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(文+写真:船尾 修/写真家)

 ≪かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらった後で、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。≫

 という書き出しではじまる『アカシヤの大連』は、満洲・大連生まれの詩人で作家の清岡卓行の私小説だ。彼はこの初めての小説で1970年昭和45年)度の芥川賞を受賞している。

 1922年(大正11年)に日本の租借地である大連で生まれた清岡は大連一中を卒業すると単身日本へ渡り、東京帝国大学仏文科に進む。しかし戦争が激しさを増した1945年昭和20年)春の東京大空襲の直後、実家のある大連へ戻った。

 ≪大連の五月は、彼にとって五年ぶりのものであったが、こんなに素晴らしいものであったのかと、幼年時代や少年時代には意識してなかったその美しさに、彼はほとんど驚いていた。≫

 10万人が死亡し、100万人が罹災したといわれる3月10日東京大空襲。食料はとっくの昔に配給制となっており、清岡に限らず都会に暮らす人たちはみな飢えていた。しかし大連へ戻ってくると、拍子抜けするほどそこには戦争の影などなく、喉から手が出るほど欲した米や肉や卵など食べるものはなんでも手に入った。酒も煙草も入手に困らない別天地だった。彼は毎日、昼ごろに起き、アカシヤの花の甘く芳しい香りを嗅ぎながら散歩し、6畳の自室にこもってレコードを聴いたり読書をしたりしてゆったりと過ごした。

宙ぶらりんの存在だった大連

 ただ、自分が何者であるのかという問いはずっと心の内に澱のように溜まっていた。戦後、清岡が文学の道へと進んだのは、おそらくその問いから彼自身が逃れられなかったからではないだろうか。それは、植民地が自分の故郷であるということへの葛藤である。

 ≪彼は、自分が日本の植民地である大連の一角にふるさとを感じているということに、なぜか引け目を覚えていた。・・・自分が大連の町に切なく感じているものは、主観的にはどんなに〔真実のふるさと〕であるとしても、客観的には〔にせのふるさと〕ということになるのかもしれないと思った。≫

 大連は日本の租借地であった。日露戦争後の1905年(明治38年)にロシアの権益を引き継ぐ形で清国から租借地として譲り受けることになったのである。大連を含む地域は、関東都督府、関東州、関東局(関東庁)と名称を変えながらも、その後、実質的な日本の植民地として発展していくことになる。

 1932年昭和7年)に満洲国が建国されると、そのときにはすでに清朝が滅亡していたこともあり、租借先は清国から満洲国へと改定された。つまりこの時期になると、大連のある関東州は日本が租借していたけれども、法的には本来は満洲国に属していたことになる。

 その満洲国において全権を握ったのは関東軍司令官であるが、関東軍司令官は関東州(庁)長官をも兼務することになっていた。こうして関東州はいつのまにか満洲国の一部のような扱いに変更されてしまったのである。日満一体化という流れの中で、関東州最大の都市である大連はまさに日本と満洲国をつなぐ媒体のような位置づけだった。

 日本でもなければ、満洲国でもない。朝鮮や台湾のように日本の植民地でもない。そうした宙ぶらりんの存在が、関東州であり、大連であったといえる。清岡の抱える葛藤は、大連生まれである自分の故郷はいったい日本なのか満洲なのか定義できない根無し草のようなあやふやさに端を発していたと推測されるのである。

 実際のところ、満洲国には国籍を規定する法律がなかった。五族協和が掲げられ、満洲人、漢人、蒙古人、朝鮮人、そして日本人が混じり合いながらも、彼らは「満州国人」ではなかった。本連載の「(5)溥儀が信じた偽りの復辟」でもすでに触れたことだが、満洲国が国家としての完成度は低かったとわたしが論じたのは、この国籍の問題もおおいに関係している。

 なぜ満洲国では国籍法がつくられなかったのだろうか。それは日本の国籍法が関係している。日本は二重国籍を認めていないから、そうするともし満洲国の国籍を選べばその人は日本国籍を失ってしまう。国際的に信用度の低い満州国人にわざわざ国籍を変更する日本人はほとんどいないだろう。

 満洲国には日本の省庁からたくさんの官僚が派遣されていたが、そうすると国籍という点で問題が表面化してしまう。満洲国が日本の傀儡国家であるがゆえに、国籍法を制定しまうと大きな矛盾が生まれてしまうのである。

「五族協和」「王道楽土」が満洲国をあらわすキャッチフレーズであり、日本人の多くはその言葉を信じ、疲弊する自分たちの暮らしをなんとか打破し、輝く未来への軌跡の先に満洲という存在を夢見たはずだ。日本政府も1936年昭和11年)に「満洲開拓移民推進計画」を閣議決定して、20年間で500万人の日本人を移民させる計画を立てた。

 私は思うのだが、「よし、満洲で一旗あげるぞ!」と意気込んで満洲へ渡った人たちのうちいったいどれぐらいの人たちが世界の中での満洲の位置づけを正確に把握していたのだろうか。彼らにとって満洲という地は果たして外国であったのか、それとも日本であったのか。

「大連は夢の都」と公言した井上ひさし

 清岡の父親は満鉄の技師であった。彼が東京から大連の実家に戻ってきたとき、父親はすでに満鉄を退職しており、庭で植木いじりなどをしたり近所の人と碁や将棋をうったりと余生を楽しんでいた。自らが志望して満鉄に入ったのか、どこからか派遣されたのかはわからないが、父親は戦争の激しさが増すばかりの日本へ戻るつもりはなかったらしい。母親は召集されて戦地に赴いた清岡のふたりの兄のために毎日神棚に祈り、戦争を心から憎悪していたという。

