―[負け犬遠吠え]―


ギャンブル狂で無職。なのに、借金総額は500万円以上。
それでも働きたくない。働かずに得たカネで、借金を全部返したい……。

マニラのカジノで破滅」したnoteで有名になったTwitter上の有名人「犬」が、夢が終わった後も続いてしまう人生のなかで、力なく吠え続ける当連載。

 世間が自粛から解禁され、犬の日ギャンブルも再開。今回は麻雀についてです。


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◆知的ギャンブル、麻雀

 麻雀牌を触ろうとしなくなってから5年近く経った。僕は麻雀をほとんどしない。誘われた時に黒川前検事長も受けないくらい極めて低レートで遊ぶのみだ。

 友達に連れられて行った雀荘で役の作り方を覚えた。元々麻雀漫画も読まなかったので、パチンコをするくせに麻雀ができないことが恥ずかしかったというのもある。初めて上がった役は「四暗刻(スーアンコー)」という役で、「撥(ハツ)」の字牌を引いて上がった。6年以上も前のことなのに鮮明に覚えているのは、この役が後に「役満」という、麻雀でも最も点数の高い役の一つだと知ったからだ。

 当時、重く滞留する雀荘の空気から逃げるように角の卓を選び、壁際に座ったところまで覚えている。いい思い出が鮮明に残るのはギャンブル依存症の特徴で、その記憶が何よりも色づいているせいで、

「勝てるかも」

もとい、

「勝っているのかもしれない」

という気持ちが生まれ、それが無根拠な自信につながってしまう。僕の場合は生まれて初めての麻雀で図らずも最強の役を作った自身に対し、

「もしかすると僕は、麻雀の神が間違って人間世界に置いてきてしまった寵児なのかもしれない」

 と思い込み、しばらくはどうすれば強くなるかなんて知らないまま金を賭けて遊んでいた。自信の鎧を身に纏った愚か者は、無知の知を持たない。無知で勇敢な僕は、五里霧中の麻雀道をズンズンと進み、名前も知らない草木を乱暴に踏み倒してできた自分の足跡こそが覇道だと思っていた。

 覚えたての頃は負ける気がしなかった。なぜなら初めて上がった手が四暗刻という神に愛された子供だったからだ。

 体の弱い僕は雀荘に滞留する汚い空気にあてられて、よく体調を崩していたが、その時に去来する頭痛や悪寒も、

「雀神(ジャンガミ)が降りてきた」

 と、麻雀の神様が憑依した時の副作用で手が震えていると吹聴していた。実際にこの時の成績は良かったが、思い返せばただ単に思い切りのいいプレーがハマっていただけだろう。下手くそは余計なことを考えない方がマシになる。

 そしてソクラテスのありがたい言葉を無視し、足下を見ることも、立ち止まって振り返ることもしない人間はほぼ必ず深い穴に落ちる。穴に落ちた時の痛みをもって、世界に転がる危うさに気づくのだ。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。(オットー・フォン・ビスマルク

 つくづく過去の偉人は憎たらしい言葉を思いつく。僕は麻雀で5万近く負ける日々が続いて初めて麻雀の仕組みを肌に感じた。

「もしかすると、麻雀は勉強しなければ勝てないのかもしれない」

◆我々が歴史から学べるのは、誰も歴史から学んでいないという事実だけだ

 怠惰な僕はその後の人生で何度も博打に焼かれ、かなりの頻度でビスマルクを引用した皮肉を言われ続けてきたため、何を為したか知らないがこの男が嫌いだった。知った風なことを言いやがって。何事も経験だろう。

 しかし、こと麻雀に関しては全くもってその通りで(もしかすると他のことに関してもそうかもしれないが)、勉強をして歴史の知恵を借りるべきだった。

 自分の弱さに気づかないように収支を記録していなかったが、どうにも働けど働けど金が足りない。どうやら僕は麻雀ではかなり負けが込んでいるらしい。金がない生活が教えてくれた。

