◆一度流れたデマを消すことは難しい

2018年シリアからの帰国後に会見を行う筆者(左)

 会員制交流サイト(SNS)など、インターネット上の誹謗中傷社会問題になっている。

 罵詈雑言はいずれ沈静化することもあるが、一度流れたデマは何年たっても蒸し返され、あたかも事実であるかのように世の中に定着し、人は匿名でも実名でも堂々と誹謗中傷するようになる。無視しようと反論しようとデマを消すことはできず、言論によって解決することは事実上困難なのが実態だ。

 2018年10月シリアでの拘束から解放されて帰国した私は、SNSの匿名アカウントだけでなく、大手メディアや、ジャーナリスト、研究者などの肩書がある人々が、実名(署名)で根拠不明の情報を流していることを知った。

 帰国後に行った記者会見の中で私は「私自身に対して批判があるのは当然。ただ、事実に基づかない批判もあるように思うので、あくまでも事実に基づいたもので批判していただきたい」という趣旨の要望をした。しかし、その後も根拠不明の情報が流され続けた。

誹謗中傷」とつなげて使用されることが多いが、辞書を引くと「誹謗」とは他人を悪く言うこと、「中傷」とは根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけることである。

 前者は罵詈雑言の類で、後者は何かしらの具体的な事柄を根拠なく示す行為のことだ。事実に基づかないもの、根拠不明の情報を流して名誉を傷つければ、批判ではなく「誹謗中傷」ということになる。

◆「何回も人質になった」とは、いつの、どの国での話をしているのか
 挙げればきりがない数々の「誹謗中傷」の中で、特に看過できないのは「何回も人質になった」というものだ。

「複数回」とぼかす人もいるが、「3回」「6回」といった具体的な数字を挙げた人もいる。いずれの記事も「何回も」という部分を批判の重要な材料にしているにもかかわらず、「これは虚偽ではなく事実である」という具体的な根拠を何も示していない

そのたびに身代金を払ってもらっている」などと、これも何ら根拠を示すことなく当然の前提事実であるかのように書いている記事もある。まるで競うかのようにエスカレートしている状態だ。

「人質になった回数」の話題は、ほとんどが私への嘲笑の材料にされる。「誹謗中傷されるのは自業自得」「旅券発給拒否は当然」といった主張や、「何度も人質になっている無能なやつはジャーナリストではない」「自作自演だ」「身代金ビジネスだ」などと、記者としての能力だけでなくあたかも犯罪者であるかのような評価につなげられている。彼らが今さら「社会的評価を低下させるものでも、信用を毀損するものでもない」と言い出すとは思えない。

 しかし「何回も人質になった」というのはデマである。まず、過去にメディアで「人質」と報じられたのは2004年イラクでの拘束と、2015年からのシリアでの拘束の2回。その他に「人質」という報道は過去に存在せず、「何回も」がいつの、どの国での話をしているのか自分でもまったく見当がつかない。

◆人質にされたのはシリアの1回だけ
 私が2015年シリアで拘束された際は、拘束者から「日本政府と交渉する」と言われて監禁され、「人質」であったことは間違いないだろう。しかし、2004年イラクでの拘束が「人質」であるという報道は何ら根拠のない事実上の誤報で、人質にされたのはシリアの1回だけだ。

1回だけだとしても批判されて当然だ」と言う人が出てくることが予想できるが、それは別の話だ。虚偽の情報、デマを流してよい理由にはならない。そして、デマに基づく批判は批判ではなく誹謗中傷でしかない

「人質」とは何か。辞書を引いてみるとこうある。

「①交渉を有利にするために、特定の人の身柄を拘束すること。また、拘束された人。②近世以前、借金の担保として人身を質入れすること。誓約の保証として妻子や親族などを相手方にとどめておくこと。また、そのようにされた人」(大辞泉)

「①要求実現や自身の安全のために、脅迫手段として拘束しておく人。②約束を守るあかしとして、また経済上の担保などとして、相手方に預けられる人。近世以前に行われた。③人身を質に入れること」(大辞林)

「拘束」は「①思想・行動などの自由を制限すること。②犯人や被告などの行動・自由を制限すること」(大辞泉)、「①捕らえて、行動の自由を奪うこと。②行動や判断の自由を制限すること」(大辞林)とある。

 人を捕らえて、その交換条件として何かを要求した場合、または何かの交換条件のもとに人身を相手方に預けた場合に初めて「人質」になる。捕らえられればその時点で「拘束」だが、拘束だけでは「人質」ではない。何かしらの交換条件を伴うのが「人質」だ。

 例えば、どこかの企業の敷地に入り込んでしまった人が、警備員に呼び止められて警備室で事情を聞かれた場合、政府や家族に身代金などを要求されることはまずないだろうし、連絡すら取られることなくそのまま解放される事例がほとんどだろう。

