創業100周年を迎えたマツダ1931年に自動車産業へ参入して以来、これまで多くの名車を世に送り出してきたが、ファミリーカーという存在を一体どのように捉えているのだろうか。本連載では、マツダデザイン本部ブランドスタイル統括部主幹・田中秀昭氏に同社の軌跡を振り返ってもらうとともに、ファミリーカーが歩んできた歴史をご紹介する。

【写真を見る】マツダのクルマ作りの原点である『三輪トラック』。当時、庶民のクルマといえばこのタイプだった

■“庶民のクルマ”三輪トラックから“三種の神器”四輪自動車の生産へ

マツダの前身となる東洋コルク工業が産声をあげたのが1920年。その後、1927年に社名を東洋工業に変更し、1931年に念願であった自動車産業への参入を果たした。参入時の四輪自動車といえば社用車や公用車のみに使用されることがほとんど。一般庶民にとってクルマといえば、安価で軽敏な三輪トラックの時代であった。

「このころは、多くの三輪トラックメーカーが存在していましたが、その多くは舶来品をパーツごとに購入して組み立てる手作り的なもの。東洋工業ではその全てを国産化、内製化することで業界をリードする存在へと成長しました」

そんなマツダが四輪乗用車の生産に乗り出したのが1960年東京五輪 (1964年大会)を4年後に控え、まさに高度経済成長が始まったころだ。

「国民生活もどんどん豊かになっていく中で、カラーテレビ、クーラー、カーのいわゆる新3種の神器を持つことが一般庶民のステータスになっていた時代。今ではクルマは個人それぞれの生活様式を反映したものに変化しましたが、当時はクルマを所有することは一つの目標だったのです」

■“高嶺の花”のマイカーを“庶民の足”に!狙いは「ファミリー層の獲得」

『R360クーペ』(1960年)から始まったマツダのファミリーカーの歴史。それは、戦後の復興期を終え、時代が大きく変動するタイミングだった。

「当時は所得水準の向上や通産省(現・経済産業省)が打ち出した国民車構想により、乗用車の購買意欲が高まり始めたころです。ただ、大卒の初任給が1万3,000円の時代にもっとも安い軽自動車でも40万円を超えるなど、まだまだ庶民には手の届きづらい存在でした。そのため、まずは手に入れられる低価格であることが求められました」

そして登場した『R360クーペ』の販売価格は30万円。しかし、この価格を実現するために乗り越えるべき課題は少なくなかったという。

「とにかく小さく、軽く作らなくてはいけません。中でも最大の課題は、後部座席のあり方でした。後部座席に成人を座らせられるようにすると、重量やスタイルに大きな影響が出るからです。そこで『R360クーペ』は、当時“ニューファミリー”と呼ばれた両親と子供2人の核家族ターゲットに据えました。この思い切ったターゲット層の割り切りもあって、全長が2980mmでありながら伸びやかなクーペルックが実現したのです」

価格がクリアされると、次は居住性や利便性が求められるようになる。そこでマツダは、ファミリーカーの第二弾として1962年2月に『キャロル360』を市場に投入する。

「『キャロル360』では、普通のファミリー層を獲得するために、後部座席を見直しました。『R360クーペ』と同じ全長で大人4人が乗車できるようにすると、どうしてもキャビンが大きくなってしまいアンバランスなシルエットになってしまいます。そこで、『キャロル360』ではクリフカット(後席の後ろで屋根を断つこと)と呼ばれるデザインを採用。これにより、居住空間を確保する一方で、ユニークで個性的なスタイルが完成しました」

キャロル360』は軽自動車市場で50%を超える圧倒的なシェアを獲得(1962年から64年)。軽自動車のファミリーカーとして、大いに存在感を発揮した。

■ファミリーカーの新時代が幕開け!名車『ファミリア』が登場

「価格、居住性や利便性、豪華さと変化してきたファミリーカーに求められる要素は、次第にスピードへと移行します。折しも、1963年7月には名神高速尼崎栗東間の71㎞が開通。また、翌年の東京五輪に向けて首都高速の整備が急ピッチで進む“高速化”の時代です。そのタイミングで、弊社を代表するファミリーカー『ファミリア』が誕生しました」

1963年に『ファミリアバン』、1964年に『ファミリアセダン』、1965年に『ファミリアクーペ』が順に登場。この初代『ファミリア』で、マツダは小型自動車市場に打って出る。

「車名はイタリア語で家族の意味で、家族が揃ってドライブへ行くという想いを込めた命名でした。そのデザインは、外周にメッキモールアルミ製のフロントグリル、ホワイトリボンタイヤなど、新しい時代のファミリーカーとして相応しいものでした」

このころになると、高度経済成長の後押しもあり、大衆車と呼ばれた小型自動車の個人所有が増加。“一般大衆にマイカーを”というマツダの願いが現実のものになった。そして、クルマは家族と出かける移動手段としてなくてはならないものになっていく。

「3代目『ファミリアプレスト』(1973年)で全長・全幅ともに大型化したように、ファミリーカーにはさらなるゆとりと快適性が求められました。まるで右肩上がりの経済成長と呼応するかのように、市場の要求はより豪華に、より大きなクルマへと変化していったんです」

ところが、1973年に起きた第一次オイルショックを機に、こうした大型化の流れに変化が訪れる。

「お客様の燃費や経済性への感度が高くなりました。また、国内の小型車の需要層が戦後生まれの20代、30代の若い世代へシフトしたこともあり、4代目『ファミリア』は欧州で小型車のスタンダードになっていた2ボックスのハッチバックスタイルを採用します。すると、それまでのセダンを中心とした重厚長大を良しとした古い価値観を否定する新しい価値観を持つファミリー層の支持を得て、オイルショックで倒れかけたマツダを支えました」

その後、1979年の第二次オイルショックで環境や経済性への配慮がより重視されるようになると、世界的にコンパクトカーに対する需要が高まった。その中で、1980年には4代目のコンセプトを引き継いだ5代目ファミリア』が登場。量産開始から27カ月で100万台生産を達成するなど、『ファミリア』の完成形として一時代を築いていった。

ファミリーカーの歴史を紐解く連載「ファミリーカー今昔物語」。後編では、バブル崩壊を経て、多様化が進むファミリーカーの移り変わりに迫る。

マツダが見てきたファミリーカー変貌の歴史とは?/撮影:安藤康之