体外受精などの生殖補助医療、出生前診断、遺伝子検査、臓器移植、再生医療、ゲノム編集、人体実験・動物実験、安楽死、遺体解剖・・・。先端医療の技術発展とともに私たちの生老病死のあり方は大きく変化している。

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 人の始まりは受精から何日目か、「マイゲノム」を知りたいか、人体実験は「学問の自由」か、老化防止は治療なのか──。こういった現代を生きる誰もが関係しているテーマは単純に黒か白かつけることが難しく、正しい答えがあるわけではない。何が問題なのか、何をどう考えて決めればいいのか。

「『倫理』という言葉は、押しつけがましく上から目線で好きではない」という著者が25のテーマについて「いのち」をめぐる問いかけと選択肢を示す。『先端医療と向き合う』(平凡社新書)を6月17日に上梓した橳島次郎(ぬでしまじろう)・生命倫理政策研究会共同代表に話を聞いた。(聞き手:長野光、シード・プランニング研究員)

たとえ命の始まりであってもいろいろやりたくなっちゃうのが人間

──体外受精などの生殖補助医療や着床前診断などの先端医療技術は、当初は人を助けるための切実な理由から使われましたが、次第に人間の欲望に応える目的に変わっているように見えます。この点はどうお考えでしょうか。

橳島:体外受精が開いた世界って、当初考えていたより影響がずっと大きくなったんです。最初は自然に子どもが持てない人たちのために、お腹の中で起こっている受精を手助けして体の外でやってあげましょう、と。あとはできた卵をお腹に戻して女性が産む、それだけのはずだったんです。

 でも、女性の体の奥深くで起こっていた人間の命の始まりを、体の外に出して見えるところ、手出しができるところに持ち出してしまった。目の前の体外受精胚は単なる細胞の塊に過ぎないのか、どの時点からが人間(命)なのか、という問題もあります。受精卵(胚)は不妊治療だけじゃなくて、発生学や再生医療の研究にも使われるようになる。新しい技術が新しい欲望を生み出す。すると、ただお金儲けしよう、長生きしようっていう欲望だけじゃなくて、例えば人間の命はどうやって始まるのか知りたいっていう、ただその研究のためだけに体外受精卵を使うというのも出てくる。

 また、体外受精卵の遺伝子や染色体を調べて、生まれてから病気や障害の伴わないものを選ぼうとする、着床前診断も普及するようになりました。さらに、遺伝子を操作して、病気の原因を取り除き、身体能力や知的能力を高めようという提案まで出てきました。

 よく話題になるゲノム編集は、それを可能にする技術として期待もされ、懸念もされています。それがたとえ命の始まりであっても、目の前に自由に手出しできる状態に置かれると、いろいろやりたくなっちゃうのが人間なんだなあ、と思います。そこで、何をどこまでやっていいかを考えなきゃいけなくなっちゃった、それが生命倫理ってことなんですね。

優生主義、優生政策の暗い歴史

──マイゲノムの調査、着床前診断、出生前のゲノム編集などは、命の状態や外形に差をつけて選別することを基本とし、おのずと優生思想に基づいた判断をくだすようになるのでは。

橳島:優生思想って言葉をあまり簡単に使わない方がいいと思うんです。早く走れるようになりたい、頭よくなりたい、かっこいい顔になりたい、そんなのを全部優生思想だっていったらキリがないわけです。あってはいけないのは、「特定の基準でこれがいい命だと決めて、それに合わない命は排除し、生まれてこないようにするよう、国や社会が組織的に実行する」ことだと思います。これは優生思想というより「優生主義、優生政策」と言うべきでしょうね。

 そうした主義、政策が、現に19世紀の終わりから20世紀の前半くらいまでの間に行われたんです。いい命を生まないと考えられた人たちを、強制的に断種するなんてことが行われた時代があるんです。当時の科学(優生学)の知見を根拠にしたという学者の提言を基に、国がそれを法律で決めて組織的にやった。だから従うしかなかったわけですね、みんなね。

 今の例でいうと、例えば、21トリソミーといって、本来は2本しかない21番染色体が3本あると、ダウン症を伴って生まれる。21トリソミーは、あらゆる人種でみな同じ割合で出てくるんです。

 ダウン症はいろいろな障害を伴うので、生まれる前に検査をして21番染色体が3本あると分かったら、どうするか。産もうとする人もいるし、諦めるしかないなと思う人もいる。そこで、諦めるしかないという人たちの思いを、命を選別する優生思想だといって非難し、攻撃するのはいかがなものでしょうか。逆に、どんな状態の子どもでも絶対産まなきゃいけないって社会が強制するようになったら、それはそれで住みにくい、望ましくない世の中になるのではないでしょうか。

生命倫理に正解はあるか?

