三浦市の立札の奥に南無阿弥陀仏と彫られた石碑があります。

漢文は得意ではありませんが、テキトーに読み下すと「願を以て功徳を平等に施し「一」功を同じ 菩提心を発し 安楽国に往生す」ってな感じでせうか。しかし、何の石碑でしょ?

裏側には「天保九 戌 成巌 十劫寺 二月廿日 進誉代 建立」と読めます。

十劫寺に行きます。右に銀杏(イチョウ)の大木があります。三浦市の保護樹木になっています。

静かな境内。端正な本堂があります。会釈して筆者はここで引き返しました。

十劫寺の大銀杏の脇、槇の古木の根元にマカセ由緒という札がありました。江戸時代、北上する鰯を追って紀州下津浦から多くの漁師が移り住みました。彼等はマカセ網を使って漁をしたので地元民からマカセと呼ばれたのでした。彼等の墓六基が置かれていました。

残念ながら文字はほとんど読めませんでした。一番右の「安永三」が辛うじて読めます。安永三年(1774年)だとすれば杉田玄白が「解体新書」を刊行した年です。真ん中はおそらく元文(1736-1741年)、暴れん坊将軍八代将軍徳川吉宗の時代です。左は宝暦(1751-1764年)と思われます。いずれにしても200年以上経っています。

三浦海岸駅の方に戻ります。

古い「氷」という看板がありました。夏はかき氷でも売っていたのでしょうか。小学校にあがる前、まだ電気ではなく大きな氷を入れる木製の冷蔵庫が祖父の家にあったことを思い出しました。夏などほぼ毎日氷屋さんがリヤカーに積んだ大きな氷をノコギリで切り出して届けてくれていました。夜中など氷が溶けて滴る音が聞こえました。もちろんエアコンなんて無い時代です。蚊帳(かや)と蚊取り線香の夏でした。

氷屋さんの前に十劫寺さんが管理する岩井口閻魔堂がありました。由緒などは分かりません。閻魔様は日本では古来、地蔵菩薩の仮の姿とされてきました。いわゆる本地垂迹説です。

閻魔堂の右にお地蔵様が鎮座されていました。岩船地蔵尊と呼ばれるとても珍しい船に乗ったお地蔵様です。その昔、漁師が沖で時化(しけ)に遭いあわや沈没という危機に瀕した時、日頃から信心している地蔵尊に祈ったところ無事に帰ることができました。感謝した漁師は舟に乗る地蔵様を建立し祀ったということです。

お地蔵様の横には庚申塔が並んでいました。青面金剛と三猿です。

見ざる、聞かざる、言わざるという三猿の起源は未詳ですが中国経由で日本に伝わった様です。

天台宗は比叡山の鎮護社である日吉大社と深い関係があって日吉大社を本尊とする山王信仰の神使い(眷属)が猿であることから庚申信仰と習合した結果と言われています。

こうして三猿は庚申信仰の伝播と共に近世以降広く用いられる様になります。主尊の青面金剛を刻んだ足下に三猿が添えられます。三猿や猿だけの庚申塔も多く見かけます。

三浦海岸を眺めながら駅に戻ります。終点の三崎口に向かいます。

【駅ぶら03】京浜急行154 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)