大河ドラマ麒麟がくる』の沢尻エリカ逮捕による帰蝶の代役は、当初難航するのではないかと予想された。1年にわたる大河ドラマのしかもヒロインを演じるには、演技力と知名度、そして通常なら2〜3年前から調整を始めるスケジュールを今から白紙キャンセルして大河撮影のために明け渡す犠牲が必要になるからだ。

 すでに撮影した部分の撮り直しも考えれば一刻の猶予もなく代役を決めなければならない状況で、川口春奈の帰蝶役代役出演が決定したのは意外にも早かった。それは早く決めなくてはならないというNHK側の事情だけではなく、それに応じた川口春奈サイドがほとんど迷いなく、帰蝶を演じる代償に1年分のスケジュールを差し出したことを意味していた。

 放送前は沢尻エリカより10歳近く若い川口春奈に経験不足を懸念する声もあったが、放送が始まると堂々とした演技を高く評価する声が上回っていった。そうした川口春奈の健闘、女優として大河ドラマでの飛躍を伝える記事の中で、しばしば彼女は「これまでの不運」について書かれることがある。一般の記憶には、今も彼女が18歳の時に演じた初主演ドラマについての煽情的な報道が残っているからだ。

ドラマ『夫のカノジョ』の視聴率低迷と打ち切り

 2013年TBSで放送された連続ドラマ『夫のカノジョ』の視聴率低迷と打ち切りは、今振り返れば過剰なほどにメディアに書き立てられ、当時18歳川口春奈はその渦中に立たされた。メディアが書いた記事は2013年当時のネット文化の中で悪趣味に嘲笑され、ネットの書き込みでまたメディアが記事を書くという循環が起きた。そしてドラマが終わり、川口春奈が次の作品に移っても、ネットはまるで悪口を覚えた子供のようにそのドラマのことをはやしたて続けた。

 だがその初主演ドラマ、『夫のカノジョ』がどんな内容だったのかを正確に知る人は当時も今も少ない。ドラマ化の2年前に書かれた垣谷美雨の原作小説は、目を引くタイトルイメージするような不倫ドラマではなく、39歳の専業主婦と20歳の非正規雇用女性、社会の中で分断された2人の弱者の心が入れ替わる物語である。

 来年2021年にも『老後の資金がありません』の映画化が予定され、多くのヒット作、メディアミックス作品を持つ柿谷美雨の文章は読みやすく平易で、文学めかした修辞もなければ、社会学用語がそのまま出てくるようなこともまずない。だが、東日本大震災で避難所に暮らす女性たちの抑圧と抵抗を書いた『女たちの避難所』を始め、その作品は一貫して現代社会で女性が生きることの困難をテーマにしている作家だ。

バッシングに正面から応えた18歳川口春奈

 不倫を疑って主婦と若い女性が争う物語の冒頭で九州弁の魔女が現れ、「おなご同士が争うことが、オイはいっちょん好かん。まっと助け合わんとね。つまらん争いばしとるけん、本当の敵ば見失うとよ」「物事はなんでん相手の立場に立って考えてみることが大切ばい」と2人の魂を入れ替える導入を、荒唐無稽、子供だましと笑うことは簡単だ。明治大学文学部フランス文学を専攻した作家、垣谷美雨にとってもそんなことは百も承知だろう。

 だがこの作家はそんな揶揄を恐れないかのように常に平易に、改行を重ねて見やすく、漢字は少なく、文学めいた気取りのない口語体で小説を書く。それは垣谷美雨が自分の小説を、大学の文学部にたどり着けなかった読者たちにも読める文学、現代の寓話として書いているからだ。垣谷美雨が書く物語は、多くの女性読者に届く。専業主婦にも、企業で働くOLにも、そして当時18歳の女優、川口春奈にも。

 ほとんどバッシングの域にまで達した当時のメディアの揶揄と嘲笑の中で、18歳川口春奈は『夫のカノジョ』という物語に絶対の自信を持っていた。もちろん視聴率が低いからと言って主演女優が脚本に責任を転嫁することは通常ない。だが、川口春奈は当時のバッシングに正面から挑戦するように、「内容は素晴らしい。見てもらえれば必ずわかるはずだ」とあらゆるインタビューで繰り返した。

