詳細画像はこちら

アフリカ縦断を敢行したランチア・ベータ

text:Graeme Hurst(グライム・ハースト)
photo:Felix Furtakフェリックス・フルタク)/Graeme Hurst(グライム・ハースト)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
大地に明確に道と呼べるものはない。数え切れないほどのトラックが、われわれが目指す方向へ走っていく。「数km毎に、目印として大きなドラム缶が置いてあります。もしそのドラム缶を見失ったら、死を意味しました」

ドイツに生まれ、南アフリカ共和国のケープタウンで暮らすフェリックス・フルタクが振り返る、恐怖と隣り合わせの旅の記憶。今から30年前、彼はアフリカを縦断する冒険へ出発した。サハラ砂漠を越えて。

詳細画像はこちら
1975年ランチアベータでのアフリカ縦断の様子

GPS携帯電話が誕生する前の、壮大なチャレンジ。もともとは、地元の酒場で盛り上がった流れで口にした、無謀な強がりだった。

アフリカを縦断するといっても、選ぶクルマリスクは大きく変化する。トヨタを選べばきっと小さい。だが、フェリックスが選んだのは、ランチアベータ。信頼性に関しては、悪い方で評判が高い。

陰りゆくイタリアンブランドが生み出した、欧州の道でも心配に事欠かない、サビだらけのクルマ。27歳のフェリックスは、赤いベータでサハラ砂漠の走破に成功した。

チャレンジスタートする以前から、ベータの走行距離は16万kmを超えていた。その事実が一層、無鉄砲な選択に思わせる。エンジンはすでに活発とはいえず、交換しても良い状態だった。

その前にランチアベータは、アルプス山脈も超えた。積んでいたトレラーから転がり落ち、屋根が切り取られてもいた。そんな思い出は、1975年ランチアベータフェリックスとの深い友情の一部に過ぎない。

学費のために売却された赤いクーペ

そもそもランチアベータは、彼の父がほぼ新車の状態で購入したクルマだった。一度、フェリックスの学費を作るために売却されてしまうが、フェリックスは学生ながらにそのベータを買い戻した。サハラ砂漠へ挑む10年ほど前のことだ。

「母を喜ばせたいと思い、父はベータを買って帰ったそうです」 ドイツ南西部、シュテーゲンの街にスタイリッシュなクーペがやって来た時、フェリックスは12歳だった。

詳細画像はこちら
1975年ランチアベータでのアフリカ縦断の様子

「1年落ちのベータで、真っ赤に輝くボディでした。見た誰もが、感銘したと思います」 だが母は、さほどクルマには乗らなかった。

「母がクルマを運転するのは、日用品の買い物程度。とても実用性に欠けるクルマだと、気づいていました。買い物先から家は500mほどしか離れていなかったので、すぐに乗らなくなりました」

数年後、ベータフェリックスのエンジニアとしての夢を叶えるため、売られてしまった。だがフェリックスは喜んではいなかった。「ランチアに乗りたいと思っていましたが、父は学生が乗るクルマではないと、話していました」

わたしは学生をドロップアウトし、当時の若者らしく自由に暮らしました。仕事を見つけ、貯金をして、ベータを買い戻したんです」 フェリックスの気持ちは強かった。もちろん、こんな決断は家族の誰をも喜ばせなかった。

「父は、エンジニアを目指すべきで、イタリア製のスポーツカーを買うべきではなかった、と話していましたね」 フェリックスの父は、ベータを維持するお金は工面できないと考えていた。だが彼は、独創的な方法で資金を調達するアイデアをひらめく。

多くの修理で自ずとクルマに詳しくなった

チュニジアで安い羊毛が買える話を、友人が聞きつけたんです。イタリアジェノバまで向かい、フェリーに乗って羊毛300kgを買って、販売することを思いつきました」

クルマの知識はありませんでした。エンジンオイルの量は最小限だったのですが、良い状態だと勘違いしたほど。出発してしばらく走ると、ドスンという音でストップ。最初のアフリカへの旅は、高い修理代で終わりました」 別のエンジンへと載せ替えられた。

詳細画像はこちら
1975年ランチアベータでのアフリカ縦断の様子

それから数多くの修理が求められ、フェリックスは自ずとランチアベータのメカニズムに詳しくなった。知識を重ねていったフェリックスは、ベータの部品販売を始める。

その頃、フェリックスは両親からエンジニアとしての学業に取り組むよう強く迫られていた。彼は英国サルフォードで、工学の学位を取得した。

英国に移っても、起業家としての精神が弱まることはなかった。ランチアの部品売買も調子に乗っていた。英国人はランチアに対する熱意が高かったことが、取り引きを後押しした。

資金を貯めると、フェリックスは走れない状態だったベータを復活させた。サルフォードの外に止めてあったクーペを、再び走れる状態にした。

皮肉なことに路上へは復活したが、想像した状態とは異なった。フェリックスがマンチスターに向けてベータを運搬中、トラックから落とし、ルーフを破壊してしまったのだ。

酒場で酔った勢いで口にした砂漠の縦断

保険会社からも見放され、彼は残りのルーフを切り落とし、1台だけのベータスパイダーを作った。簡単な強度計算を行い、シャシーには必要な補強加工が施された。

その頃には、オープントップランチアは、友人の間で笑い話のネタになっていた。ドイツに戻ると、酒に酔った流れで思いもよらない話へ展開した。

詳細画像はこちら
1975年ランチアベータでのアフリカ縦断の様子

「君の古いスクラップでは、どこへも行けないし、何も得られないと笑われました。すぐに反論しました。クリスマスまでにサハラ砂漠を縦断できるかどうか、500マルクを賭けよう、と切り出したんです」 

1991年10月のことだった。そもそもルーフを切断したベータは、合法のクルマでもない。フェリックスは構造計算を急いでし直し、通関手続きの書類、カルネを取得した。

12月中旬になると、フェリックスと友人のイアンロビンソンは、フェリーに乗ってチュニジアを目指した。クリスマスまでにサハラ砂漠を縦断する、残り時間は多くはない。賭けに負けるリスクは高かった。

サハラ砂漠を貫く高速道路トランス・サハラ・ハイウェイは決して簡単なルートではなかったが、始めは走りやすかった。部分的には舗装されていたのだ。

しかし、2人がアルジェリアのタマンラセットを過ぎると、黒いアスファルトは茶色の砂へと変わった。そこから先、ニジェールまでの500kmは、往来するトラックと目印のドラム缶以外、何もなかった。

続きは後編にて。


ランチアの記事
【アフリカを縦断したランチア・ベータ】酒場の与太話が生んだ大冒険 前編
【ラリーをマキシマム・アタック】WRCグループBを戦ったマルク・アレン 後編
【ラリーをマキシマム・アタック】WRCグループBを戦ったマルク・アレン 前編
【いちど見たら忘れられない!?】画像で紹介 リアウイングが特徴的なクルマ 21選

【アフリカを縦断したランチア・ベータ】酒場の与太話が生んだ大冒険 前編