 もちろん百人いれば百通りの人生があるように、一概には決めつけることはできないが、清岡の家庭は大連という街の中でごく平均的な日本人の典型ではなかったかと思う。

 多くの日本人にとって大連という街は、都市計画に基づいた美しく頑強な洋風建築が建ち並び、水洗トイレや電話の自動交換機などまだ日本国内で整備されていないインフラがふつうにあるという先進都市であった。大連港は自由貿易港であるため外国製品が安価に購入できる。満洲を貫く鉄道、とりわけ超特急あじあ号の起点であり、ヨーロッパとも往来が可能だ。野心家たちにとってはまさに夢のような都であったことだろう。もし私がこの時代に生きていたならば、やはり同じように夢と希望を求めて大陸へ渡ったような気がする。

 小説家で劇作家の井上ひさしは大連生まれでもなければ、戦前の大連に滞在したこともないが、「大連は夢の都」と公言し、終戦前後の大連を舞台にした戯曲を何本も書いた。その代表的なものに、『連鎖街の人々』と『円生と志ん生』がある。これらの戯曲を書くために、井上は戦前の大連の写真や絵葉書を大量に蒐集して、『井上ひさしの大連』という本までまとめている。

 いったい大連の何が井上をそこまで駆り立てたのだろうか。単にノスタルジーを感じたためなのだろうか。『連鎖街の人々』ではソ連侵攻後の大連に暮らす人々の日常を描いていることから、おそらく短期間の間に日本人の手によって建設された「夢の先進都市」が戦争という歴史の大波に飲み込まれるように崩壊していくその「物語性」に強く惹かれたのではないかと私は推察している。滅びの美学というやつだろうか。

『円生と志ん生』の円生とは六代目三遊亭圓生のことであり、志ん生とは五代目古今亭志ん生のことである。ふたりとも実在の落語家だ。ふたりは満洲演芸協会の仕事で満洲へ赴いたものの、途中で終戦を迎えることになり日本へ帰国できなくなってしまった。当地で演芸会などを催しながら食いつなぎ、結局満洲では2年間を過ごすことになったのである。

 連鎖街というのは大連駅のすぐ近くにつくられた今でいうショッピングセンターで、連鎖商店街ともいい、約200店舗が軒を連ねた。1930年昭和5年)にオープンし、道路に面して全面ガラス張りのショーウィンドウや、雨の日でも買い物ができるように天窓に明かり取りがついたアーケードがあった。

 当時は銀座や心斎橋などでもそのような店はまだ少なく、まさに国際都市・先進都市・大連の名に恥じないものであった。設計は中村與資平(よしへい)の弟子である宗像主一である。中村與資平は明治から昭和にかけて活躍した日本を代表する建築家のひとりで、朝鮮や満洲においても銀行や公共機関など多数の建築を手がけた。

都市対抗野球を席巻した大連チーム

 戦前の大連ではスポーツも盛んで、そのなかでも市民が最も熱狂したのは野球である。大連には、満鉄社員を中心にした「大連満洲倶楽部」と、その他の会社に所属している「大連実業団」という社会人野球の二強があり、両チームの対戦は「満洲の早慶戦」とも呼ばれた。

 現在の都市対抗野球大会が始まったのは戦前の1927年昭和2年)のことだが、その記念すべき第1回大会では大連満洲倶楽部が優勝した。そして第2回大会は大連実業団が、第3回大会は再び大連満洲倶楽部が優勝したのである。両チームとも終戦によって消滅したが、それまで優勝3回、準優勝3回は満洲のチームによって成し遂げられた。

 大連満洲倶楽部は満鉄社員で構成されていた関係で、東京六大学などから有望な選手を獲得しやすかった。というのは、当時の満鉄といえば高給取りの代名詞だったからである。単に月給が高いだけでなく、遠隔地手当が充実し、住宅も提供されるなど、日本の企業としては破格の待遇であった。国策企業ではあるのだが、鉄道以外の多方面に事業を展開しており、文化活動やスポーツの振興にも力を入れていた。

 その後、1936年昭和11年)に現在のプロ野球の前身となる日本職業野球連盟が発足してからは優秀な選手はプロに流れるようになり、また戦況が悪化するにつれ満鉄社員も召集されるようになったために、大連満洲倶楽部もよい成績を残すことができなくなっていく。

 余談だが、作家の清岡卓行は大の野球ファンであった。特に田部武雄という俊足の選手がお気に入りだった。そのため清岡は父の会社である満鉄を応援するのではなく、田部が所属していた大連実業団を応援していた。田部はその後、草創期の巨人軍に入団し、背番号1と3をつけた。ちなみに永久欠番になっている長嶋茂雄背番号3を最初につけた選手が田部である。

 多くの日本人が憧れた国際都市にして先進都市の大連。終戦時には約60万人の人口のうち20万人を日本人が占めたといわれている。しかし、その栄華が永久に続くことはなかった。

 ≪戦争中におけるこれらの安楽について、その代償を支払うかのように、大連にいた日本人たちは、やがて敗戦後の引き揚げについて、財産や職業のほとんどすべてを無残にも失わなければならなくなるのである。≫

 清岡は小説の中でそう記している。井上ひさしが表現した「夢の都の大連」という言葉の真意は、もしかしたら「はかない夢・大連」という意味だったのかもしれない。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  戦後75年・蘇る満洲国(6)満鉄本社が置かれた大連

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1937年(昭和12年)に竣工した三越百貨店大連支店は大連駅からも近い連鎖街とは道路を挟んだ向かい側の旧常磐町にある。三越はよく知られているように日本の百貨店の元祖。5階建てで4階はレストランになっていた。戦後はソ連軍に接収された後に大連市に返還され、ロシア系の百貨店である秋林(チューリン)女店として使われたが、2016年にZARAという店舗に変わった。 拡大画像表示