東京都足立区の病院で2016年、手術直後の女性患者の胸を舐めたなどとして、準強制わいせつ罪に問われた男性医師(44)に対する控訴審判決で、東京高裁は7月13日、一審の無罪判決を破棄し、懲役2年の実刑判決を言い渡した。被告側は即日上告した。

資料の再鑑定は不可能ではない

 判決によると、男性医師は自身が執刀した右乳腺腫瘍摘出手術の患者であるA子さん(当時31歳)が手術後の診察を受けるものと誤信して、抗拒不能の状態にあることを利用し、病院のベッドの上に横たわるA子さんの着衣をめくって左乳房を露出させた上、その左乳首を舐めるなどのわいせつ行為をしたとされる。

「A子さんは被害直後、証拠を残さなければならないと思い、看護師が体を拭こうとするのを断り、警察官が来るまで左乳首をそのままにしていた。そこから男性医師のDNAが大量に出た。この際に科捜研はDNA鑑定の資料としてガーゼ1片を使い、半分は残余資料として警察署に返還している。なぜか世間に誤解されているが、再鑑定は不可能ではありません」(捜査関係者)

 DNA定量検査の結果では、A子さんの左乳首付近には「1.612ng/µl」のDNAが付着していたという。一審で検察側証人として出廷したDNA鑑定の専門家は「被害者のDNA100倍以上の被告人のDNAが付着していたということになる」と証言した。

 ところが、科捜研の担当職員が実験ノートに当たるワークシートに鉛筆書きしており、ケシゴムで消して書き直した箇所もあったことから問題視され、「刑事裁判の基礎資料としてふさわしくない」「検査者としての誠実性に疑念がある」と批判を浴びることになり、その信用性が争われることになった。なお、原審は「1.612ng/µl」という結果自体は問題ないことを認めている。

「ニキビを潰す癖やヒゲを抜く癖もあるので……」

 男性医師はA子さんの左乳首に自身のDNAが多量に付着していたことについて、一審の公判で次のように述べている。

「事件当日は起床してから手を洗っていない。午前中、多数の患者を診察したが、それでも手を洗っていない。当時は慢性の鼻炎でくしゃみを連発し、口の周りをぬぐう癖があった。また、ニキビを潰す癖やヒゲを抜く癖もあるので、時々出血する。それらのDNAが付着する可能性もあった」

 また、手術の直前には両胸が露出した状態のA子さんを挟んで、マスクを着けない状態で助手とディスカッションしたと説明し、その際に両胸を触診し、左右の乳首を両手でつまんだことなどもDNAが付着した原因としてあげている。

 その結果、一審判決では「そうすると、いささか決定打には欠けるが、『疑わしきは被告人の利益に』の観点から、唾液の飛沫が乳頭付近に付着する可能性があるということになる」という理由で無罪になったのだ。

 だが、控訴審判決はこれらの事情をすべて否定するものだった。

触診により付着した汗等の可能性は「極めて低い」

 まず、本件アミラーゼ鑑定、DNA鑑定及びDNA定量検査は、「本件犯行を一定程度推認させる。被害者の原審証言を支え、わいせつ被害に遭った事件性を立証するものであれば足りる」とした。

「科捜研の担当職員は相応の専門性、技量、実務経験を有し、通常の手順に従い、適切な器具等を用いて本件アミラーゼ鑑定を行ったものと認められる。鑑定内容について、あえて虚偽の証言をする実益も必要性もなく、その証言内容にも不自然な点は認められないから、その信用性を否定すべき理由はない」(朝山芳史裁判長)

 また、触診により付着した汗等により、被害者の乳首に男性医師のDNAが付着した可能性は「極めて低い」と断じた。

「原審は口腔内細胞が含まれた唾液の会話による飛沫が、本件DNA定量検査の結果をもたらした可能性を指摘し、その場面は入院直後の検査と手術台を挟んだ助手との打ち合わせとされているが、入院直後の状態は被害者と座った状態で話していて、被告人の唾液が被害者の左乳首まで飛んで付着するとは考え難い。

 また、被告人と助手が手術台の両脇に分かれて立ち、両胸を露出して手術台上に横になっている被害者を挟んで、本件手術に関する打ち合わせをしたことは認められるが、助手の方が被害者の左胸に近かったにもかかわらず、助手のDNA型は検出されていない。本件DNA定量検査の数値の厳密性には疑問を入れる余地があるとしても、会話による唾液の飛沫によることの説明は困難である。原判決の説示は、論理則、経験則等に照らして、不合理なものと言わざるを得ない」(同裁判長)

他の裁判官よりも無罪判決が多い

 司法担当記者が意外な説明をする。

「朝山芳史裁判長は変わり者として知られる人です。無罪判決も他の裁判官より多いし、検察官から見ると、天敵というべき人物。ポーカーフェイスで、何を考えているのかも分かりません。その朝山裁判長が逆転有罪判決を出したのだから画期的。『もっと苦戦するかと思った』というのが、検察側の偽らざる本音だったでしょう。

 当初、控訴審の判決は4月15日に予定されていましたが、コロナの影響で延期された。その間の5月2日に定年で退官することになった。まさに最後の大仕事、渾身の判決文です。細田啓介裁判長が代読することになりましたが、自分で読み上げたかったでしょうね」