 この場合は「人質」ではない。拘束者から要求があって政府や家族が何かしらの対応をしなければならない「人質」と、何も要求がない「拘束」では事例の性質がまったく異なることが分かるはずだ。

 私について「何回も人質になっている」などと書いている記事の中で、一般的な辞書にない独自の「人質」の定義をしているものはない。一般の読者がよほど特殊な読み方をしない限り、辞書に収められた言葉の意味から外れた解釈をすることはないだろう。

 これらの記事は「捕らえられただけではなく交渉のための要求がされた人質」という一般的な「人質」の意味で「何回も人質になっているという事実がある」と述べているわけだ。

イラクでの拘束は「人質」ではなかった

イスラム国(IS)との戦闘で死亡したイラク軍兵士の遺体を埋葬する家族=2014年5月11日イラク中部ナジャフ

 シリア以外で「人質」と報道されたのはイラクでの拘束だが、これは何ら要求も連絡もない「拘束」であり、「人質」ではない。それは公開された公文書からも明らかだ。その経緯から振り返る。

 2003年3月に開戦したイラク戦争は、サダム・フセイン政権崩壊後、占領軍である米軍への抵抗が広がった。特に激戦となったのが2004年4月のファルージャ包囲攻撃だ。首都バグダッドの西約60kmにあるファルージャは占領統治への抵抗が強く、米軍が包囲攻撃を行い、1週間でイラク人側の死者は700人以上に達した。

 その包囲攻撃の最中の4月8日、隣国ヨルダンからバグダッドに陸路で向かっていた日本人3人がファルージャを通過しようとした際に武装した集団に拘束され、当時イラクに駐留していた自衛隊を3日以内に撤退させなければ殺害する、との声明が拘束者から出された。身柄の対価としての要求がされた人質事件である。

 日本政府は自衛隊撤退を拒否したが、3人は同15日に無事解放された。その前日の14日、バグダッドとファルージャの間にあるアブグレイブで、取材に同行していた市民活動家の渡辺修孝さんとともに拘束されたのが私の件だ。

 拘束直後に解放された私の通訳が旧知の日本人ジャーナリストメールで知らせ、日本メディアは即座に大々的に報道し、一部は何ら根拠を示すことなく「人質」と表現した。拘束者側から何も声明や動画などは出されず、家族にもまったく接触がないまま同17日に解放された。

◆日本政府の認識を確かめるため、外務省警察庁内閣官房に情報公開請求
 では日本政府はどのような認識だったのか。私はこのほど、外務省警察庁内閣官房に情報公開請求をした。

 外務省に対し、最初の3人の人質事件と私の拘束の件についてのすべての文書を請求し、保存しているとした68の文書のうち、29は非公開決定、残りは全部もしくは一部が公開された。外務省の場合、個人情報開示を請求しても対象になるのは提出した旅券申請書類など形式的なものになるので、第三者が請求する場合と同様に請求した。

 警察庁には第三者として請求してもほとんど公開されない可能性があると考え、私自身に関する事件についての個人情報の開示を請求した。結果、警備局外事情報部・国際テロリズム対策課が「在イラク邦人人質事件の捜査状況」「在イラク邦人拘束事件(総括)」「国際テロ緊急展開チーム(TRT)の現地活動結果(総括)」の3つの文書を公開した。

 内閣官房についても同様の理由で個人情報の開示を請求し、私に関わる情報が含まれる5つの文書が公開された。

 いずれも事件そのものについての新しい情報はないが、はっきりしたのは、日本政府は私の事件を「人質」とは認識していなかったということだ。

 例えば外務省が公開した、「平成16年4月20日」に「外務大臣発」で「全在外公館」に送られた「イラクにおける邦人人質事件」という件名のFAXには、最初の3人の事件と、私の事件についての「事件の概要」「政府の対応」「現地緊急対策本部の対応」と、時系列で記した「事件の経過」が書かれている。

解放後の「平成16年4月20日」付の外務省の公文書。今井さん、郡山さん、高遠さんについて「人質となったことを示す」と書かれている

 3人の件については「人質となったことを示す映像が存在する」として「人質」と書かれているが、私たちの件は「拘束されたとの未確認情報」「拉致された可能性」という記述にとどまっている。「事件の経過」では私たちの件は「行方不明となっていた」という表現だ。

平成16年4月20日」付の外務省公文書。筆者の件については「拘束されたとの未確認情報」とされている

外務省警察庁も「人質」とは認識していなかった
 3人の事件では拘束者からの映像が衛星放送アルジャジーラに届けられたが、私たちの件は声明や映像などは何もない。私の通訳による「拉致された」という目撃情報があっただけだ。通訳は在イラク日本大使館にも直接出向いて知らせ、自身の安全確保を希望したが、大使館は拒否したという。「拉致された」との情報自体の真偽を疑っていたと思われる。

