(鵜飼 秀徳:ジャーナリスト、一般社団法人良いお寺研究会代表理事)

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 京都には京セラ任天堂、オムロン、村田製作所、ローム、日本電産など名だたる大企業が存在する。創業100年を超える企業も少なくない。帝国データバンクの調査では、京都における創業100周年を超える「老舗企業」は1403社(2018年11月時点)。全体に占める老舗企業の割合は4.73%(全国平均2.27%)だ。これは、全都道府県の中でトップである。
 
 例えば、東京にも進出した百年超企業では、和菓子の虎屋、和文具・線香の鳩居堂、陶磁器のたち吉、呉服商の大丸百貨店などがある。花札やトランプ製造に端を発する任天堂も1889(明治22)年の創業で、2019年に創業130周年を迎えた。こうした京都の老舗企業から学ぶとするならば、業態をさほど変えない「保守的経営」こそが、組織を長持ちさせる永続のカギかもしれない。

 だが、京都にありながらこの百年超企業は、異色中の異色といえる。島津製作所だ。島津製作所の創業は任天堂よりも古い1875(明治8)年である(前身の店はもっと古い)。

 島津製作所は連結売上高3854億円(2020年3月31日現在)、グループ社員数1万3200人を擁する精密機器メーカーだ。最近は新型コロナウイルスPCR検査試薬の発売で注目を集めた、最先端テクノロジーの会社である。

 だが、島津製作所の変遷は実に興味深い。とくに戦前は業態をカメレオンのように事業内容を七変化させ、それぞれが何の脈絡のなさそうな製品を数々生み出してきているのだ。現に、「えっ、これも島津製作所が最初なの?」という「日本初」の製品がいくつもある。

みんなが知らない島津製作所の「別の顔」

 製品だけではない。島津製作所から派生した企業は多い。自動車用バッテリー世界シェア2位のGSユアサ、塗料大手の大日本塗料、フォークリフトで世界3位の三菱ロジスネクストなどは島津製作所が前身企業だ。京セラや日本電産、村田製作所など売上高ベースで1兆円を超える巨大企業も、その創業時は島津製作所と何らかの協力関係をもってきたとされる。

 知られざる島津製作所の「別の顔」を紹介しよう。

 まず、島津製作所はもともとは仏具屋であったこと。江戸時代末期には、西本願寺門前に店を構えていた。島津が手がけた仏具はお寺に納める鳴り物や装飾具、仏壇などに備えられる香炉、花立て、蝋燭立てなどであった。

 仏具業はそれこそ、大寺院がひしめく京都にあって安定的なビジネスといえる。今でも大本山クラスの寺院の門前には、創業数百年といった仏具店が軒を並べている。

 ところが、過去に一度だけ仏具業全体が廃絶の危機に立たされた局面があった。明治維新である。それまで大切にしていた寺院や仏教的慣習を破壊する「廃仏毀釈」が吹き荒れたのだ。

 背景には、国家仏教から国家神道への切り替えにあった。神仏分離令という法律が出され、習合状態であった仏(寺院)と神(神社)を明確に切り分けよ、ということになって寺院が壊されたのだ。寺院が壊されるような時代では、仏具も不要になる。

「仏具はもうあかん。西洋鍛冶屋や」

 同時期、京都は禁門の変や鳥羽伏見の戦いによって、丸焼けになっていた。物価は高騰し、治安は悪化を極め、京都は深刻な政情不安に陥っていた。京都が荒廃する中、首都が東京に遷り、多くの人々が天皇の後を追って京都を去っていった。この時、先に紹介した和菓子の虎屋は東京に進出している。それを裏切りと捉えている京都人は多い。

 だが、島津製作所の創業者で、仏具職人だった島津源蔵(初代)は京都に残って復興の旗手となることを誓う。
 

 当時、京都府政は「教育施設の整備」を復興政策の最優先に掲げた。例えば、全国に先駆けて小学校が整備されたのが京都であった。新政府による学制発布は1872(明治4)年だが、京都ではその3年も前に64校も開校している。

 また、お雇い外国人を呼び寄せ、欧米の科学技術を教える機関「舎密局(せいみきょく)」などが開かれた。舎密局を通じて、西洋諸国から最新の理化学機器が我が国にもたらされたことは、初代源蔵の好奇心を大いに刺激した。小学校の整備にともなって学校の授業で使用される理化学機器の需要は高まりを見せ、源蔵もそこに商機を見出したのだ。

