■19年間、“コムレイズを楽しませるにはどうするか?”しか考えてなかった

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。今回はSAの4人に迫る!1984年に結成し、解散やTAISEI(Vo)のソロプロジェクトとしての活動を経て02年よりバンド体制に移行。19年にはMATCHAN(Dr)が加入したことで、“まだまだ上に行きたい”とエンジンがかかった今、彼らが思うSAはどんなバンドなのだろうか? それぞれの音楽人生を振り返った時に思いつく人物を語ってもらった。

SA

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エス・エー:1984年、当時高校生のTAISEIを中心に結成。ロックンロールに根付いたキャッチーなメロディーとシンガロングな楽曲スタイルが話題となり、パンクスの間で大きな知名度を得るも、3年足らずで解散。そして、根強いファンの後押しにより、99年にTAISEIソロプロジェクトとして再始動を果たす。それを機に2002年に最強の布陣である現メンバーが揃い、精力的な活動を開始。16年1月にベストアルバム『ハローグッドバイ』でメジャーデビューを果たした。

■パンクが好きだってことに 改めて気づかされた

──SAは1984年に結成されましたが、どんな経緯でしたか?

TAISEI
当時はヤンキーになるか、バンドマンになるかどっちかっていう感じで、ヤンキーになるのはつまらねぇなって思って中学校の同級生でバンドを始めたんだよね。パンクは簡単だからっていうのもあったんだけど(笑)。

──バンドをやる人は周りにたくさんいましたか?

TAISEI
いなかったね。俺たちの場合は、まず楽器があったんだよ。普通はドラムなんて買えないじゃん? だけど、同級生にお金持ちの奴がいたから、そいつを“買ったほうがいいよ!”ってそそのかして、それを借りパクして(笑)。

NAOKI
その頃はスタジオもなかったから家でやってたしね。

TAISEI
そうそう。応接間があったから、暖炉とかソファを全部取っ払って、そこにドラムを置いてさ。田舎であぜ道だったから、音はうるさくても大丈夫だったんだよ。そこでライヴもやってね。当時はTHE STALINが客に雑物を投げてたけど、俺たちは雑物がねえからってドッグフードを投げてたよ。

NAOKI
バカなスタートやなぁ(笑)

──あははは。バンドを始める人が少ない中でパンクを始めて、周りの反応はどうでしたか?

TAISEI
パンクだからNAOKIみたいに髪の毛を立たせたりメイクもしてたし、周りからしたら気持ち悪かっただろうね。俺は岐阜の大垣ってところ出身なんだけど、パンクの格好して革ジャン着て歩いてたらおばちゃんがギャーッて逃げてったもん(笑)。でも、俺らがバンドを始めたから、ヤンキーだった奴らも“ロックってカッコ良いかも!?”ってなったのはあるかもしれないね。

──1987年に一度解散し、13年後の1999年に岐阜G-GROOVEで一夜限りのつもりで復活ライヴを行なったわけですが、TAISEIさんはその時SAをどう思っていましたか?

TAISEI
“今さら”と思ってたね。今さらパンクとか、もういいんじゃないかって。でも、どうしてもやってくれってオファーがあったから、仕方なくやったんだよね。インテリコンプレックスじゃないけど、その時の俺はインテリっぽい音楽をやらなきゃって思ってたところがあってさ。20代の頃にBAD MESSIAHメジャーデビューした時も、売れるものとか、頭のいい音楽をやらなきゃいけないって思ってたわけよ。だけど、SAの復活ライヴで久しぶりにパンクをやって、10代の時に作った曲を歌ってみたら…本当に簡単で、バカみたいな曲ばっかりなんだけど、その時にそもそも俺は頭のいい奴じゃないから、そんなのできるわけないって気がついたというか。“あぁ、俺ってこういうのをやりたかったんだよな”って。ガキの頃に作った曲を歌って、ロックとかパンクが好きだったことに気づかされたんだよね。

──その復活ライヴにはNAOKIさんもCOBRAで出演されていますが、NAOKIさんから見てどんなライヴでしたか?

NAOKI
俺はそこで初めてTAISEIと会うんだよ。でもTAISEIがBAD MESSIAHをやってた時にテレビで司会してたのを見たことがあったから、革パンにロン毛のお兄さんでさ、見た時に“あ、これがTAISEIなんだ”って思ったよ。

TAISEI
“あっ芸能人がいる!”ってね?

