2020年9月上旬に下北沢・本多劇場で上演されたKAKUTA『ひとよ』(作・演出:桑原裕子、出演:渡辺えり、他)が、9月19日(土)から9月22日(火祝)まで、イープラスのStreaming+にて配信される。大いに評判を呼んだ劇場公演だっただけに、見逃した人にとって配信は、このうえない朗報といえるだろう。SPICEは、この作品について、KAKUTA代表の成清正紀、作・演出の桑原裕子に話を聞いた。

 

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

「母ちゃん、誇らしいんだよ」

包帯や絆創膏にまみれた子どもたち、息子2人と娘を前に毅然とした態度で演説する母親・こはるの顔は晴れ晴れとしていた。そんな姿からは世話焼きで、大らかで、優しくて、強くて、辛抱強いといった彼女のキャラクターが一瞬で伝わってくる。彼女は、家族に暴力を振るい続けたDV夫を夫婦で経営してきたタクシー会社のガレージで轢き殺したと語り出す。唖然呆然とする子どもたちを前に話を続ける。その死を悲しむであろう夫の両親が亡くなるまで、子どもたちがある程度一人前になるまで待ったこと、そして家のこと、会社のこと、子どもたちのこれからの生活のこと、すべてが準備されているらしい。つまり、それらは家族がどんなに長い時間、我慢を強いられてきたかが想像できる。衝撃の幕開け、いきなり重すぎる展開にも、客席には「よく頑張った」「彼女を助けてあげたい」という空気が流れてはいなかっただろうか。しかし、こはるは15年後に戻ってくると告げて、警察に出頭していく――。

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

昨年秋、白石和彌監督により話題を呼んだ映画「ひとよ」の原作となった、劇団「KAKUTA」の同タイトルの舞台。2011年10月の初演から、これが3度目の公演になるという。過去の上演と異なるのは、家族の大黒柱を思わせる、あるいは暴風雨を巻き起こす台風の目のような母親役に、渡辺えりを迎えたこと。

この夏、渡辺えり率いるおふぃす3○○では「女々しき力プロジェクト」と題し、本多劇場や座・高円寺などで女性劇作家・演出家が率いる劇団の公演を連続上演する予定だった。しかし新型コロナウイルスの感染拡大で、止むを得ず企画変更。本来ならKAKUTAの桑原裕子がおふぃす3○○の『鯨よ! 私の手に乗れ』に、渡辺はKAKUTA『ひとよ』に交換出演するはずだった。それでも「女々しき力」で押さえていたスケジュールの後半に、会場もより広い本多劇場に移って、『ひとよ』は実現した。

KAKUTA代表の成清正紀いわく「劇団員とは毎日話し合って、すごく考えました。いつも通りの公演をやろうというのが、一つの目標になりました」

成清正紀  (撮影:高橋定敬)

成清正紀  (撮影:高橋定敬)


 

■渡辺えりの目の奥からの芝居を、劇団員にも体験してほしかった

「私は2017年に『鯨よ! 私の手に乗れ』に呼んでいただいて、もともと大ファンだったこともあるんですけど、舞台上でえりさんと目線を交わし、目の奥から届いてくる感情を受け取れる喜びが計り知れなかったんです。正直、えりさんを劇団にお呼びするなんてまだまだ畏れ多いんですけど、もう一回共演したいという私の欲望と、劇団員にえりさんと芝居する経験を味わってほしいという欲望が勝ってお願いしました。えりさんの目の奥の芝居を体験すると、こちらも心底からその気になるし、夢中になるんですよね。本当に唯一無二の存在ですから、私たちは幸せな体験しています」と客演をお願いした意図を語る桑原。

桑原裕子  (撮影:高橋定敬)

桑原裕子  (撮影:高橋定敬)

出所後、家に戻らずに北海道に向かったこはるが出会ったヒッピー風の酪農家、楽天家の吉永を演じる成清もまた「えりさんの目が合った瞬間に、本当に開放されていて、さまざまな感情のやりとりをしているのをすごく感じるんですけど、それってほかの役者さんでは味わえないものなんですよ」と言う。吉永は東京まで付いてきて、こはるが“生きること”を支える存在だ。

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)


 

■震災後に、ある出来事で日常を奪われた家族を描こうと思った

果たして、こはるは自宅へ戻ってくる。タクシー会社は個性的な社員たちばかりだったが、それなりに好調だった。明るく迎えてくれる社員たち。しかし彼女は浦島太郎だった。結婚したもののうだつの上がらない吃音の長男・大樹、ライターを目指して東京に出たものの挫折して故郷に戻ってきた次男・雄二、バー勤めで毎日のように酔っ払って帰ってくる長女・園子。子どもたちのために夫を殺めたはずだったが、それは当然のように彼らを苦しめていた。