「お寺が学校に変わるのは時代の流れや。仏具はもうあかん。いまのうちに科学の知識を習得して、実験器具を手がけるんや。そうや、西洋鍛冶屋や――」

 時代の変化に飲み込まれるのではなく、それを逆手にとって推進力にしていく。そうして、島津源蔵は理化学機器の製造・修理を手がける島津製作所を創業するのである。

日本海海戦の「敵艦見ユ」を可能にした島津のバッテリー

 島津製作所は様々な発明・開発を成し遂げることになる。

 1877(明治10)年には日本で最初に人間を乗せた気球を揚げている。ライト兄弟が飛行機で有人飛行を成功させるのが1903(明治36)年だから、その四半世紀も前に島津製作所の技術で日本人が空を飛んでいたのである。

 明治期には、初代源蔵の息子である梅治郎(二代源蔵)によって、現代生活に欠かせないアイテムが開発、商業化されている。バッテリー(蓄電池)である。

 バッテリーを搭載する製品は、自動車やバイクはもちろん、ノートパソコン、スマートフォンなど、例を挙げればキリがない。近年は電気自動車が普及し出し、高性能バッテリーの需要は増している。

 バッテリーを世界で最初に発明したのはフランスの科学者、ガストン・プランテで1859(安政6)年のことであるが、プランテの原理を使って、日本で最初にバッテリーを開発したのが二代源蔵であった。

 このバッテリー開発が、島津製作所に大きな転機をもたらした。折しも、満州や朝鮮半島の権益を巡り、日露戦争に発展していた時期だったからだ。

 当時の主戦場は「海(軍艦)」。ロシアが誇る太平洋艦隊と、日本海軍連合艦隊はほぼ互角であった。そこで、大海原の中でいかに敵艦の情報をつかみ、先手を撃つか。情報戦略こそが戦局の明暗を分ける時代になっていた。そこで連合艦隊の無線の電源として搭載されたのが「島津のバッテリー」であった。

 日本海海戦において、連合艦隊司令長官東郷平八郎は「敵艦見ユ」(敵の艦隊が見えた)といち早く打電。迎え撃つ体制の連合艦隊は、常に風上にたって有利に戦いを進め、バルチック艦隊を撃滅させたのである。日露戦争における影の立役者が、島津製作所であったことはほとんど知られていない事実だ。
 
 このバッテリー事業はその後、日本電池の創業につながる。現在、クルマのバッテリーで世界シェア2位を誇るGSユアサの前身企業の1社である。

仏具屋の技術から生まれた「島津のマネキン」

 さらに島津製作所は当時、意外なものを手掛けていた。マネキンである。

 島津の源流は仏具業であることは先に述べた。そして、仏教関連産業が衰退し、教育用理化学機器の需要が高まる中で、人体模型が島津の手によって手掛けられていた。そこには仏具商時代の鋳物仏具という精緻なものづくり技術がベースにあった。それが西洋医学や学校における科学教育の発展とともに、人体模型という新たなる分野に昇華していったのだ。

 1909(明治42)年、二代源蔵はアメリカのシアトルで開催されたアラスカユーコン太平洋博覧会に人体模型を出品し、見事に大賞を受賞。そして1923(大正12)年9月に起きた関東大震災によって、人体模型事業は大きな画期を迎えることになる。

 震災後、日本は生活物資の国際支援を受けることになった。その中にアメリカから送られてきた大量の古着があった。その結果、洋服文化が一気に拡大していったのだ。

 そこで国内の繊維業界は堰を切ったように洋服製造に着手する。すると、販売促進用としてマネキンの需要も生まれた。島津製作所はいよいよ、自社製マネキン製造に打って出る決断をしたのだ。島津製作所は人体模型を基に改良に改良を重ね、ファイバー素材を用いたマネキン製造に成功する。この時、京人形にヒントを得たとされている。

「島津のマネキン」はその後、ワコールグループのマネキン会社、七彩などを誕生させる。国内マネキン企業25社のほとんどが島津製作所が関係していると言われている。「日本アパレルの祖」が島津製作所と言えば、言い過ぎだろうか。 

現代に息づく島津製作所のもの作り精神

 仏具、気球、バッテリーマネキン。すべてが、脈絡のないようで、源流では繋がっている。時代の潮流をつかみ、自由な発想に基づいて、新しいものに果敢に挑戦する。この島津のものづくりの精神は、現代にもしっかりと受け継がれてきている。

 それは、後に社員である田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞し、このコロナ禍においてはPCR検査試薬をいち早く開発、販売を実現させたこととも決して無縁ではないはずだ。

 詳しくは『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(鵜飼秀徳著、朝日新聞出版、1400円)をご覧いただければ幸いである。

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