 ついには当時の主演映画の初日舞台挨拶の場で自ら放送中のドラマについて触れ、「数字で判断されるのは怖いし悔しい。(ドラマに携わる)みんなが、いい作品を作っているって心から思っています。すごく明るくて楽しい作品なんです。映画と共にたくさんの人に見て欲しいです」と訴えた。初日舞台挨拶が映画のために用意された場であることを考えれば、それは興行の慣習として異例というか、かなりきわどい行為だったはずだ。

 ドラマ版の『夫のカノジョ』は、原作小説に比べれば、より規模の大きな視聴者に馴染むよう、そのメッセージ性を弱めている。引用した魔女のセリフドラマでは別の言い回しになっているし、川口春奈が演じる20歳の非正規雇用女性、山岸星見が母子家庭の貧困の中で育ったという設定も、キャリアマザーと娘の軋轢に置き換えられている。しかも視聴率の低迷によって放送は短縮され、放送は8話で最終回となった。

 脚本の調整で2人が元に戻るところまでは形にできたとは言え、ドラマが放送途中に短縮されてしまえばクライマックスで語るはずのメッセージが膨大にこぼれ落ちてしまったことは想像に難くない。だが、渡辺えりと鈴木砂羽という、女性表現において日本の俳優界で重要な意味を持つ2人の名女優とともに演じたこのドラマを、川口春奈は本当に愛していた。

 2014年に刊行されたフォトエッセイのインタビューの中で、ドラマについて彼女は「キャストスタッフの方々も必死に頑張っていて、みんなが胸を張って仕事をしているのに、なかなか結果に結びつかないこともあって…(中略)でも、たとえ上手く行かなかったとしても、まわりに惑わされず、誇りを持って、自分に与えられた役割を最後までやり遂げることが大事なんだ、と思うようになりました。この間監督とも話したんです。『もしチャンスがあったら、絶対にリベンジしよう!』って」と語っている。

不運や消したい過去ではなく、「誇り」

 雑誌『ニコラ』の読者モデルから出発してポカリスエットのCMで話題となった当時の川口春奈ポジションからして、新人女優の売り出しの定石通りに同世代の人気男子アイドルとの恋愛ドラマを選べば手堅い数字を残せただろう。だが18歳川口春奈は、後の大河ドラマいだてん』の視聴者キャストメディアに何を書かれても宮藤官九郎を信じ続けたように、『夫のカノジョ』という作品の価値を心から信じていた。インタビューで語った通り、彼女にとってそれは不運や消したい過去ではなく、「誇り」として今も胸の中にある。

 女優としての川口春奈は、その後も何かにリベンジするように挑戦的なキャリアを重ねる。『夫のカノジョ』の翌年には、前田司郎の戯曲『生きてるものはいないのか』に青山円形劇場で主演。群像不条理劇とも言われる前衛的な内容で、通常なら19歳のアイドル女優が挑戦する舞台ではない。彼女の当時のブログは、千穐楽の日にこう書き残されている。

「どんな感想を持たれても どう思われようと
人生で初めてチャレンジした舞台であることは間違いないので
とても大事な経験、作品になりました。
とても新鮮で自分の欠けてるものや 苦手なことも少し分かった気がしました。
全力で挑んで 前田組のみんなと1ヶ月以上いれたことがとてもとても幸せで
本当に感謝しています!」

 自分より強く大きな相手、困難な役に挑むように、川口春奈はキャリアを重ねてきた。彼女の同世代の女優の層は厚い。1995年生まれだけでも土屋太鳳川栄李奈、奈緒、そして松岡茉優がいる。ひとつ上の1994年生まれには二階堂ふみ清野菜名広瀬アリス。外から見れば「黄金世代」だが、中にあるのは激しい競争だ。