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

「この戯曲を書いたのは2011年の夏。震災後もしばらくは忙しくしていたんですが、いざ現実に向き合って新作を書こうとしたら何も浮かばないんです。買い物にいくシーンを描きたくても、前提とする日常がなくなってしまっていたから。それなら日常を奪われた人たちのことを書こう、家族にとっては震災と同じくらい大きな、ひと夜で状況がガラッと変わってしまうような出来事について書こう、と思ったんです。そのころ社会は復興へ動き出していて、声高に絆、信頼などが叫ばれているのに、私の感情はまったく追いついていなかった。社会がいつ以前のように歩み出せるのかもわからない。どうしたら本当の再生に向かえるのかを自分自身に問おうと思った戯曲でもあります。こはるが家に戻るのを15年後に設定したのは、表面上は日常が戻っていても、自分の不安定な気持ちや闇の中にいる感覚が残っている時間として。家族の人生が取り戻せないくらい変わってしまっていたとしたら、何もかも取り戻そうと帰ってきた彼女はどう思ったのかを描きたかったんです」(桑原)

(左)成清正紀 (右)桑原裕子  (撮影:高橋定敬)

(左)成清正紀 (右)桑原裕子  (撮影:高橋定敬)

物語は、家族たちは必死であっても、端から見ればバカバカしい姿として面白おかしく展開していく。しかし劇中に散りばめられた、あらゆる家族の痛みや悲しみは誰もが共有できるものばかり。会社の社員たちが抱える家庭問題を通して、こはると観客とともに、子どもたちに降って湧いた悲しみや痛みを追体験していく。かくも重すぎる15年間を。

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)


 

■互いが互いを思いやることで人びとは再生していくもの

丁寧に積み重ねられ、伏線を回収していった芝居は、すべてを吐き出した子どもたちが内に抱えていたわだかまりを溶解させ、未来に踏み出すエンディングを迎えるかのように見えた。しかし最後の最後に、こはるは慟哭する。

「子どもたちは、ようやく前を向いて歩き始められる糸口が見え始めたエンディングなんですけど、母親はこのときようやく絶望の淵に立つ。何もかも取り戻せると思って帰ってきたのに、子どもが小さいころに負った指のケガさえ治せていない、自分は何も取り戻せていないじゃないか、と自覚するんです。演出でえりさんにお願いしたのは、母親が泣き崩れる姿は9・11で倒壊したワールドトレードセンターだと思ってほしいとお伝えしました。体の中に飛行機が突っ込んでいて、それでも形としては保っていたけれど、ある瞬間に何もかもが崩れて壊れてしまう感覚で泣き崩れてほしい、ということでした。でも母親って子どもに対してそのくらいの思いを持っているものじゃないでしょうか」(桑原)

ほんの少し前に、柔らかい笑顔を取り戻した子どもたちの顔は再び唖然呆然としている。観客も含め、誰もが再び重いものを背負ったような気持ちになったのではないか。しかしそれは、今度こそ、いろんな大事なものを本当に取り戻すための時間が始まるようでもあった。

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

KAKUTA『ひとよ』  (撮影:相川博昭)

この作品を今、上演できたことの意味について、桑原はこんなふうに語った。

「コロナが大変だというよりも、コロナによって人と人の分断がより深く、細かくなっている状況がありますよね。自分と意見が違う人とは敵対してしまう。かつては意見が違っても認め合っている形がもう少しあったんだけれど。それは政治的なことだけではなくて、いろんな場面で言えることであり、わかり合うことにものすごく不寛容になっている気がします。この作品で届けたいことの一つは、ある意味、原点回帰。分断はいかに寂しいことか。人は大かれ少なかれ助け合って、互いが互いを思いやることで悲劇を乗り越えて、支え合って再生していくもの。今年に上演できたということはすごく意味があったと思います」

桑原の戯曲や演出、それに応える俳優たち。KAKUTAの総合力、劇団力は頼もしい。それはこの公演を実現させたことで改めて証明したように思う。同時に劇団という組織をどこまでも信じている彼らの特権ではないか。そして、演劇を、劇団をずっと信じている渡辺えりがそこに相乗効果をもたらしたよう。

9・11東日本大震災新型コロナウイルスという困難を内包した家族の物語は、それでも新たな一歩を踏み出す素晴らしさを伝えてくれていた。

(左)桑原裕子 (右)成清正紀  (撮影:高橋定敬)

(左)桑原裕子 (右)成清正紀  (撮影:高橋定敬)

取材・文=いまいこういち

(左)桑原裕子 (右)成清正紀