NAOKI
いやいや自分で言うなよ(笑)。でもさ、俺も岐阜では久々のライヴで、お客さんもパンパンやったしね。…何やろう? 初対面とは言っても、ちょうどその世代やんか。みんな20代を生きて、“真面目になろうかな?”みたいなのもあったけど…20代後半や30代が、もう一回こういう音楽をやりたいっていう空気があったのかもしれないね。俺らよりも客たちがそれを待っているっていうか、とにかくエネルギーがすごかったよ。ヤンチャだなって(笑)。そこで火が付いたよね。一夜限りと言いつつも、もう一回愚かな血が蘇って、東京でも大阪でもやっていこうってなるわけやんか。それ以降もたびたびバンドで一緒になってたし、そうしたらだんだん飲むようにもなっていって。

──必然的なタイミングだったんですね。そのあとはソロプロジェクトとして活動されていたわけですが。

TAISEI
実は、その時もMATCHANが叩いてくれてたんだよね。

──ソロでやってた時からバンドにしたいと思ってましたか?

TAISEI
バンドにしたかった。BAD MESSIAHをやってたから、バンドでやるには圧倒的に自分の中での構想があって…カッコ良いバンドじゃなきゃダメだっていうのがあったんだよね。打ち出し方とかビジュアルも引っくるめて。だから、ソロプロジェクトをやりながらも、全部納得いくかたちでバンドができるのを虎視眈々と狙ってたよ。失敗というか、一回うまくいかなかった経験があるから、次にバンドをやるからには絶対に失敗しないつもりだったし、中を取るやり方はしたくなかった。

──SAがバンドとして始まる時にNAOKIさんとKENさんが加入しますが、TAISEIさんから見たおふたりはどんなミュージシャンでしたか?

TAISEI
俺の構想の中には華があるバンドっていうのと、演奏がうまいバンドでないとダメっていうのがあって、NAOKIとKENを誘ったんだけど、プレイ的に申し分がないわけよ。最初からパンクだけをやるつもりはなかったから、テクのキャパシティーを持っている人じゃないとできないと思ってて。自分の思っていることを具現化してくれる人っていうので、このふたりは打ってつけだったからね。

──おふたりは加入した時どんなお気持ちでしたか?

KEN
TAISEIはテレビで観たことあるだけだったから…

TAISEI
芸能人、芸能人。

NAOKI
それ好きやね~(笑)。

KEN
最初はSAのリハに呼ばれて5曲くらいやったんだけど、音を合わせた瞬間に“こんなの観たことない”って全身にドシーン!って衝撃があって、“あぁ、俺、いろいろ忘れてたな”って思ったんですよ。それから19年経ってMATCHANが入った時にも同じような感覚があったんだけどね。とにかく衝撃がすごすぎて、まだ30代で金が欲しかった時期だったんだけど、金じゃないって思えるくらい、その時のリハはすごかった。もちろん楽曲もカッコ良かったけど、楽曲がどうとかじゃなくて、熱量というか…“こんなの初めてだ! これがパンクか!!”って。

MATCHAN
SAはリハーサルでも120パーセント…いや、150パーセントくらい出すっていう印象は僕にもありますね。

TAISEI
よくリハーサルは軽くやる人がいるけど、それがよく分かんないんだよ。それじゃ見えないでしょって。ステージ立ったら身体を動かすわけだから、それをリハでもやらなかったら何も分からないと思うんだよね。

KEN
そう! リハでもある程度本気の人っていうのはいたけど、SAはその度合いが違う。方向っていうか、練習してる内容…なんつうか、確認の種類が違う。

NAOKI
TAISEIってそういう表現方法の人なんですよ。COBRA時代に対バンした時もそうだったんだけど、出番が終わって楽屋口とか会場の後ろでSAのライヴを観ていると、まぁ、すごいなと。“てめぇら、かかってこい!”ってね。俺もその時は36くらいやから、長年バンドをやってきてアップダウンがある中で、みんなそんな力は出せないんだよ。俺はそれが不満やったの。だから、SAを観ながらシンパシーを感じてたし、“あの横でギターを弾いたらどうなるんかな?”って想像もしてた。そしたら声をかけてもらったから、即答で“やるよ”って。どういうパフォーマンスをする人かっていうのは知ってたし…やっぱり本気でぶつけるのが何でも楽しいんだよ。だから、気がついたら19年が経ってたっていう。まさかの19年ですよ。

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L→R NAOKI(Gu)、TAISEI(Vo)、MATCHAN(Dr)、KEN(Ba)(okmusic UP's)