国人(こくじん)領主(在地領主)の連合体、すなわち「国人一揆」から見事に戦国大名化を果たしたのが、毛利元就(もとなり)です。元就は、安芸国(広島県西部)の国人領主・毛利弘元の次男として、1497(明応6)年に生まれています。父・弘元が1506(永正3)年に亡くなると、毛利家の家督は4歳上の兄・興元が継ぎました。

 ところが、その兄・興元が10年後、24歳という若さで死んでしまい、元就は興元の子・幸松丸(こうまつまる)を後見することになります。しかも、その幸松丸も1523(大永3)年にわずか9歳で亡くなってしまい、結局、元就が毛利家の家督を継ぐことになります。27歳でした。

「養子送り込み」で勢力拡大

 元就が家督を継いだ頃、安芸国の守護は武田氏でしたがほとんど力がなく、30人ほどの国人領主による国人一揆が実権を握っていて、毛利家もその一つにすぎませんでした。では、その横並び状態、「どんぐりの背比べ」といってよい状況から、元就が頭一つ抜け出したのはどうしてでしょうか。それが「養子送り込み戦略」といわれるものです。

 まず、三男の隆景を小早川家の養子に押し込みます。さらに、次男の元春を吉川(きっかわ)家の養子とします。小早川家も吉川家も毛利家と同じレベルの国人領主ですので、元就は「3」の力を持ったことになります。さらに、娘の一人を同じ国人領主の宍戸(ししど)家に嫁がせています。嫁がせたという程度では1にカウントできませんが、0.5にはなるでしょう。元就は、たちまち「3.5」の力を持つことになりました。

 こうして、元就は国人一揆の盟主となり、やがて、かつて同僚だった武将たちの上に立ち、戦国大名化に成功します。

 ところで、元就といえば、多くの人は「三矢(さんし)の教え」を思い描くかもしれません。長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に「1本の矢なら折れるが、3本束になったら折れない」といい、兄弟3人の結束を遺言したというものですが、元就臨終の場に長男・隆元はおらず、これは実話ではありません。おそらく、元就が3人の子どもたちに宛てた「三子教訓状」をもとに創作されたものと思われます。

 その教訓状の中にも「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と書いているように、合戦でもさまざまな謀略を駆使しました。1555(弘治元)年の厳島(いつくしま)の戦いでは、敵方の内部に謀反のうわさを流すなどの頭脳的作戦で、4000の兵で5倍の陶晴賢(すえ・はるかた)軍2万を撃破。戦国を代表する知将といってよいでしょう。

身内にも容赦なく…

 そんな元就ですが、トップに踊り出るためには強引な手段も使っています。例えば、三男・隆景を小早川家の養子にした件ですが、筆者は先ほど、「養子に押し込む」という書き方をしました。「小早川家から望まれて養子に行った」というのは、ニュアンスが違います。実は、隆景の相続に反対した人たちが小早川家の内部にいて、その後、粛清されているのです。これはやはり、実質的には毛利家による「小早川乗っ取り」だったのです。

 吉川家の場合も同様、元就に圧迫された当主・吉川興経が隠退させられ、元春が養子に送り込まれました。しかも、元春が吉川家を継いだ3年後の1550(天文19)年には、興経が元就によって殺されています。

 粛清という点でもう一つ思い起こされるのが、井上一族粛清事件です。井上一族は毛利家と姻戚関係にあり、ある段階までは毛利家とほぼ対等に近い力を持っていたのですが、次第にその指揮下に属すことになったため、井上元兼を筆頭とする井上一族が不満を募らせ、やがて、出仕を怠ったり、諸役を務めなかったりという行動を取るようになりました。そこで、元就は1550年7月13日、30余名の井上一族誅伐(ちゅうばつ)を断行しています。

 身近な者たちも厳しく処断した元就の生き方は、きれいごとでは生き残れないという戦国時代の現実を如実に示しているのかもしれません。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

広島県安芸高田市にある毛利元就像