初期段階の計画書は夢のようなプランが書いてあることはよくあります。一〇〇式重爆撃機「呑龍」も当初はこれに応えるべく開発が開始されました。ある部分では応えられるも、全体的に見ると優れているとはいいにくいものでした。

「呑龍」が目指したものは「護衛機を必要としない高速重武装爆撃機」

旧日本陸軍が運用した爆撃機といえば、第2次世界大戦中を通して数の上では主力爆撃機だった九七式重爆撃機や、「飛竜」という愛称で大戦後期に量産化した四式重爆撃機などがありますが、どうしても旧海軍の一式陸上攻撃機といった陸上攻撃機の印象が強く影に隠れがちです。

そしてその陸軍爆撃機のなかでもさらに影の薄い爆撃機があります。前記した九七式重爆の後継機として開発され、「呑龍」の愛称をつけられた「一〇〇式重爆撃機」です。現在でこそ影が薄いですが、元々は日本陸軍の野心的な戦法の実現のため、開発された爆撃機でした。

一〇〇式重爆撃機は元々対ソ連戦、つまり大陸で運用することを想定して、1938(昭和13)年に中島飛行機が陸軍に命じられ開発を始めた爆撃機です。その性能指示は、戦闘機を引き離す500km/h超の高速と、新開発の20mm機関砲の搭載や尾部機関銃など防御火器の充実、さらに航続距離3000kmという長大な航続距離を合わせ持つという、高速かつ超重武装を要求するものでした。

高速性と重武装を両立させることになると、当然、爆弾の搭載量は限られてしまうのですが、陸軍の要求は1000kg程度とあったため、同機は爆撃機でありながら爆弾倉を持たず、かわりに燃料タンクなどを守る防弾装備を重視しました。

「呑龍」に関する陸軍の思惑は…?

同機の計画が立ち上がった当時、陸軍は日中戦争中華民国を相手に中国奥地の都市などを爆撃していましたが、その時代はまだ陸軍の一式戦闘機「隼」や海軍の零式艦上戦闘機(零戦)といった長距離を護衛できる戦闘機はなく、爆撃に臨んだ九七式重爆撃機などは敵機の待ち伏せに遭い、かなりの損害を負っていました。そこで当時の陸軍は、高速で戦闘機を振り切ることができ、捕捉されても大量の防御火器で撃退できる護衛が不要な爆撃機の実現、という野心的発想に至ったわけです。

特に陸軍は当時、ソ連との戦いを想定して「航空撃滅戦」という、開戦と同時に敵飛行場に爆撃機先制攻撃をかけ、前線の航空戦力を麻痺させる戦法を最重要としていました。そのため、カタログスペック通りに作られれば「単独で敵陣に乗り込むことができる戦闘機不要の爆撃機」になる同機には大きな期待を寄せていました。

祝賀ムードの中特別な名前を授けられた「呑龍」だが…

試作機が初飛行したのは1939(昭和14)年。制式採用されたのは1941(昭和16)年8月となっています。本来ならば開発完了し制式採用されたのが皇紀だと2601年であったことから「一式重爆撃機」と命名するところを、前年が皇紀2600年で全国的に祝賀ムードだったことにあやかろうと、「一〇〇式重爆撃機」とした経緯があります。

愛称の「呑龍」は勇ましそうな名前ではありますが、実は当時、中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれる寺院、大光院があったことから、これにちなみ名付けられたそう。「呑龍」は同寺院を開山(創設)した江戸時代初期の実在人物の名で、多くの子どもが間引かれていたことを悲しみ、弟子として引き取り育てたとされています。

こうして名誉な名前をもらった一〇〇式重爆撃機でしたが、制式採用され運用の始まった1941(昭和16)年から早くも問題が出始めます。

まず、速度が九七式重爆撃機とそれほど大差ありませんでした、確かに陸軍爆撃機として初めて搭載した20mm機関砲1門のほかに、7.92mm機関銃5挺を備える重武装と防弾性の高さは評価されましたが、一番肝心なエンジン「ハ-41」の信頼性が悪く、故障が頻発してしまい、旧式機の方が現場では好まれるという状況になってしまいました。

それでも陸軍では、運用しているあいだにエンジンを改良し、ほかの部分も改良していくことで、同機をやがて主力にしようと考えていましたが、その目標は早くも制式採用年末に行った真珠湾攻撃で、根底から覆ることになります。

「呑龍」は太平洋での戦いへ…現場の評判は?

新たに太平洋インド洋方面で対米、対英戦が始まると、本来の目的である、ソ連との戦いを想定した大陸を長距離飛行する爆撃機というプランはどこかにいってしまいます。ただでさえ信頼性の悪いエンジンで、慣れない長距離での洋上飛行を行うことはかなり困難でした。

そして、一番の売りだった重武装に関しても、戦闘機の進歩や、そもそも人力操作による照準では限界があることから、対米戦が始まると結局、戦闘機の護衛がないと危険という判断になりました。いまでこそ、いくら武装しても爆撃機にとって戦闘機が天敵なのは万人の知る事実ですが、当時はまだ、防御火器さえ充実していれば戦えるかもしれないという淡い信仰があり、あのアメリカ軍ですら防御火器に自信がある「B-17」や「B-29」に護衛をつけず爆撃作戦に投入し、決して少なくない損害を出しています。

現場の評判も芳しくなかったようで、九七式重爆撃機から乗り継いだパイロットには「『呑龍』の名前の通りどん重」と揶揄する人もいたそうです。結局、早々に後継機である四式重爆撃機「飛竜」にその座を譲ることに。なお、四式重爆撃機「飛竜」に関しては三菱製双発爆撃機の完成形といわれ、当時の人からも四式戦闘機「疾風」と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待されていました。

一〇〇式重爆撃機が参加した爆撃作戦のなかで最も有名なのが、オーストラリアのポートダーウィン爆撃です。同作戦で同機は2機が墜とされるものの、残り16機が「スピットファイア戦闘機の猛攻を耐えきり、爆撃を成功させ帰還しています。ただ、当初陸軍が夢見た爆撃機隊単独での殴り込みではなく、一式戦闘機「隼」の護衛つきでした。

旧陸軍の一〇〇式重爆撃機「呑龍」(画像:Yanagi774/Public domain)。