―[負け犬遠吠え]―


ギャンブル狂で無職。なのに、借金総額は500万円以上。
それでも働きたくない。働かずに得たカネで、借金を全部返したい……。

マニラのカジノで破滅」したnoteで有名になったTwitter上の有名人「犬」が、夢が終わった後も続いてしまう人生のなかで、力なく吠え続ける当連載。

 世間が自粛から解禁され、犬の日ギャンブルも再開。今回は幸運の所在についてです。


=====

トイレを借りて1,000円だけ入れる感謝打ち

 ウォシュレットがあるトイレで用を足すためにパチンコ屋に入る。

 僕の借りている部屋はユニットバスで、そんな高価な設備は無い。東京に来て初めてウォシュレットを利用してからは虜になってしまっている。今更紙だけでお尻を綺麗にしようとしても、続ければ負担が大きすぎるだろう。いつか切れる。

 僕は普段からパチンコ屋に感謝しているので、トイレを借りただけで帰ろうとは思わない。礼儀として1,000円だけ何かの台を選んで打つことにしている。勝ちたいわけでもないし、勝てる確信があるわけでもない。ただ、トイレを借りて打つだけなのは悪い気がして習慣化している。元々頭を使ってギャンブルをしていないから全く抵抗がない。コンビニや飲食店でトイレだけ借りて帰るのが忍びないから一つ注文をしたり、ガムを買ったりするあの感覚と同じだ。競馬で言う所の「記念馬券」である。

 毎日通っていたとしても、こういうタイミングパチンコが一番楽しめたりする。究極の無欲がそこにあるからだ。見方によってはただ金を捨てているだけに思うだろう。その通りかもしれない。僕にとってこれは儀式に近い。この1,000円に籠もっている想いは100%の「感謝」だ。今時トイレを無料で開放している施設なんてパチンコ屋と競馬場しかないだろう。ギャンブルの業界は懐が大きい。

 感謝の1,000円を古い台に入れる。懐古と新鮮な緊張感だけが胸に残る。

 ありがとう。

 1,000円だけ打つ、というのはギャンブル依存症にとって非常に困難なミッションで、大抵の場合は当たらなくて遊び金の範囲を超えてしまうが、トイレを借りた時ばかりは1,000円きっかりでやめられるパチンコではなく遊技機に見えてくる。普段は当たるまで携帯に視線を移していたから見ることのない演出も、感謝の気持ちからしっかり見る。新しい発見に嬉しくなる。

「こんなタイミングボタンが震えていたのか」

「今普段と違う色だったな」

 記念日以外の何気ない日にパートナーへの感謝を伝えるためにまじまじと観察し、新しい魅力を見つける喜びに近い。そう、だから僕はお前と8年も付き合ってきたんだ。

 感謝の雨は止まらない。10分と経たずに1,000円は消えてしまうが、いつものような後悔はない。1,000円で解決できる貧困問題はほとんど存在しないからだ。少しつまづいて泣いていた幼少期を忘れてしまったように、1,000円2,000円負けたくらいでは危機感の種すら生まれない。そこにあるのは「win-winの関係」のみだ。

 記念馬券は滅多に当たらないが、トイレを借りたお礼として打つ「感謝打ち」はよく当たる。純粋にパチンコを楽しもうという気持ちを、トイレの神様が見てくれていたのだ。

 完全なる無欲の勝利だった。本当は勝利のインパクトが強すぎて忘れていないだけだが。

 こういう小さな幸せが今の僕の生活の軸になっている。

◆地方の富裕層から都会で貧乏若者になるまで

 もう貧困生活も8年目を迎えようとしている。

 僕は去年まで約5年間サラリーマンだったが、その時も常に金がなく、半年に一回のペースカジノに行っては散財してを繰り返していた。客観的に見て人生が破滅してるように見えるのも理解してはいるが、僕の中でカジノは愛すべき「慣れた非日常空間」なので今後も現金が貯まれば行くだろう。