 川口春奈は女優として小器用なタイプではない。若くして天才と呼ばれ演劇賞や映画賞を受賞したり、有名映画監督のミューズとして寵愛された経験も彼女にはない。ただ真っ正直に自分のすべてを差し出し、打たれることを恐れないボクサーのように正面から役にぶつかっていくタイプの女優だ。

 それでも強力なライバルたちの中、いつか演技で、実力で認められる存在になりたいという願いが、同じ事務所菅野美穂を憧れの存在に上げ続ける川口春奈には一貫してあるように思える。

大事な人とは誰のことなのか

 川口春奈が19歳だった2014年の舞台「生きてるものはいないのか」千穐楽10月29日の2日後、10月31日ブログは「大事な人に。」と題されている。

「大事な人へ お祈りを捧げてきました。
こうして今わたしがいること。 頑張れてること。
すべてに感謝して 想い続けました。
益々頑張っていかなければ。」

 それ以上の説明はない。文章に添えられた写真には、水辺のような場所で祈るように水面を見つめる川口春奈の横顔が撮影されている。

 2014年にこのブログが書かれた当時、それが何を意味するのか、大事な人とは誰のことなのか、舞台の千秋楽を待つように彼女がどこに駆けつけたのか分かったファンはほとんどいなかったのかもしれない。コメント欄には戸惑いつつ、彼女を応援する声が並んでいる。川口春奈が19歳の当時、彼女が生まれた五島列島の福江島で、彼女の父が亡くなったことが明かされるのはそれから何年も後のことである。

 ジャイアントキリング、という言葉がスポーツの世界にある。映画『ロッキー』に代表される、無名のボクサーが世界チャンピオンに挑戦するような大番狂わせを指す言葉だ。本能寺の変織田信長を討った明智光秀は、日本史上に残るジャイアントキリング、巨人殺しを成し遂げたと言えるだろう。新型コロナ感染症による撮影中断まで、大河ドラマ麒麟がくる』が語ろうとしていたのは、「暴君と知性」をめぐる物語である。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の歌を引くまでもなく、圧倒的な力で天下統一を成し遂げようとした織田信長は、日本史において力の象徴だ。中断前の最後の放送で、染谷翔太演じる織田信長長谷川博己演じる明智光秀に「父は自分を決して認めなかった、帰蝶は母親のように何をしても自分を褒める」と寂しげに呟く。それは織田信長という絶対君主が、全否定や全肯定ではなく、知性によって是々非々に自分を律する家臣を求める場面である。

 近現代史をテーマにした『いだてん』が優れた現代への批評を見せた後、『麒麟がくる』は定番の時代劇に戻るのではなく、歴史の中で知性は暴君に対しどう行動するか、という現代的テーマを、国内外で次々と「暴君」が生まれ支持を広げる時代に描こうとしている。

自分を証明するジャイアントキリングチャンス

 信長の妻、帰蝶には歴史的資料がほとんどない。どのような女性で何をなしたか、絶対権力者の最も近い場所にいた女性として何を考えていたのか、裏を返せばそれはそのまま作り手の帰蝶観、女性観が出るということでもある。

 沢尻エリカの代役として帰蝶役をNHKが探し始めた時、川口春奈はほとんど躊躇なくそれを受けた。沢尻エリカという名女優の代役にかかるプレッシャーは大きい。沢尻エリカには今も、彼女の復帰を待つ多くの映画ファンドラマファンがいる。世間の好感度にも、アイドル的な品行方正さにも頼ることなく、演技の実力で国を越えアジア広域にファンを持つ沢尻エリカは、ある意味ではこの国の芸能界で「天下布武」を成し遂げた女優、力で自由を勝ち取ったひとつの希望の形だった。

 不死鳥のように三たび蘇る沢尻エリカが見たい、彼女の代わりはどこにもいないと願う人々は今も多い。だがあえて言えば、川口春奈がずっと認められたいと願ってきたのは、まさにそうした人々なのではないか。

 映画『ロッキー』の中で、主人公ロッキーが試合の前の夜にエイドリアンに呟く有名なシーンがある。

「俺は今まで何者でもなかった。負けたって構わない。頭を叩き割られたっていい、でももし試合の最後まで立っていられたら、自分がただのゴロツキじゃないことを初めて自分に証明できる」