 解放後、対応の実質的な責任者であった当時の在イラク日本大使館の上村司・臨時大使に日本政府の対応を尋ねると「従来からのネットワークを通じて、拘束の事実があるのかどうかの確認をしていた」と答えた。

 もし拘束者から何かしら接触があれば、本当に捕まえているという証拠を求めるなどで拘束の事実は確認できる。それができていなかったのは拘束者側から何も接触がなかったからだ。私たちの家族をはじめ、拉致されたかどうか、拘束されたかどうかを含む私たちの状況が誰も分からず、連絡もつかない状態だった。「行方不明」という文言は事実を表していると言えるだろう。

 外務省の公開文書はこのほかにもさまざまあるが、私の件で行方不明」「拘束」とは書かれていても、「人質」と記されている文書はない。報道では3人の件は「人質」で、私たちの件も一部メディアは「人質」としていた。しかし公文書では、3人の件は「人質」で、私たちの件は「人質」の表現は使わず明確に書き分けている。これは外務省が私の件を「人質」とは認識していなかったという証拠だ。

 警察庁の文書は、ほとんどが黒塗りされていて私や家族の名前や住所程度しか読めない。「平成16年8月25日」付の「在イラク邦人人質事件の捜査状況」は「3邦人人質事件概要」と「2邦人人質事件概要」という項目があり、私たちの件でも「人質」という表現になっている。しかし、私の名前が「安田順平」になっていたり、実家の分譲団地が「県営団地」になっていたりと、誤った記載が多く信頼性に欠ける。

解放から3か月以上過ぎた「平成16年10月8日」付の警察庁の公文書。「在イラク邦人拘束事件(総括)」の表題とおり「拘束」と総括されている

平成26年10月8日」付の「在イラク邦人拘束事件(総括)」もほぼ黒塗りだが、私たちの件のみの文書で、表題通り「拘束」になっている。「拘束」と総括しているのだから、警察庁もあくまで「人質」ではなく「拘束」であったと認識していることが分かる。

内閣官房も「人質」ではなく「拘束」「行方不明」と表現
 内閣官房の文書は、私たちの件だけが書かれている「4月15日に報道されたイラクにおける邦人拉致について」という「平成16年4月15日07:00現在」の文書に続いて、3人の件と合わせて書かれている「在イラク邦人人質事件について」という同名の文書が4つ、計5つの文書が公開された。

拘束翌日の「平成16年4月15日07:00現在」付の内閣官房の最初の公文書。日本政府は最初に報道によって拘束の情報を得たため、「新たに2人の邦人が人質となった旨…の報道があった」との表現になっている

4月15日に報道されたイラクにおける邦人拉致について」は拘束翌日に作成されたもので、報道されたものをまとめてあるだけの、恐らく最初に作成された文書だ。「政府の対応」として「正確な事実関係を確認するため、情報収集に全力をあげているところ」と書かれている。報道が「人質」と書いているので公文書でも「人質と報道」となっているが、これは日本政府としての認識ではなく、あくまで「報道がどうなっているか」を記したものだ。政府が拘束を知った端緒が報道からであり、それ以上のものを持っていない様子が見える。

 続く4つの文書は、「平成16年4月15日17:30現在」「平成16年4月16日09:00現在」「平成16年4月19日8:00現在」「平成16年4月20日7:30現在」と解放後までの経緯を追うかたちで作成されている。

内閣官房公文書2と同じ内閣官房の公文書では、筆者の件は「2邦人拘束情報の件」で、3人の「人質事件」と書き分けている。外務省と同じ「拘束されたとの未確認情報」という説明に変わっているが、この時点でも報道を情報源としていることが分かる

平成16年4月15日17:30現在」の内閣官房公文書では、筆者の件は「2邦人拘束情報の件」で、3人の「人質事件」と書き分けている。外務省と同じ「拘束されたとの未確認情報」という説明に変わっているが、この時点でも報道を情報源としていることが分かる

平成16年4月15日17:30現在」の内閣官房の公文書では、今井さん、郡山さん、高遠さんの件を「3邦人人質事件」としている

 これらの文書では「事件の概要」として3人の件の項目名を「4月8日・3邦人人質事件」とし、私の件の項目名は解放前の15日と16日の文書では「4月15日・2邦人拘束情報の件」になっていた。しかし、解放後の19日と20日の文書は「4月15日・2邦人拘束事件」に変わっている。解放されるまで拘束されていたのかどうか不明で、解放後に私たちから聞き取って、初めて拘束されていた事実を確認できたということだ。

