手術直後の女性患者にわいせつな行為をしたとして、準強制わいせつ罪に問われた男性医師の控訴審判決で、東京高裁の朝山芳史裁判長は7月13日、1審・東京地裁の無罪判決を破棄し、懲役2年の逆転有罪判決を言い渡した。

1審では、女性の証言はせん妄の影響を受けていた可能性があることなどから、信用性に疑いがあり、女性から採取されたアミラーゼ鑑定やDNA定量検査の信用性にも疑義がある、あるいは証明力が十分とは言えないなどとして、無罪判決を言い渡していた。

なぜ、無罪判決はひっくり返ったのだろうか。1審と高裁判決の考え方の違いやポイントは、どのような点にあるのか。刑事事件にくわしい神尾尊礼弁護士は「違いの大元は、麻酔覚醒時の女性の言動をどう捉えるかという点にある」と話す。

判決文を元に、神尾弁護士に解説してもらった。

●刑事判決の基本的な考え方

今回の事件は、医療従事者の関心も高いと思われますし、広く知られる必要があるものだと考えます。そこでまずは、刑事裁判の基礎的な説明をした上で、1審判決と控訴審判決の両方を可能な限り詳細に紹介し検討したいと思います。

なお、私が入手できた資料は、それぞれの判決文のみです。証拠をみたわけではないので、証拠の評価は判決に現れる限度にとどめ、「医学的にはどうなのか」といった観点の評釈は、これを読まれた医療従事者の方々にお任せしたいと思います。

・証拠から主張を組み立てるまで

一般に「疑わしきは被告人の利益に」などと言われることがあります。これは、有罪無罪を決める場面では、「常識に従って判断し、罪を犯したと間違いないと判断できてはじめて有罪にできる」という意味になります。

そして、刑事裁判では、この「間違いないか」と判断するための基礎とできる資料は、法廷に出てきた証拠だけになります。法廷に出てきた証拠を有機的に結び付けていくことで、有罪方向の主張に、あるいは無罪方向の主張にしていくのが、検察官や弁護人の役割ということになります。この証拠から主張を組み立てていくことで重要になるのが、「証拠構造」になります。

証拠A、証拠B、証拠Cとある場合に、証拠構造には、 (1)犯罪事実を直接立証できる証拠Aがどれだけ信用できるかを考え、補助的に証拠Bや証拠Cを使う、 (2)どれも直接立証はできないので、証拠A~証拠Cのそれぞれの信用性を考え、「合わせ一本的」に立証していく、 などいくつかパターンがあります。

控訴審でも、1審で出てきた証拠が消えるわけではありません。証拠構造は、どちらも(1)のパターンに近いと思われます。

1審と控訴審を分けたのは、1審で出てきた証拠に対する評価の違い、控訴審で追加された証拠に対する評価でした。そして、これらに伴って、証拠の重み付けの違いも生じました。

●1審と控訴審の判決の構造

1審判決でも控訴審判決でも、検察官の主張の大まかな構造は、
(1)被害にあったとされる女性の証言が信用できる
(2)1と整合するアミラーゼ鑑定とDNA型鑑定の結果がある
(3)1と2があいまって有罪と立証できる、というものです。
これらを順にみていくことにします。

(1)女性の被害状況に関する証言の信用性

1審判決も控訴審判決も、女性の証言それ単体でみたとき、信用性を明確には否定していません。考慮した要素もほぼ同一です。表にまとめると、以下のようになります。

・女性の証言とせん妄の可能性

もっとも、迫真性があったとしても、せん妄の影響があったのであればその証言を信用することはできなくなります。

1審では、麻酔学の専門家を2名、精神医学の専門家を2名呼び、比較検討しています。 表にまとめたとおり、裁判所は専門家A・Cを高く評価し、せん妄(に伴う性的幻覚)の可能性があるとしています。

他方、控訴審判決は、専門家A・Cの専門的知見を真っ向から否定しているわけではありません。A・Cが前提にした事実関係が間違っている(カルテに記載がないので信用できない)から、そうした事実関係を前提にした意見も採用できない、としています。

その上で、麻酔の影響が抜け切っていないから不適当な言動があっても不自然ではないこと、記憶の欠損がないこと、覚醒と幻覚が交替して出現することはないことなどを理由に、性的幻覚をみていた可能性を否定的に解しています。

ただ、おそらく通常であれば1審判決が排斥した専門家B・Dに乗っかって、有罪判決を書くところでしょう。ところが、控訴審は、B・Dにも問題があると考えました。 そこで、専門的知見を得るために、控訴審独自に専門家を呼ぶことにしたのです。

・控訴審における専門家の証言

控訴審には、検察側医師Eと弁護側医師Fが呼ばれました。

判決文によれば、検察側の医師は、せん妄の専門家ではないが豊富な臨床経験があるとされています。他方、弁護側医師は、せん妄に関する専門の研究者ではあるが、がん患者や高齢者等を主に診察しているとされています。

