

『水域』では、主人公の暮らしている日常世界が歴史的な旱魃に襲われている。主人公は熱中症らしき状態で失神し、家族のルーツである村に意識を飛ばし、そこで亡き兄や行方不明の父と出会う。この作品において、主人公の日常と、失神しているときに主人公が踏み込んでしまう村というふたつの世界を隔てているのは、抽象的に言えば「水」であり、いっけんしたところ村で信仰されていて、作中ではその姿がはっきりと描かれることのない「龍神」であるようにも見える。
しかし実際には、この作品に欠かせないモチーフとして登場するのは、ダムである。現在の日常、その生活を維持するための経済に不可欠な建造物として。あるいは、過去の村の生活を水没させ、それまで村で暮らしていた人々の記憶をも泥の下においやるものとして。
『水域』は、『ひさかたのおと』で主人公が合理的科学的な考え方で受け入れることに躊躇した不思議な現象ではなく、むしろその合理的思考や科学的思考によって生み出されるダム、そしてそのダムによって象徴される現代的な暮らしを「受け入れる」ためにこそ不思議な現象が描かれているようにも読める。

人類史を遡れば、文明の端緒は「水」との戦いだったことがわかる。ギルガメシュ叙事詩や旧約聖書における洪水の物語、たびたび氾濫することによってエジプト文明を「ナイルの賜物」と呼ばせたナイル川、そして黄河文明における治水事業の重要性。
水の惑星と呼ばれるほど、水の占める割合の多い地球に生きている我々自身も、体内に60から70%もの水分を蓄えていると言われる。生きていくのに不可欠でありながら、コントロールすることが難しい「水」は、これからもフィクションの重要な題材になっていくだろう。
そのようなフィクションを読むときには、ぜひ何が人類と「水」とを媒介しているのかに注目してみてほしい。

(c)原作:新海誠・漫画:窪田航/講談社

天気の子コミカライズ版から考える、「水」と「人」の関係性が織りなすフィクションは、WHAT's IN? tokyoへ。
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掲載:M-ON! Press