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◆IT用語がBLM運動の影響により置き換えに
 黒人男性ジョージ・フロイド氏が白人警官によって殺された事件は、様々な場所に影響を与えている。事件後、大きく拡大した「BLACK LIVES MATTER」(黒人の命は大切だ)運動は、IT業界にも波及している。それも、特定のプロダクトにではなく、IT業界全体で大きな作業が発生しそうになっている。

 それは、IT用語の置き換えである。黒人の差別問題に関係のありそうなIT用語を、関係のなさそうな用語に置き換えようという動きである。具体的には、マスター」「スレイブ」のような用語や、「ブラック」が含まれる用語である。これらは「今後、それらを使わないようにしましょうね」ということでは終わらない。

 一つの動きは、既にあるプログラムを書き換えようというものだ。上記のような変数名や、関数名を使っているものを、全部書き換えましょうという動きだ。そうなれば、大きな作業工数が必要になるアメリカの企業ならば、それで「私たちは高い人権意識を持っています」と示す、広報的な利点があるかもしれない。しかし、アメリカ以外の企業は、その変更に巻き込まれることによって利益のない作業時間を割かれる可能性がある。

 もう一つの動きは、多くの人が利用している大規模サービスの各種機能名を変更するというものだ。そうなれば、過去のIT技術書や、説明ドキュメント意味不明になってしまう。たとえば、社員研修用や、新人研修用に用意している文書は、この変更に合わせて、全て更新しなければならない。また、出版物は、全て訂正文を用意するか、次の版から書き直しをしなければならなくなる。

 単に表記上の文字を変えようということだけでなく、実経済に影響のある動きになっている。

GitHubの動き
 大きな動きとしては、世界規模で利用されているソフトウェア開発ラットフォーム兼、ソースコードスティングサービスGitHub の動きだ。同サービスは、世界で5000万人の開発者が利用している。

 6月13日に、Google の開発者 Una Kravets が、「master を main にすると嬉しい」とツイートした。それに対して、GitHub の CEO の Nat Friedman「いいアイデアだね、もう取り組んでいるよ!」と返信した(参照:BBC News)。

 ちなみに、マスターという言葉はIT業界では、コピーを作る前のオリジナルのものを指す意味として、よく用いられている。現実の世界では「マスターキー」の「マスター」が分かりやすいと思う。また、「マスター音源」として使われる「マスター」も同じ意味だ。

 では、GitHubGitというツールを利用して、バージョン管理をおこなう)の「マスター」は、「主人と奴隷」という意味の「master / slave」と関係ないかと言うと、実は関係があるという話がある(参照:Latest topics > outsider reflex)。

 Git というツールは、BitKeeper というバージョン管理システムの代替として開発された(参照:Hacker News)。その BitKeeper で、「master / slave」という用語が使用されており、それがそのまま流用されたのではないかという話がある(参照:bitkeeper)。

 Git の開発に参加した Petr Baudis は、マスター録音のマスターの意味で、master を使ったが、その後何度も別の名前にした方がよいと思ったとツイートしている。その発言に対して、他の開発者が、命名は難しいので自分を責めないでください、変更は必要でしょうがと返信している。

 こうした流れがあるために、GitHub で「マスター」という言葉が変更対象になるのは、ある意味、いつかは通らないといけない道だったとも言える。ちなみに、Git では、コピー前のプログラムを「マスター」、コピー後のプログラムを「ブランチ(枝)」と呼ぶ。とすれば、素直に考えれば、コピー前のプログラムは「トランク(幹)」でないとおかしい。そうした言葉のねじれは発生していたわけだ。

◆言葉の置き換え
 こうした言葉の置き換えは、BLM運動で一気に火を噴いたわけではない。実はこの数年、IT業界で徐々に進行していた。各種のプログラミング言語や、ソフトウェアで用語の置き換えが進んでいる(参照:ZDNet Japan、)。また、ハードウェアの「マスター、スレーブ」の用語についても、問題として既に顕在化している(参照:BBC NEWS)。