特に気になるのは、E医師の「がん患者や高齢者のせん妄一般論を、本件に当てはめることができない」とする点です。

判決文だけからみると、そもそも高齢者等とそれ以外の方のせん妄にどれだけ違いがあるのか、違いがあるとして、それでは若い女性の場合はどうなるのか(むしろより強い性的幻覚があり得るとしたら、やはり性的幻覚があったことになります)といったことは読み取れませんでした。

また、E医師はせん妄の専門家ではないと明言されているにも関わらず、ほぼ全面的に信用できるとされています。E医師の批判があるのなら、その道のプロであるF医師がどう答えることになるのか気になるところではありますが、判決文からははっきりとは読み取れませんでした。

以上のように、個人的にはE医師に全面的に乗りすぎているように思えたのですが、とにもかくにも控訴審はせん妄や性的幻覚の可能性を排除したのです。

(2)DNA型鑑定等の位置付け
次に、鑑定の評価に移ります。

1審判決は、女性の証言の信用性を低くみていますので、DNA型鑑定等には強い証明力がないと有罪にはできないとしています。他方控訴審判決は、女性の証言を高くみていますので、DNA型鑑定等はある程度の証明力で足りるとしています。

このように、女性の証言に対する見方が変わったので、DNA型鑑定等に求められるハードルもかなり下がりました。

・採取過程や保存過程の問題

まず、鑑定が正しいか判断する前に、前提となった資料の採取過程やその保存過程に問題がないかチェックしています。結論として、1審も控訴審も問題がないとしています。

過程の問題は、他の裁判でも争われますし、内規に違反するなどかなり杜撰な管理がされていることも多いです。

ただ、裁判所は、多くの事件で鑑定結果には影響しないとしています。例えば、多少高温にさらされたとしてもDNA自体は変容しない、などと判断された事件もありました。他のものと混ざってしまういわゆる「コンタミネーション」(汚染)があり得るのであれば大問題ですが、今回の事件ではそこまで問題にならなかったのでしょう。

ただ、この次の過程、鑑定の段階で問題が多かったように読み取れます。

・アミラーゼ鑑定

採取し保存された資料は、科学捜査研究所に持ち込まれ鑑定されます。科捜研は警察本部等の付属機関であり、その中立性には疑問を呈されるときもありますが、本題と逸れるので割愛します。

科捜研の法医研究員は、アミラーゼ鑑定とDNA型鑑定をしています。アミラーゼ鑑定では陽性反応が出たとの鑑定書がありますが、その客観的資料が残されていませんでした。ただ、控訴審判決では、特段問題にしませんでした。

・DNA定量検査

通常、DNA型鑑定とは、個人識別に使うものです。

DNA型鑑定では、2つのもの(例えば現場に残された皮膚片と被疑者の口腔内細胞)から、DNAの特定の部分を複数取り出し、比較します。全て一致すれば、皮膚片は被疑者由来とみて矛盾がないことになります。このように、あるものが誰のものか識別することを「個人識別」と呼んでいます。

他方本件では、検察官は、DNA型鑑定の準備として行うDNA定量検査を用いています。すなわち、本来の鑑定ではなくて、その準備検査の方にスポットが当てられたわけです。しかも、鑑定のときにはそこまで重要になるとは意識されていなかったわけですから、その定量検査にはいろいろと不備がありました。

まずは、定量検査がどの程度信用できるかを検討しています。

1審判決は、事後的な検証が不能となっていることやワークシートの不適切な使用から、かなりの疑問を投げかけています。ただ、最終的には、信用性がないとまではいえないとしています。

控訴審判決は、さらにシンプルで、「検証可能性が確保できればより信用できるけれど、検証できなかったからといって信用できなくなるわけではない」という論理で信用性を認めています。

次に、検査結果からどのような事実が立証できるのか、検査結果の証明力を検討しています。

検察官は、医学博士のG研究員に意見を聞いています。他方弁護側は、DNA型に基づく個人識別の専門家であるT大学H教授の各種実験を提出しています。

ここで、証拠の重み付けの違いが表れてきます。1審は、強い証明力を要求していました。そこで、反対可能性が残ることを重視し、無罪方向で考えています。

他方、控訴審は、強い証明力までは要求していません。そこで、反対可能性が残るとしても、ある程度は立証できているということで、有罪方向を否定しないという論理の流れを取っています。

最後に、事件とは別の機会に左乳首付近にDNAが付着する可能性を検討しています。 1審では、(1)手術前に触診した際、(2)手術の助手をした医師と手術の打合せをした際などに付着した可能性に言及します。