 たぶん川口春奈は、ロッキーが自分を証明するように、いつか自分がただの可愛い女の子ではないと証明できる瞬間を待ち続けてきたのだと思う。初主演のドラマを選んだ時も、19歳で難解な不条理演劇に挑んだ時も、いつも彼女は与えられる可愛らしい役ではなく、今の自分の器を超えるような役が欲しいともがき続けてきた。帰蝶役に迷わず手を挙げたのは、それがまさに沢尻エリカが演じるような役であり、偉大なチャンピオンへの挑戦権だったからではなかったか。

 まともに大河ドラマオーディションを受ければ「彼女は若すぎる」「この役に川口春奈ミスキャストだよ」と言われるような帰蝶役への挑戦、それは川口春奈がずっと待ち続けた、自分を証明するジャイアントキリングチャンスだったのだと思う。

大河ドラマ麒麟がくる』の放送再開

 8月30日大河ドラマ麒麟がくる』は放送を再開する。日本史上知らぬもののない神殺しジャイアントキリングの物語が再び動き始める。川口春奈がこの試合の最後まで立っていられるか、それはまだ誰にもわからない。通常でさえ厳しい撮影スケジュールに生じた膨大なタイムロスがどう内容に響くのか、感染症はどこまで広がるのか。

 通常のドラマとは比較にならないほど多くのスタッフと出演者が集まる大河ドラマで、その感染リスクはさらに累乗される。本来書かれるはずだった帰蝶のシーンが調整のためにカットされる可能性もある。あるいはかつての初主演のドラマと同じように、この大河ドラマが感染症による再度の撮影中断で途中で打ち切られる可能性さえ否定できない。

 だがその挑戦がどのような結果に終わるとしても、『夫のカノジョ』で山岸星見を演じた18歳川口春奈が今も胸を張り、誇りを持って25歳の彼女の中に立っているように、この先も彼女が目の高さに拳を構えてファイティングポーズをとる限り、帰蝶を演じる25歳の川口春奈もまた敗れ去ることはないのだろう。大河ドラマの代役が決定した2019年末、インスタグラム川口春奈が書いた言葉がある。

「職業柄、日々いろんな声が聞こえてきますが、全く私には刺さりません。私にしかできないこと、私にしかないストロンポイント。大切な人の言葉に耳を傾け、自分を信じてやるのみです」

 拳に強くバンデージを巻き、マウスピースを深く噛んだボクサーが自分に言い聞かせるようなその言葉は、川口春奈の中に今も響いているはずだ。

映画館のない美しい島まで

 川口春奈が開設したYouTubeチャンネルは、初回から100万人以上の視聴者を集めた。その第2回の放送で彼女が選んだのは、故郷の福江島の訪問だった。2014年のフォトエッセイの中で彼女は自分が生まれた島について「カラオケボックスは中学の時に初めてできた。映画館は今もないと思う」と語っている。

 映画館のない島に生まれた女の子がどのようにして海を越えて映画に出演する女優になったのか、18歳の時に打ち切られた主演ドラマで本当は何を人々に伝えるはずだったのか、なぜ癖のある芯の強い女性の役を好むのか、いつか川口春奈ゆっくりと話し始める日がくるのかもしれない。だがその前に、彼女には大きな試合が待っている。

 ネットを見ると2019年には「映画館のない福江島で映画上映会をしよう」というクラウドファンディングが行われているから、きっと彼女の島には今も映画館はないのだろう。テレビ放送も東京キー局と同じ番組はおそらく入らない。

 だが、この国の外まで届くと言われるNHKの電波だけは別だ。日本でも最も広い範囲を持つNHKの放送網は、大河ドラマという川口春奈の挑戦、彼女が人生を賭けたビッグマッチの中継をその島にも運ぶだろう。彼女が生まれて育ち、そして今も家族が暮らし父親が静かに眠る、映画館のない美しい島まで。

(CDB)

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