 18歳までは名家の庇護の元、田舎で考えられる最高水準の教育を受けてきた。塾も習い事も好きなだけ通わせてもらったし、金の話をされたこともなく、上京するまでアルバイトを経験したことすらない。親から受けた教育の過程で、自覚なく身についた教養と道徳を無自覚に奮い、そつなく夢に向かって歩んでいくものだと思い込んでいた。

 田舎で奔放に好きなことを好きなだけやった僕は、24時間剥き出しになった東京の刺激に骨抜きにされ、1年と経たずに堕落することになる。管理されなくなって本当の自分が露呈してしまった、が正しい言い方かもしれない。

 大学を3ヶ月で辞め、実家の逆鱗に触れて親名義で借りていた部屋の契約を切られ、たまに友達の家に転がり込み、工事現場でその日をしのぎパチスロで金を作り、予備校の講師の影響で好きになった京都に引っ越した。朝は寺巡りを楽しみ、昼を過ぎてからはパチンコを打つ毎日を送り、金がなくなればまた日雇いの仕事を探して金を作った。

 本来、人は学習する生き物なのでこの過程で、

「貧乏は忙しくて嫌だな」

 と思い立ち、一念発起して頑張るところなのだろうが、僕にその機会が訪れることはなかった。3ヶ月ほど働いて得たお金で1ヶ月好きに暮らし、また職場を変える生活を気に入ってしまっていた。

 貧乏は大変だ、という気持ちよりも、行き当たりばったりの生活でもなんとかなる、という気持ちの方が強かったのだ。

 そして東京に戻って一つの職場に落ち着き、仕事に出てさえいれば決まった金を受け取り続ける環境にいること5年。「なんとかなる自分」は完全に死んでいた。それまで3ヶ月働いて1ヶ月自由な生活をしてきたのだから、5年働いてしまった以上、1年半は自由に生活できなければ「元」が取れない。

 この年齢になってもそんな考え方が変わらないのは、責任から逃げ続けてきた産物なのかもしれない。

 僕は、26歳になった今でも丸裸のままだ。守るべき人もいなければ果たすべき約束もない。

 高校を卒業して親元を離れ、馬に与えられる人参のように目の前に理想をぶら下げる相手もいない、まるで大学3年生のように緩慢な自由を、ずっと大事に抱えている。実態は極貧だけど自分ではそう思っていないかのような錯覚に陥っているので、節約もしないし携帯を解約したりもしない。(海外で一度だけ気の迷いで質に入れてしまったことはあるが)

 そもそも携帯は現代において、困窮していればしているほど手放すわけにはいかない必須アイテムだ。白いタンクトップを着て扇風機もない四畳半の部屋でジッとしている……なんてステレオタイプの貧乏人は現代にほとんどいない。普通の顔をして社会にある程度溶け込んでいる。

 当たり障りのない低空飛行の生活をしていると人生から起伏が消える。目標を失って他人と自分を比べることもしなくなった貧乏人がギャンブルにハマるのは最早必然だろう。

 何もしないから運否天賦になるし、何もしていない自覚があるからこそ勝った時の喜びも大きい。我々は、たまに起きる偶然を味わうために博打を続けている。

「何もせずに稼げるようになりたい」わけではない。ただ、たった今何もせずに救われたいからすがるのだ。楽して生きるとは少し違う。最初から未来なんて見てない、楽を選び続けた結果の地続きの「今」しかない。たとえ最終的に損をしていたとしても、生活の中にラッキーを散りばめて小さな幸せを拾いたい。

 トイレの神様は本当にいます。

【犬】
フィリピンカジノで1万円が700万円になった経験からカジノにドはまり。その後仕事を辞めて、全財産をかけてカジノに乗り込んだが、そこで大負け。全財産を失い借金まみれに。その後は職を転々としつつ、総額500万円にもなる借金を返す日々。Twitternoteでカジノですべてを失った経験や、日々のギャンブル遊びについて情報を発信している。
Twitter@slave_of_girls
note→ギャンブル依存症

―[負け犬遠吠え]―