 麻雀はとても緻密だ。手を進めるために牌効率というくだらないものを考え、たまの勝ちと小さな負けを積み重ねて実力を明らかにしていくゲームだった。ここでもパチスロの「収束」の概念が現れる。一回一回は運に見えても、その点を繋いで見えてくる線こそが当人の実力で、運だけでずっと勝ち続けることは到底不可能だ。勉強すればするほど、考えれば考えるほど強いゲームなんてまっぴら御免だ。頑張った人間が正しく報われていく世界なんて、受験までで十分だろう。

 麻雀の真実に気づいてしまった僕はいつしか麻雀を誘われても乗り気でなくなったし、麻雀の嫌な部分がよく目につくようになった。

 まず、麻雀は負けの金額をコントロールできない。例えば、パチンコの負けは自分が投入した金額そのものだ。1万円を入れて当たらなければ1万円負けるし、財布に3万円しかなければ最大3万円の負けで済む。しかし麻雀は誰かの勝ちを他の人が負担するため、いくら負けるかをコントロールすることができない。運が悪ければ財布の中身を超えた金額を失い、さらにその場で足りない分を誰かに借りることになる。スーパーラッキーボーイがめちゃくちゃにすごい役を作りまくれば、たとえ黒川レートと言えど5万近く負けることなんて造作もなく、本当の「予期せぬ出費」に視界の外から殴りつけられることほど腹立たしいものはない。

 負けて悔しい顔をしている僕に対して、あろうことか勝った人間は、

「おい、ちゃんと払えるか?」

 とニヤニヤしながら言ってくる。その刹那、鋭い殺意が芽生える。

「ロン。ほにゃららほにゃらら。倍満、16,000点。」

 こんなふざけたことを言われ、その瞬間に同意もしていない金額を払うことが確定した時、憤りのあまり頭の血管が数本千切れ、気が遠くなる。ギャンブル漫画などでよく「ぐにゃあ…」と視界が歪むことがあるが、完璧な表現だと思う。

 点数だけ言うんじゃない。ちゃんと、

「16,000点ください。」

 と言え。

◆知的ギャンブルと短気の愛称は悪い

 そして麻雀はアツくなればなるほど結果が遠のく。これはポーカーなどいわゆる「知的ギャンブル」全てにおいて言えることだが、短気な選択ほど付け込まれやすい。突然降ってきた負けに身悶えし、キレて投げやりになればなるほどドツボにハマっていく。その間、麻雀の強い人間は内心のしたり顔を必死で隠しながら小さく小さく勝ち続ける。気づけばいつ負けたのかわからないままに財布から金が飛んでいる。

 努力の世界から逃げた僕に、真摯に麻雀を勉強することなんてできなかった。長い屈辱に耐えながら、いつか周りの強い人間を追い抜かして強くなろうという心意気もなかった。

 僕は、麻雀を辞めた。

 その数年後、カジノでバカラというゲームに出会った僕は感銘を受けた。なんという素晴らしいゲームだろう。どれだけ賢い人間も、どれだけ愚かな人間も、等しく1/2の結果に身を委ねることができる。極めて平等で素晴らしいゲームだった。しかし、そのバカラでも僕は破産した。理由は「我慢ができなかったから」だ。

 人はいつか負ける。死ぬまで勝ち続けることなんてできない。博打において一番大切なのは「いつ辞めるか」だ。道中どれだけすごい幸運に見舞われようと、出てくる時に金が増えてなければただの負けだ。我慢のできない僕はカジノから帰ってくる度に財布をひっくり返しては落胆し、もう砂粒すら出てこない。

 もし麻雀を覚えた時に歯を食いしばって我慢をし、ちゃんと勉強していれば好きになれただろうか。

 いや、それでもきっと僕は「ロン」を許せない。



【犬】
フィリピンカジノで1万円が700万円になった経験からカジノにドはまり。その後仕事を辞めて、全財産をかけてカジノに乗り込んだが、そこで大負け。全財産を失い借金まみれに。その後は職を転々としつつ、総額500万円にもなる借金を返す日々。Twitternoteでカジノですべてを失った経験や、日々のギャンブル遊びについて情報を発信している。
Twitter@slave_of_girls
note→ギャンブル依存症

―[負け犬遠吠え]―