「首尾一貫し、合目的的な行動を取っている」

 A子さんが「麻酔覚醒時のせん妄により、幻覚を見たかもしれない」という争いについては、「カルテに記載がなく、『術後覚醒良好』との記載があり、『不安言動は見られていた』との記載はあるものの、せん妄である旨の記載はない」と指摘した上で、A子さんが事件当日午後3時12分に「たすけあつ」「て」「いますぐきて」というLINEメッセージを上司宛に送っている事実を重視し、「せん妄による意識障害があったことと相容れない事実」として、A子さんがせん妄の状況下にはなかったものと認定した。

 控訴審で検察側証人として出廷した精神科医が次のように補足する。

「『たすけあつ』と打った時点で間違いに気付き、『て』と修正し、その後に『いますぐきて』という正しい文章を打っている。このように結果を目で見て行動し、知覚と行動のループが繰り返されている。これは、せん妄状態の高度な人においてはあり得ません。

 左乳首を舐められている間、右手でナースコールを押し続けた点も注目に値します。右手で触ったのは本物のナースコールです。ところが、ナースコールを押しているさなか、A子さんは左胸を舐められている感覚も自覚しています。もし、これがまぼろしだとすれば、左胸にはまぼろしの感覚を、右手には現実の感覚を感じていたことになります。同時進行で幻覚と現実の両方を知覚するなどあり得ません。

 また、駆け付けた看護師に対して『今のはドクターですか』と確認し、『はい、そうですよ』と会話したことも覚えている。これだけ首尾一貫し、合目的的な行動を取っている人に対し、せん妄だと主張していることはおかしいです」

大きく変わった、被害者であるA子さんの原審証言の信用性

 また、A子さんが男性医師から2回にわたってわいせつ被害を受けたと訴える場面は、午後2時55分と午後3時12分との間とされているが、その頃に男性医師がベッド脇に2回赴いたことは原判決でも認定されている。A子さんの訴えるわいせつ被害がせん妄による幻覚であるとすると、A子さんはこの17分間に男性医師が2回来たことははっきり覚えているのに、その後突然、せん妄状態に陥って性的な幻覚を見たことになり、男性医師が退出する際には再び覚醒するということを2回も繰り返したことになる。

 控訴審判決では「このような短期間の間に覚醒と幻覚が交替して出現するということは、にわかには考え難い」と一蹴した。

 つまり、一審と二審ではどこが大きく違ったのか。一つは、被害者であるA子さんの原審証言の信用性の問題だろう。

「地位を利用して患者にわいせつ行為をするような人間は許せない」

 一審の構造は、A子さんはせん妄の影響を受けていた可能性があるので、「証言の信用性には疑問がある」とされた。それでも、信用性が肯定できるというには、「その証言から独立した証明力の強い、その信用性を補強する証拠が必要」とされ、アミラーゼ鑑定などについても疑義があるし、「信用性があると仮定しても証明力は十分と言えない」というものだった。

 これに対し、控訴審の構造は、「A子さんの証言は客観証拠と符合しており、直接証拠として強い証明力がある。アミラーゼ鑑定、DNA鑑定、定量検査結果は、科学的な厳密さの点で議論の余地があるとしても、A子さんの原審証言と整合するものであって、その信用性を補強する証明力を十分に有する。したがって、本件の事件性については、合理的な疑いを容れない立証がある」というものだった。A子さんが幻覚を見たわけではないことを、はっきり認定したのだ。

 被害者参加弁護士の上谷さくら弁護士は次のように話す。

「今回、私たち被害者の代理人は多くの医師と面談して徹底的に勉強し、被告人は控訴審で逆転有罪になるという確信を得ることができました。つまり、私たちに協力する医師がたくさんいたということです。看護師さんたちからも、『医者が患者に絶対わいせつ行為をしないなんてことはあり得ない』というエピソードをたくさん教えてもらいました。多くの医師や看護師の方々が協力してくださり、地位を利用して患者にわいせつ行為をするような人間は許せない、頑張ってほしい、という励ましに支えられて頑張ってきました。その方たちに感謝したいです」

医師会は異例の声明を出したが……

 となると、これは果たして冤罪なのか。男性医師の弁護団は「冤罪を放置するわけにはいかない」としているが、通常あり得ないほどの自分の体液がたっぷりと検出された被害者の左乳首をどのように説明するのか。

「男性医師はなぜ手術した右胸とは反対側の左胸側にいたのかについて、何ら合理的な説明をしていない。さらに男性医師は、A子さんを手術台に座らせ、上着を上げて両胸を露出させている写真を撮影し、そのうちの3枚はA子さんの顔面入りで正面から撮影していた。そのことについて、男性医師は『トリミングすれば良いと思っていた』と供述しているが、その割には捜査時にはA子さんの写真だけが削除されており、A子さんの写真画像の中に捜査機関に見られたくないものがあったということを認識していたとみられる。性的感情を抱いていた男性医師が、A子さんが麻酔からの覚醒過程にあることから、それを絶好の機会ととらえ、本件犯行に及んだものと考えられる」(捜査関係者)

 だとしたら、とんでもない職権乱用だ。真面目に働いている全国の多くの乳腺外科医たちの信用を失墜させる行為だ。7月15日、日本医師会の中川俊男会長は、控訴審判決について「身体が震えるほどの怒りを覚えた。日本医師会は判決が極めて遺憾であることを明確に申し上げ、今後全力で支援する」と異例の声明を出したが、医療界にとって患者の信頼を取り戻すための「断罪」こそが先決ではないのか。

(諸岡 宏樹)

事件の現場となった足立区内の病院 ©︎諸岡宏樹