米国を中心とした人種差別撤廃運動、いわゆる「Black Lives Matter」(以下BLM)は、新型コロナウイルス感染症と並び、2020年以前とそれ以降を分ける、極めて大きな節目となる事象だ。

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 特に、エンターテインメントコンテンツの在り方に大きな影響が生まれつつあることには着目せねばならない。現在は、「アフリカ系人種の役はアフリカ系が、アジア系の役はアジア系がやらなければいけない」という主張にまで広がっている。

 これはどういうことなのだろうか? 今回は特に、エンターテインメント産業に与えうる影響について考えてみよう。

●「移民」と「階層」が生み出した無意識の壁と戦うBLM

 率直に言えば、BLMの動きは日本に住む人間から見るとどうにもピンとこない部分がある。

 欧米、特に米国では、「三密を避けるべし」という鉄則を破ってまで、この時期に人々が集まる行為が広がっている。結果として大規模な感染拡大を生み出してもなお、BLMは守らねばならないものなのか。率直にいって、筆者も納得できない部分がある。

 だが、こうした話をアメリカ的なマッチョイズムや無理解だけのせいにするのは難しい。それだけ「生き方」に関わる問題は重要なのだ。

 なぜここまで彼らが「生き方」にこだわるのかを知るには、アメリカという国の特殊性を知る必要がある。僭越(せんえつ)ながら、ちょっと「アメリカ」という国について振り返ってみよう。

 ここで問題になるのは、特に米国の持つ2つの要素。すなわち「移民国家でありつつ階層社会」という側面だ。

 ご存じの通り、アメリカ合衆国は「ヨーロッパ諸国からの移民でスタートした」と説明されることが多い。1775年にアメリカ独立戦争が起き、翌1776年、英国からの独立を果たす。

 だが言うまでもなく、ここで言う「アメリカ独立の経緯」は、ヨーロッパの人々から見たものである。この段階で、国を構成する2つの要素が表に出なかった。すなわち、ネイティブアメリカンと、主に奴隷として連れてこられたアフリカ系の人々である。その後「移民の国」として多数の国から人々が集まり、人口を増やし続けている。

 それにもかかわらず、アメリカを建国したのは「ヨーロッパからやってきた人々」という印象が強い。人口的に言えば、確かにいわゆる「白人」(ヨーロッパ系)が7割以上を占める多数派なのだが、アフリカ系・アジア系・ネイティブアメリカンなど複数の民族で構成されている。さらには、日本人には同じ「白人系」に見えても、主にスペインを元宗主国とする中南米の国々からの移民(いわゆるラテン系)が2割弱を占め、「白人系」も分断されている。いわゆるヨーロッパ系とラテン系、さらには白人系と有色系、という2つの形での「階層化」が内部にあるのだが、それを生み出しているのが所得問題だ。

 日本のような国民皆保険制度はなく、教育も、日々生きていくために必要なコストも非常に高い。その一方で、資源は豊富なので、安価な食料とエネルギーは得られる。だから「高い所得へ飛び出す努力を続ける」と上の階層に上がれるものの、それが難しいと「生活はできるが厳しい」という層で生きることを強いられる。高所得層と低所得層は住むところも食べ物も違い、犯罪発生率も桁違いである。社会制度が変革され、いろいろな保護策が生まれてもなお、生活の違いや文化の違いからくる「無意識の壁」の存在は消えていない。

 これがアメリカの実情だ。今、BLMで自らの生き方を社会に問いかけているのはヨーロッパ系の人々と分かれた階層に属しており、機会均等と「見えない壁の打破」に立ち向かっている。

●「ホワイトウォッシュ」と『攻殻機動隊

 さて、エンタメにおけるBLMの影響で最も大きく、しかも日本人を困惑させているのは「アフリカ系人種の役はアフリカ系が、アジア系の役はアジア系がやらなければいけない」という主張だろう。

 事実、これには筆者も困惑する。と同時に、「そこまで主張が広がるほどの意識差があるのだろう」とも思うのだ。

 この主張の根幹にあるのは、いわゆる「ホワイトウォッシュ」と呼ばれる現象だ。企画や原作の段階では有色人種であった役が、いつのまにかいわゆる白人のものになってしまう様を指す。単に職を失うという話ではなく文化の面からも「白人が有色人種から簒奪(さんだつ)するのか」という、歴史を踏まえた批判ともなっている。

 もっとも分かりやすい例は、1970年代アメリカテレビドラマ『燃えよ! カンフー』(原題:Kung Fu)で、主役のクワイ・チャンケイン役を、まさに白人であるデビッドキャラダインが演じた例がある。このドラマの原案はあのブルース・リーであり、彼自身が主役を務める作品として持ち込まれた。だが当時は、アジア人がドラマや映画の主人公を務めてもヒットするのは難しいと考えられ、見事に「アジア人以外が演じる役」になってしまった。

 では、ここまで典型的な例が今も多いのか……というと、それはさすがない、と理解している。

 とはいえ、近年も批判された例はある。

 実写版『攻殻機動隊』こと『ゴースト・イン・ザ・シェル』(2017年)では、主役の「草薙素子」をスカーレットヨハンソンが演じて「ホワイトウォッシュである」と批判された。

 率直にいえば、これがホワイトウォッシュかどうかは、作品の理解によってずいぶん異なるのではないか、と思っている。草薙素子は本質的に「物理的身体」を持たない存在であり、さらに、そこで場合に応じて年齢や性別、人種のおいしいところを生かしていくような部分があるので、「作品世界的にホワイトウォッシュではない」とは思う。

