女子少年院という施設を知っているだろうか。窃盗、詐欺など、何らかの罪を犯し、家庭裁判所から「保護処分」(立ち直るために必要な指導や教育などを受けること)として送致された少女たちが入所する施設である。

この女子少年院を舞台にしたドキュメンタリー映画『記憶』が、共感を呼んでいる。監督したのは、自身も女子少年院で過ごした経験のある中村すえこさん(44歳)で、この作品が初監督となる。

コロナ禍で予定されていた上映会は中止や延期に追い込まれたが、また新たに上映会を始めた。秋からは本格的に始動していく予定だ。

「私は少女たちが更生する映画を作ったのではありません。現実を知ってもらって、みんなの意識を変え、罪を犯した少年、少女たちが立ち直れる社会を作りたい」という中村さんに話を聞いた。(ルポライター・樋田敦子)

●「共通項は、加害者になる前に、被害者だったこと」

映画の舞台となったのは、群馬県榛東村にある榛名女子学園。12~19歳までがここで生活し、教科学習や職業訓練を受けている。

映画には、4人の少女が登場する。学園側と本人、家族が取材を許可し、中村さんらは撮影にこぎつけた。覚せい剤、薬物、窃盗、援助交際美人局と様々な犯罪に手を染めたり、犯罪を犯す恐れがあるとして収容された少女たちだ。

A子(18歳、年齢はいずれも撮影当時):幼少より乳児園や児童養護施設などで育つ。高校受験に失敗し、中学卒業後に寮付きの美容室で働きだしたが、当時付き合っていた恋人と覚せい剤を使用していたのが上司に見つかり、警察に出頭して逮捕された。

B子(19歳):窃盗で逮捕されたが、援助交際や薬物使用などもあった。2歳の子どもは児童相談所に保護され、養護施設にいる。

C子(18歳):男性と関係を持った後に、共犯者が「未成年者を買春したことをばらす」と相手を恐喝。C子も恐喝で逮捕された。

D子:家裁の審判決定により、虞犯(ぐはん。罪を犯す恐れがある)として少年院に収容された。パパ活を繰り返し、稼いだお金はホストに貢いだ。そのホストから暴力を受け、あざを発見した母親が警察に相談したのがきっかけだった。

「彼女たちの共通項は、加害者になる前に、被害者だったということです。そう生きたかったのではなく、そう生きるしかなかった子たち。家にも学校にも職場にも社会にも居場所がなかった。

例えば、ある子の母親は生活保護を受けており、躁鬱病の薬を飲んでハイになってしまう。そんな母を見た彼女も、いつしか自分も薬に手を出してしまいました。

一方、高級車を所有しているような裕福な家で育っても、母親が厳しくて何か刺激が欲しいと犯罪に手を染めてしまった子もいました。恵まれているのだけれども、彼女は、生きているという感じが欲しかった、と言いました。私もその気持ちはよくわかるのです」

16歳少年院に入所「大人はこんなにも温かいのか」

かつて中村さんも同じような境遇にあった。物心つくと、商売を始めた両親は、仕事で不在にすることが多かった。中学生になった頃、居酒屋を始めた母親は深夜まで帰ってこなくなった。

母は優しく中村さんを思ってはくれたが、貧困と放任の状態で、家は非行少年のたまり場となり、そこから夜遊びに向かうようになった。不良グループに入り、万引きや窃盗を繰り返し、補導された中村さんを母親は何度も引き取りに来た。

中2でレディースと呼ばれる女子暴走族に入る。卒業後は、高校に進まず、最年少で総長になり特攻服に身を包んで、他の暴走族と殴り合いのけんかに明け暮れた。そのうち、ある傷害事件で相手に大けがを負わせた主犯格として逮捕。16歳少年院に入所している。

入所中にワープロの資格を取り、規則正しい生活で健康的になった。

「頑張れば結果が伴うということに気づき、協調性や達成感を感じることはできました。面会してくれる家族には感謝の気持ちでいっぱいでしたが、少年院では反省しているふりをしていました。頭の中ではレディースのことだけを考えていました」。

それから1年2カ月後、少年院を出ると、中村さんは元いたレディースに戻ろうとした。

ところが、仲間は冷たく言い放った。「あんたは破門。ここに居場所はないよ」。

「最年少で総長になったり、レディー暴走族誌に取り上げられたりしたことで、周囲の嫉妬も大きく、リンチにもあった。疎まれた存在になっていたのです。やっと帰れると思っていたのに、ここにも居場所はないのかと思い、つらかったですね」