 マスターブラックなどの用語の動きについては、mattn 氏(普段からGo言語について活発に情報発信をしている)の「blacklist/whitelist master/slave に関する情報集め」という文書がよくまとまっている。

 「マスター、スレーブ」の代替としては、以下のような用語が挙がっている。

leader/follower
builder/worker
leader/replica
primary/replica
primary/second (DNS)

 「ブラックリストホワイトリスト」の代替としては、以下のような用語が挙がっている。

blocklist/allowlist
blocklist/safelist
blocklist/passlist
denylist/allowlist
stoplist/golist
redlist/greenlist

 個人的には、ブラックの置き換えでブロックを使うのは、語感に差異が少なく、センスがあってよいと感じている。

アメリカ中心のIT業界の弊害
 さて、こうした動きは、アメリカがIT業界の中心ゆえに起きている現象だと言える。衛星的な立場の本邦は、その動きに振り回される側である。こうした時、世界は繋がっており、IT業界の現在の中心は、やはりアメリカなのだと思わされる。

 さて、現実問題として、世の中の言葉の置き換えはどれぐらい進むのだろうか。マスター、スレーブ、ブラックの3つの言葉に焦点を当てて、Wikipediaタイトルとして、どれぐらいの単語が登録されているのか簡単に調べてみた。

 以下、「ページタイトルに含まれるもの」という条件で検索を行った結果だ。

日本語Wikipedia
 「マスター」568件
 「スレーブ」11件
 「ブラック」1,016件

英語版 Wikipedia
 「master」6,074件
 「slave」750件
 「black」13,050件

 これらの用語が、どこまで置き換えられていくのか興味があるところである。

◆言葉の急激な変化の危うさと、慎重な議論の必要性
 言葉は、単独で成立しているわけではなく、その背景に歴史があり、他の単語と密接に関係している。そのため、安易な置き換えは社会的な混乱を招く。

 誕生当時には問題がなかった言葉でも、文化的、社会的な背景が変わり、意味が問題視されるケースも多い。たとえば、日本語で言えば「嫁」という言葉が「女が家にいる」という漢字であるために問題視されるケースがある。また、夫を意味する「主人」という言葉が、女性が男性の従属物であることを想起させるために相応しくないとされるケースがある。

 こうした言葉は、社会的な要請が強ければ、徐々に置き換えられていく可能性がある。あるいは、成立当時の背景が希薄になったという理由で、問題視されなくなる可能性もある。

 言葉は生き物であるので絶えず変化を続ける。ある対象を指す言葉が変わることもあれば、言葉が指す対象が変わることもある。場合によっては時間を経ることで180度意味が変わるケースもある。

 ただ、あまりにも急激な変化は、社会を混乱させる。特に、技術用語のように全員が共通の意味を指して使う言葉は影響が大きい。

 プログラムでは、大きな変更が入る場合は、メジャーバージョンアップとして、過去との違いを明確にする。そして、周囲に大きなコストを払ってもらう。言葉の変更も、それと同じぐらいのコストを周囲に払わせることになる。

 言葉の変更は、慎重な議論を経て、適切なタイミングでおこなうべきだろうと感じる。

<文/柳井政和>

【柳井政和】
やない まさかず。クロノスクラウン合同会社の代表社員。ゲームアプリの開発、プログラミング系技術書や記事、マンガの執筆をおこなう。2001年オンラインソフト大賞に入賞した『めもりーくりーなー』は、累計500ダウンロード以上。2016年、第23回松本清張賞応募作『バックドア』が最終候補となり、改題した『裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬』にて文藝春秋から小説家デビュー。近著は新潮社レトロゲームファクトリー』。2019年12月Nintendo Switch で、個人で開発した『Little Bit War(リトルビットウォー)』を出した。

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