トップ画像は、糀谷駅上りホームの京急蒲田側端部から京急蒲田側のカット。糀谷駅まで乗ってきたエアポート急行新逗子行が下り方面3階ホームに上って行きました。

空港線はいきなり糀谷駅の上りホームからの写真で始まります。

しばらくすると北総鉄道7300形羽田空港行快特が3階下りホームからやってきます。

当然、空港線では下り方面の左側を走ります。

今度は糀谷駅上りホームを京成3000形の快特印旛日本医大行が通過して京急蒲田駅の2階上りホームに向かいました。

同じ京急蒲田駅上りホームからエアポート急行が来ます。

ご覧の様に、京急蒲田駅から羽田空港に向かう空港線糀谷駅まで高架の単線並列区間になっています。

センサーや信号機器、コンピューターの進化などによってこの複雑なオペレーションが安全裡に行われることで、京急線ボトルネックとなっていた京急蒲田駅構内の本線と単線が接続されている問題と、第一京浜道路との平面交差が解消されたのです。

ここで京急空港線の歴史をザッとおさらいします。

空港線と呼ばれていますが、元は1902年(明治35年)羽田干拓地にあった穴守稲荷神社への参拝者のために京浜電気鉄道穴守線として単線専用軌道で開業されたのが始まりです。1910年(明治43年)には複線化、穴守稲荷神社周辺には京浜電気鉄道の経営する球場や遊園地が作られ、夏には海水浴客を運ぶ本線から直通する急行列車も運転されました。

1931年昭和6年)に羽田飛行場が作られると飛行場への乗客輸送も担いました。

戦後、羽田空港を接収した連合軍によって京浜蒲田駅~稲荷橋(当初は羽田駅)が単線化。その先の穴守駅までは営業休止されます。単線化区間に並行して国鉄蒲田駅から狭軌の貨物専用線が敷かれました。1952年昭和27年)連合軍が接収していた貨物専用線を京急に返還。戦後京浜急行電鉄になっていた路線は複線運転が再開されました。1956年昭和31年)稲荷橋駅が穴守稲荷駅に改称。この駅から初代羽田空港駅が延伸開業(復活)します。1963年昭和38年)穴守線から空港線に改称。

1964年昭和39年東京モノレールが空港敷地内に乗り入れて開業。東京オリンピック前に当時の運輸省から空港乗入れを打診されましたが本線の輸送力強化に専念していた京急さんはこれを断わります。しかしこのために、1972年昭和47年)以降、乗入れを検討した羽田ターミナル乗入れの実現は1993年平成5年)に開業する羽田駅(現・天空橋駅)まで約20年の間運輸省からOKが出ない状態が続いたのです。

この時に都心方面(本線・都営地下鉄浅草線)からの直通運転が始まります。1986年昭和61年)には全車両が800形に統一され冷房化率が100%になりました。1987年昭和62年)京浜蒲田駅京急蒲田駅に改称。

さてここからが空港線京急蒲田駅の現状につながる話になるのですが、文字ばかりで読者の皆様もウンザリされると懸念しますので、糀谷駅の写真をご覧いただいてから続けます。

糀谷駅上りホームから京急蒲田側写真は上にありますので、こちらは羽田空港方面。

駅名標空港線、元穴守線の歴史が古いのでこの駅の開業も1902年(明治35年)。90年後の1992年平成4年)駅舎が改築されました。1994年平成6年)ホームが8両編成対応に延長されます。2005年(平成17年)から2017年(平成29年)までは京急蒲田駅付近連続立体交差事業で駅舎改築、ホームの高架化、前後の線形変更などが行われ現在の駅になりました。

まだまだ京急蒲田駅付近連続立体交差事業にまで話が届いていませんが、長くなってしまうので本日はここまでにいたします。

【駅ぶら03】京浜急行111 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)