他方控訴審では、(1)それほど飛ぶか疑問であること、(2)助手のDNA型が検出されていないことから、あっさりと可能性を排斥しています。

ここでも、反対事実の可能性があるならそれを重くみる1審と、ある程度の確度があればそれでよいとする控訴審の立場の違いがみて取れます。

●何が結論を分けたのか

以上のとおり、2つの判決をみてきました。 違いの大元は、麻酔覚醒時の女性の言動をどう捉えるかという点にあるように思います。

すなわち、1審は 麻酔覚醒時、女性が突飛な言動をしたと認定

(これを前提に)専門家がせん妄による性的幻覚と判断、女性の証言の信用性を低くみる

(これに伴って)有罪にするには、鑑定に相当強い証明力を要求することになる

鑑定には種々の問題があり、反対事実の可能性が残るから、証明力が十分とはいえない

女性の証言の信用性も低く、鑑定の証明力も十分ではないので、無罪
という構成です。

他方控訴審は、 麻酔覚醒時、女性が突飛な言動をしたというのは、カルテに記載がないから認定しない

(これを前提に)せん妄による性的幻覚は高齢者等の問題であるなどとした専門家の意見を採用し、せん妄による性的幻覚ではないと判断、女性の証言の信用性は高いとした

(これに伴って)有罪にするには、鑑定にある程度の証明力があればよいとした

鑑定には種々の問題があり、科学的な厳密さにおいて議論の余地はあるが、女性の証言を補強するには十分

女性の証言の信用性は高く、鑑定もそれを支えているので、有罪
という構成と考えられます。

●控訴審判決の疑問点

証拠をみていないので、1審判決が正しいとまでは断言できませんが、個人的には、控訴審判決にはいくつかの疑問、また注意しておきたい点があります。

カルテに記載がないことを重視しすぎていないか
前記のとおり、結局はカルテに記載があったかどうかが結論を大きく左右していると思われます。

ここを詳しくみてみると、控訴審は、カルテに「術後覚醒良好」「不安言動は見られていた」との記載はあるものの、せん妄である旨の記載はないとしています。

1審判決には「せん妄は頻繁にみられる現象」ともあり、全てのカルテに「せん妄」と書くものなのか、よくあることなのでせん妄の細かい様子までは書かないものなのか、医療現場の実務感覚を知りたいところです。

・LINEメッセージは「多少の変換ミス」で説明が付くのか
せん妄による幻覚を否定するロジックとして、控訴審は、直後のLINEが「多少の変換ミスはあるものの」冷静な行動であると評価しています。

先ほど表にまとめた「たすけあつ」(原文ママ)などのほかにもいくつかメッセージがあるようですが、普段どの程度打ち間違えるのか、麻酔覚醒中ということで説明が付くレベルのものなのか、気になるところです。

個人的には、助けを求めるのにメッセージという手段を使うか、「多少の」というレベルを超えているのではないか、という疑問があります。ただ、この辺りは、判決文からは読み取り切れませんでした。

・プロ中のプロの証言を排斥するロジックとして十分か
控訴審は、せん妄の専門家の証言を、他の専門家の証言によって排斥しています。

判決文を読むと、「裁判官+その意向に沿う検察側専門家」対「裁判官の意向とは違う意見を言う弁護側専門家」という図式が読み取れ、検察側専門家の意見を肯定する際の論理にはやや甘いところがみられます。先に述べた、「一般論が妥当しないのは分かったが、では今回はどうなるのかの説明がない」などが一例です。

1審でも専門家を3名、控訴審でもさらに2名と、相当多くの専門家を呼んでいますが、それぞれの学会での立ち位置や当該鑑定事項に対する専門性の度合いまでは判決文からは分かりません。是非医療従事者の方々には、それぞれの意見の正当性を含め議論していただきたいところです。

・女性の証言を否定したわけではない
また、注意しておきたいのは、女性の証言について、1審も控訴審も、その信用性を直接的に否定する、すなわち嘘をついているなどと判示したわけではありません。

いずれも記憶とは相違ないことを前提に、1審は性的幻覚として、控訴審は性的幻覚ではないとして説明しています。

したがって、1審が無罪だからといって、女性が嘘をついていたと判断したわけではありません。1審判決後女性にバッシングが起きたことは知られていますが、女性に対するいわれなき誹謗中傷と言わざるを得ません。

刑事司法の世界では、性被害者が司法の場でさらに被害を受けないよう、配慮する取組みが進んでいます。その取組みはまだ不十分ですが、判決を正しく了解しないことによる批判は、一方で冤罪をうみ、一方で性被害を訴えることを萎縮させる結果をもたらすだけです。

●上告審の見通しは?

カルテや性的幻覚の問題は事実認定レベルのものなので、最高裁が取り合う性質のものかは不透明です。上告理由は、原則として憲法違反と判例違反に限られるためです。

ただ、せん妄のロジックのあやうさや定量検査の新奇性からは、最高裁が反応してもおかしくはないと思います。

そのためには、医学的なアプローチが必要不可欠であり、医療従事者の方々が控訴審判決をどのようにみるのかによって上告審の見通しは大きく変わるように思います。

今回、限られた時間内ではありますが、可能な限り判決を分析し内容をご紹介しました。より多くの方々の目に触れていただきたいからです。正しい点や問題点があぶり出され、医学的検証にも耐えられるような判決が出ることを望んでいます。

【取材協力弁護士】
神尾 尊礼(かみお・たかひろ)弁護士
東京大学法学部・法科大学院卒。2007年弁護士登録。埼玉弁護士会。刑事事件から家事事件、一般民事事件や企業法務まで幅広く担当し、「何かあったら何でもとりあえず相談できる」弁護士を目指している。
事務所名:弁護士法人ルミナス法律事務所
事務所URL:https://www.sainomachi-lo.com

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