全国で路線バスの廃止・休止が増えていく中で、「コミュニティバス」という存在が徐々に増えていますが、実は、その定義はあいまいです。通称「コミバス」の元祖とも言われている東京都武蔵野市「ムーバス」の例を挙げながら見てみましょう。

コミュニティバスの先駆けとなった「ムーバス」

日本の路線バスはほとんどの地域で衰退の傾向にあり、路線廃止や事業者の撤退も相次いでいます。そのなかで、廃止されたバス路線を引き継ぐ「コミュニティバス」をよく目にするようになりました。

通称「コミバス」とも呼ばれる運営形態は、「自治体が運営に責任を持つ」「小型バス導入」など大まかな特徴はありますが、実はもともと「これがコミュニティバスです」と定義されたものはありません。その名前や考え方が全国に知られるようになったのも近年のことで、1995(平成7)年に東京都武蔵野市が吉祥寺で運行を開始した「ムーバス」が先駆けといわれています。

東京都内「住みたい街ランキング」の上位常連としても知られる吉祥寺は、JR中央線京王井の頭線が接続、また路線バスは西武、関東、小田急、京王と4社が発着するため、公共交通はとても便利に見えます。

しかし「ムーバス」が登場するまでの路線バスルートは、五日市街道や井の頭通りといった表通りに限られ、駅やバス通りまで500mから1km程度の距離がある地域を多く抱えていました。健康な人にとっては歩けても、高齢者や子どもを抱えた人にとっては辛い距離です。また、自転車で駅前まで出かける際の事故や、全国一ともいわれた駅前の放置自転車などの問題も起きていたといいます。

「ムーバス」は小型車両を導入することで、従来はバスが入れなかった細い路地にも運行し、200mほどの間隔で設置されたバス停でこまめに乗客を拾っていきました。そして運賃はわかりやすく1回100円均一(未就学児は無料)。停留所にはベンチも設置され、車内は各種掲示物を貼るコミュニティボードもあり、貸し出しできるように準備した傘は、ほぼ必ず戻ってくるなど、車内はまるで町内会のようなコミュニティが形成されていたそうです。

八方塞がりだった「ムーバス」誕生までの経緯

こうして誕生した「ムーバス」ですが、当時はこのようなバス路線の前例がなく、構想から運行開始まで4年もの歳月を費やしたそうです。「認可が降りない」「車両がない」「採算がとれない」「事業者がいない」という八方塞がりの状態を乗り越えて、日の目を見ています。

いまの「ムーバス」のコンセプトは、武蔵野市民の要望をもとに1991(平成3)年から検討が始まりました。しかし、路線バスの認可にかかわる警察や運輸省(現・国土交通省)とも、当時は難色を示しました。

まず警察の主張は、安全の観点から「幅8m以下の道路にバス路線の開設を認めない」というものでした。幅6mの区画道路が多い吉祥寺には、それに見合った車幅2m、長さ7mほどのコンパクトな車両(一般的な大型バスは車幅2.5m、長さ10~11m程度)が必要だったのです。

また小型の路線バス車両といえば、いまでこそ車種の選択肢がありますが、当時は送迎車としての使用が前提のマイクロバスしかなく、乗客の入口および出口となる2枚扉を備えた路線バス車両はなかったそうです。

最終的にはメーカー(日野自動車)が「これからの時代はこのような需要がある」との予測に基づき、後の「リエッセ」につながる新しい車種の開発に反映させることで解決しましたが、それ以外にも車両側面のリアタイヤを照らす路肩灯の出っ張りを減らすといった省スペース化や、片側一方通行のルート設定により、何とか認可を取り付けるまでに至ったのです。

しかし、もうひとつの問題となったのが「採算」です。バス事業者の見方は「大通りで50人乗りの大型バスを200円(当時)で運行しても乗客が少ないのに、28人乗りの小型バスを100円で運行しても採算が取れない」というもので、当時の運輸省も「安定経営の目処が立たないと認可しない」立場を取っていました。

車両を市で保有することでコストのハードルを下げたものの、当初公募に応じたのは関東バス1社のみ。それも交渉の末、「2000万円までの赤字は補助する」という条件でようやく事業者として決定しました。

こうして1995(平成)年11月、朝8時から夕方6時まで、1時間4本運行する「ムーバス」が開業しました。なお、運行事業者には後に小田急バスも加わっています。

ムーバス「まさかの黒字」そして「まさかの使い方」

運行開始当時から不採算が予想された「ムーバス」でしたが、大方の予想に反してその客足は予想を大きく上回りました。家からあまり出なかった高齢者や親子連れの姿が街に目立つようになったそうです。当時の武蔵野市土屋正忠さんは著書の中で「潜在需要を掘り起こした」と語っています。

また小さな子供がいる家などで、子供に百円玉1枚を渡して「ムーバスで2周しておいで」と1周25分間で環状運転するバスに乗せ、50分後にバス停まで迎えに行くという、誰も予想しなかった「保育園がわり」のような使い方も見られたのだとか。

運行から3年ほどで「ムーバス」の黒字化が達成されたときの驚きたるや、関係者ですら利益の使い方を決めておらず、直前に慌てて協議を始めたほど。結果、事業者が利益の半分を市に寄付することで解決したそうです。

その後は運行地域も広がり、7路線(一部三鷹市と共同経営)を擁するまでになった「ムーバス」は、運行開始から25年を経た2020年に累計利用者が5000万人を突破するまでになりました。

住宅街にバスを走らせる」という武蔵野市の事例は他地区の憧れでもあったようで、「ムーバス」が端の方を通る杉並区の人々は、「すいませんねぇ」と武蔵野市の人々に謝って乗り込む人までいたそうです。開業当時のマスコミの扱いが大きかったこともあり、この成功は、結果として全国で600もの自治体がコミュニティバスを導入するきっかけともなりました。さらに、こうしたブームに乗り東京の様々な自治体で多数購入された小型バス車両は、のちに払い下げられ、地方のバス事業者のコスト押し下げにもつながりました。

縮小市場の中での「コミバス」これからの課題

あっという間に当たり前の存在となったコミュニティバスですが、地方で導入しているケースの多くでは、なかなか採算が取れていないのが現状です。そもそも全国の主要都市は武蔵野市ほどの人口密度や環境がなく、地域によっては最初から採算を度外視して「いくらなら乗ってもらえるのか」と運賃を先に決めるケースもあるほど。2020年現在では、「ムーバス」ですら単年赤字を計上するほどで、その事業性が不安要素でもあります。

またコミュニティバスは、業務委託などで最初から人件費のコストを抑える傾向にあります。実際に「ムーバス」も、55歳以上の運転手を再雇用し、人件費を抑えることで黒字転換に成功していますが、大型免許を持つ運転手の不足や、働き方の見直しも進むなかで、「待遇を抑える」前提がどこまで続けられるか、という課題も残ります。

「ムーバス」運行開始までに多くの障害があったように、路線バスは「必要になった時にすぐに運行できる」ものではありません。「ここからここへ歩かずとも移動できる」サービスの維持は、老いの訪れを避けられない多くの人々に関わってくることでしょう。路線バスの苦境の打開から始まる「コミュニティバス」が、どのように無理なく続くかたちを確保していくのか、もっと話し合われてもよいのではないでしょうか。

吉祥寺駅前に停まる「ムーバス」(2020年8月、乗りものニュース編集部撮影)。