居場所を失った中村さんだったが、普通の生活をしようにも、普通の生活の仕方が分からなかった。普通って何、どんな洋服を着て、どんな趣味を持ち、どんな遊びをするのか。普通の友達もいなかった。そのうち自暴自棄になり、覚せい剤に手を出し、半年後に逮捕されてしまった。

●拘置中に妊娠が発覚「変わらなきゃ」

しかし、思いがけない展開を迎えた。この逮捕の拘置中に妊娠が発覚したのだ。

面会に来た母親に「命の重さ」を諭され、初めて「変わらなきゃ」と思ったという。家裁の審判は、社会の中で立ち直れるかを家裁調査官が見守るという試験観察処分になった。大人たちみんなが、私を信じてくれたという強い思いは、中村さんの強い原動力になり、中絶して一から出直しを図った。

少年院を出た少女の行く手は、そう甘いものではなかった。

少年院出身というレッテルを貼られた者を社会が受け入れてくれない現実に直面した。受け入れてくれた働き先で働きながら、やがて結婚。2度の離婚を経て、4人の子どものシングルマザーになった。学校職員をしながら子どもたちを育て、高卒認定試験を受験して合格。通信制の大学で学び、2020年3月に卒業している。上の2人はすでに巣立ち、孫もいる。

転機は2009年にやってきた。少年院を出た少年少女の自助団体「セカンドチャンス!」の創設メンバーとなったのだ。その前年には「紫の青春~恋と喧嘩と特攻服」を出版した。末っ子はまだ2歳。過去を一切封印して生きてきたのに、初めてオープンにした。

「それでずいぶん気が楽になりました。社会はそういう過去を持った人を受け入れてくれる人は少ないですが、ママ友に知られることで心も軽くなっていきました。

セカンドチャンス!』の設立者だった静岡県立大教授・津富宏さんからも言われました。“きみたちの経験はきっと社会の役に立つはずです”と。自分の過去を隠すように生きてきましたが、私の経験が誰か必要な人に届くことがあるのだということを実感し、活動にのめりこんでいきました」

少年院出身者の前で自分の体験談を話し、交流会を定期的に催す。実際に少年院にも出向いて入所者の前で講話した。

8年前、映画を企画した。法務省に行き、映画の構想を語ると、その職員は話を熱心に聞いてくれた。しかし予算を出してもらうことはかなわず、その後準備に明け暮れ、2年前からクラウドファンディングで資金を集め、18年から撮影に入った。

法務省の許可を得て、撮影の打ち合わせに行ったときに、学園担当法務教官たちは『少女たちの心をみだしてもらっては困る』と言いました。私は『周囲が懸念している見世物パンダ的な映画には絶対にしません』と泣きながら約束していました。家族が撮影に同意をしてくれ、学園側が推薦してくれた4人に話を聞きました」

撮影時間や場所も限られていて、踏み込みたくても描けない部分もあったという。2019年に映画は完成。更生保護団体などに上映権を買ってもらったり、寄付を募ったりしながら上映を続けている。

●「幸せになれる」ということをわかって欲しい

鑑賞後のアンケートには様々な感想が寄せられている。

『その罪を犯してしまった人だけのせいではないのだと思った。特に少年犯罪では、育った環境等影響してくるのだと。加害者が被害者であったという事実を知らず、悪い子という失礼なイメージしかもっていなかった』(大学院生

『現実をリアルに感じた。実際に少年(少女)の声を聞いたのは初めてだったので深く考えるきっかけになった』(団体職員)

『わかりやすく最後まで見れた。事例を通して、支援の難しさ、繋がることの難しさを感じた。人生は長く、あきらめなければチャンスやきっかけはつかめる』(社会福祉士)

「虐待、貧困、ネグレクト。加害者だった子どもたちが置かれている状況は過酷でした。少年院出身者という偏見を少しでもなくし、状況を理解してもらいながら人は変われるのだ、ということを分かってもらいたいと思っています」

自分がかつてそうだったように、自ら道を切り開いて、歩んでいくことはできる。後輩たちにも「幸せになれる」ということを分かってほしい、という。昨今、民法の改正で、成人年齢が18歳になるのに伴い、少年法の適用も20歳未満から18歳未満に引き下げようとする動きが活発だ。最後に中村さんに聞いてみた。

「少年犯罪の件数は近年、減っています。少年院の収容数も、ピーク時に比べておよそ半分に減りました。少年院での教育をはじめ、現行制度がうまく機能しているからで、引き下げる必要はないと思っています」

「罪を犯した少女たちは、被害者でもあった」女子少年院のリアル 元レディース総長、ドキュメンタリー映画製作