解放後の「平成16年4月20日7:30現在」付の内閣官房の公文書。3人の件は「人質事件」のまま

平成16年4月20日7:30現在」付の内閣官房公文書。筆者の件が「拘束事件」に変わっている。解放後の事情聴取で拘束されていたことを確認できたためと考えられる

平成16年4月20日7:30現在」付の内閣官房公文書。経緯の表の中で筆者の件を「行方不明となっていた」と表記している

 最後の20日付の文書は私が帰国した日付のもので、「主な経緯」の中に解放された4月17日の部分に「行方不明となっていた2人の日本人」と記されている。ここでも表現は「行方不明」だ。私たちの件は内閣官房の公文書でも「人質」ではなく「拘束」「行方不明」という表現であり、3人の「人質事件」とは意図的に書き分けがされている。

 3日間だけの拘束で、解放前日に日本政府や米軍のスパイでないかどうかの尋問が行われ、その場で「明日帰す」と言われた。実際に翌日解放され、その間も後も何ら声明が出ておらず、政府にも家族にも接触がなかった。

 監禁されたのは女性や子どものいる農家で、近所から大人も子どもも見物に集まり、全員が素顔をさらしていた。「武装勢力」と報じられたが、明らかに地元住民だ。その後、私自身が、拘束者と直接関係があったというアブグレイブのイスラム法学者を取材して「スパイの疑いで拘束したが、スパイでないと分かったので解放した」との証言も得ている。

◆日本の多くのメディアは「人質」と報じた

モスクを守るイスラム教シーア派の武装集団=2004年4月7日イラク中部ナジャフ

 繰り返すが「人質」とは「交渉を有利にするために、特定の人の身柄を拘束すること。また、拘束された人」のことだ。外務省警察庁内閣官房が公文書の中で「人質」ではなく「拘束」「行方不明」と表現を分けているのは、拘束者からの要求も交渉もなかったということを示している。

 3人の件と同様、多くのメディアが「人質」と報道しているのだから、本当に「人質」ならば外務省警察庁内閣官房も、内部向けの文書であえて私たちの件だけ「人質」であることを隠す必要もない。つまり、公文書の中で3人の件と書き分けているのは、単なる言葉の問題ではなく、事実として「人質」ではないからだ。

 何ら声明や連絡、要求もなく、拘束されているかどうかも確認できない行方不明の事例で、日本政府が拘束者を特定して交渉して救出したり、身代金を払ったりなどできるわけがない

 拘束されているかどうかすら不明なのだから、何をどうすればよいのか分かるはずもない。日本政府の対応が代理大使の言う通り「従来からのネットワークを通じて事実の確認をしていた」範囲なのは当然だ。

 誰に会えば情報が手に入るかも分からないのだから、治安悪化が著しかったイラクでそのために大使館員がどこかへ出向く必要性もない。あちこち知人に電話をかけて情報収集を試みた程度であったと考えるのが妥当だろう。

 本来ならば、こうした事例は即座に報道されることはない。本当に拘束されているならば、報道が拘束者をどう刺激し危険を及ぼすか分からないからだ。日本国内ならば「人名に配慮して報道を控えた」と後から断りの文を出すような事例だ。

 この件もそうした冷静な扱いをされていれば、一時連絡が取れなくなっていた私たちが3日後に戻ってきた、というだけのできごとだった。この範囲のことは日本人に限らず多くの紛争地記者が経験していて、特段珍しいことでもないため報道もされていない。

 当時の外務省からの発表にも「人質」の文言はなかったにもかかわらず、日本の多くのメディアはこれを「人質」と報じた。だが、日本政府や家族に密かに接触があったとか、何かしらの要求があったとか、報じられてない声明があったとか、そうした「人質」であることの根拠は、現在に至るまで何ら示されていない。

 これらの拡散されたデマは、16年経過した今も消えることなく安田氏を苦しめている。日本社会にどのような影響を与えることになるのか? 次回はその点についてさらに安田氏が警鐘を鳴らす

<文・写真/安田純平>

【安田純平】
ジャーナリスト1974年埼玉県入間市生まれ。一橋大学社会学部卒業後、信濃毎日新聞に入社。在職中に休暇をとりアフガニスタンイラク等の取材を行う。2003年に退社、フリージャーナリストとして中東や東南アジア、東日本震災などを取材。2015年6月、シリア取材のためトルコ南部からシリア北西部のイドリブ県に入ったところで武装勢力に拘束され、40か月間シリア国内を転々としながら監禁され続け、2018年10月に解放された。著書に『シリア拘束 安田純平の40か月』扶桑社)、『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』『自己検証・危険地報道』(ともに集英社新書)など

2018年、シリアからの帰国後に会見を行う筆者(左)