 だが、企画上「北欧・東欧系の血を引く白人女性」として描く必要があったのか、というと「それは別だろう」とも思った。スカーレットヨハンソンというキャスティングありきの部分があり、そこにホワイトウォッシュ的な要素がゼロなのか、というと「言い切るのは難しいだろう」と思う。

 現在の人種問題とエンターテインメントを語る上で、『ゴースト・イン・ザ・シェル』におけるスカーレットヨハンソンを考えることは、とても良い題材だ。

 おそらくあの企画は、スカーレットヨハンソンがいなければ実現しづらい。アクションができてSFとの相性も良く、知名度も高い彼女の存在は、企画成立の重要なパーツである。そこで、「世界市場において、スカーレットヨハンソンが人気である理由」の中に、エンタメにおける白人優位性の影響がゼロ、というのが難しいだろう。

 だが、だからといって、そこでアジア系もしくはアフリカ系でやったからといって、同じくらい耳目を集められただろうか? 「そういう女優がすぐに当てはまるかどうか」ということは、映画の企画の上で重要な要素である。あのクラスの予算がかかる映画を、世界的に無名な女優で作るのは難しい。そう考えると、単純に「アジア系は困るから白人にした」というわけでもなさそうだ。

 このバランスこそ、今のハリウッドを中心としたエンターテインメントの一つの本質といえる。過去の事例や演者の能力・ファン層を考えると納得なのだが、では、「人種的にそのバランス感覚でいいのか」というと微妙にそうでもない。今後もその発想で行けるかは微妙だが、今の判断としてノーとするのは厳しい。そもそも曖昧な要素だが、この時期になり、曖昧さをさらに突かれている、といってもいい。

●「決めた意味を示せる」ことが重要な時代に

 とはいえ、現在起きていること、特に「白人系が他の人種の役をすること」への批判については、ちょっと別の切り口がある。

 これこそ、日本人にとってはよく分からない話ではないか。声で人種が決まるわけでもない。日本ではアニメでも吹替でも全員日本人なんだから。「役の人種と合わせなければいけないのはおかしい」と主張するのは感覚的にずれがある。

 だが、1つの本質として、ハリウッドのような場所では「白人の方が演者の層が厚い」という点がある。ある種のバイアスが生み出した結果ではあるが、そのバイアスによって「どの役も白人系が行う」ことが当たり前になってしまいやすい。こうした場面で、機会均等性が失われやすいことが、今回の問題の軸にある。これは、日本人からは把握しづらい観点ではないだろうか。

 では今後、エンタメコンテンツ制作では「人種比率に合わせ、機会均等に配役を決めるべき」なのだろうか?

 ことは、そういう話ではない、と筆者は理解している。

 現在の国際的なコンテンツ産業では、当然のことながら、人種や文化の多様性を尊重したものづくりが基本になっている。「それはお題目で、過度にポリティカル・コレクトネス的だ」と言われそうだ。その通りだと思う。

 ここで重要なのは「皆の差がなくなること」ではない、という点に尽きる

 肌の色や文化は違うのが当たり前だ。ポイントはその点を生かしてちゃんとその差が生きるところに配役する、もしくは配役に合わせて内容を制作するのが重要、ということだ。海外の映画で、日本人の役を日本人以外が演じた結果、どうにも文化的に奇妙なことになっている例は多い。おそらく日本で作られるものでも、設定と演者がマッチしていない例は多々あるだろう。本当はそういうところもちゃんと配慮した上で作品が作られるべきだが、全てを徹底するのは難しいので「ちゃんと尊重しよう」というのが今の動きだと理解している。本来は、別に肌の色だけの話ではないのだ。ホワイトウォッシュの典型としてあげた『燃えよ! カンフー』の事例は、まさにマッチしていないから問題だったわけで。

 これは前述の「スカーレットヨハンソンの素子はホワイトウォッシュだったのか」という話に近い。

 もちろん議論はあるだろう。だが、あの映画では「なぜスカーレットヨハンソンが素子を演じるのか」という理由があった。かなりギリギリだし、主に企画成立上の意味が強いとは思うが、その方向性を全員がシンプルに「ありえない、理由が納得できない」と否定しうるものでもない。

 要は、「なぜその配役なのか」をちゃんと説明できるのか、ということなのだと思う。「なぜ変えたのか?」という点について「ポリコレ上の理由」ではなく、消費者にもちゃんと伝わる意味を用意できるのか、が重要だ。

 多くの人を納得させる理由がない場合、その配役は「別の形でもいい」可能性がある。企画上でも作劇上でも、何でもいい。積極的な選択に意味があることが重要なのではないか。逆にいえば「誰も説得しなくていい」状態であれば、その配役は適切といえる。無理に人種比率に合わせて配役を変えても、それが企画や作劇上意味がないなら、誰のための配慮なのか、ということにもなる。

 筆者はあまり「ニューノーマル」という言葉が好きではないが、もしそういうものがあるのだとすれば、「決断に意味がある」ことなのではないか、と思える。変わる必要が出てきたのなら、変える意味も変わらない意味も、ちゃんと理解している必要がある。なんとなくいままでのままでいい、というのは、今後許されないのかもしれない。単なる言い訳は消費者には通じづらくなっている。そこに説得力のある「本当の意味」が必要なのだろう。

 めんどくさいし世知辛い話だ。だが、そういう決断が「当たり前に落ち着く」だけのコンセンサスが生まれることが、「ニューノーマル」の正体ではないか、と思うのだ。

※この記事は、毎週月曜日に配信されているメールマガジン『小寺・西田の「マンデーランチビュッフェ」』から、西田宗千佳さん執筆のコラムを転載したものです。

スカーレット・ヨハンソン版「少佐」