橳島:日本で出生前診断が今以上に普及したら、命を選別する優生主義の社会になるかというと、実際のデータがないので分からないです。

 フランスでは法律でダウン症を理由に中絶したことをお医者さんが届け出なきゃいけないから、それが国全体でどれだけの件数になるか、公式の統計があります。しかし日本にはそういう法律はないので、統計もなく、どんな理由でどれだけの中絶が行われているか、分かりません。西洋社会ほど高い割合で中絶はしてないんじゃないかという産婦人科医もいるし、いやたくさん中絶してるよというお医者さんもいる。分かんないんです。

 私は、フランスのように日本もそういうデータをとってそれに基づいてちゃんと議論をした方がいいと考えていたんだけど、でも、当事者の人たちの思いとして、それは分からない方がいいんだ、という考え方もありかなとも思うようになりました。産む産まない、どちらにも偏らないようにするには、日本では全体としてどうなってるかは分からない方がいい。そういう考え方もあるのか、なるほどそれも一理あるな、と思います。

 出生前診断の結果、妊娠を続けるか諦めるかは、当事者一人一人がちゃんと説明を受けて自分で考えて決める、誰からも強制されない、経済的・社会的な差別の中に置かれてない、なかなか現実には難しいけれども、そういう条件が揃って初めてできることだ、というのが、今ギリギリ社会が認められる線だと思います。絶対産んじゃだめとか、絶対産まなきゃだめとか、どっちの強制にもならないように、ということです。

 生命倫理には正解がない。こういう考え方もある、こういう考え方もある、と一覧として問いかけを示し続ける。選べるようにする、強制しない、社会全体としてどっちかの偏った方向にならないようにする、一つに決めつけないのが一番大事だと考えています。

トランスヒューマニズムは危険思想か?

──トランスヒューマニズムという概念があります。テクノロジーで肉体をよりよいものに作り変えていくことを推奨する思想です。人類はサイボーグ化していくと予想されますか?

橳島:日本ではトランスヒューマニズムはあまり議論になっていませんが、アメリカとヨーロッパではトランスヒューマニズムを掲げる人たちの運動が少しずつ広がっています。それこそ優生思想をはるかに超えて、今の人間の状態を否定してもっとすごい人間にならなきゃいけない、というのがその基本思想です。トランスヒューマニズムっていうのは「ヒューマンをトランスする(超える)」という意味でつけられた名前なんです。

 トランスヒューマニズムは、老化や死といった人間が課されている自然の制約や制限を、技術を使って全部取っ払おうと考えます。脳の活動を電算データ化してシリコンチップアップロードして、アイアンマンみたいなボディに入れちゃうとか。長生きできるし、速く走れるし、病気もしないし、死にもしない「スーパーヒューマン」を技術の力を使って生み出して、不老不死を目指そう、それこそ人間があるべき姿だというものです。

 この人体改造の考え方、人間を機械に置き換えて不老不死を目指して、人間を人間じゃないものにしてしまおうとするような技術至上主義に対して、特にヨーロッパでは危険思想だという人たちもいます。人間というのは自然に与えられた肉体を持った存在であり、人間の尊厳はその血と肉を通じて他の人たちと関わるところにある、それが人間というものだ、と。

 そのあたりは水掛け論でね、そもそも人間が人間である根拠がどこにあるかっていうのはなかなか分からないじゃないですか。自然じゃないことをしちゃいけないといっても、すでに人間は今、自然じゃない生活をしている。

サイボーグや人工知能も人間として認めるべきか?

 人間の体の一部を機械に置き換える割合は増えていて、人工関節や心臓のペースメーカーは一般的によく普及してます。埋込型の人工心臓はあと20、30年たてば完全に普及して、心臓移植は必要なくなるでしょう。サイボーグという発想も、人間の体の中に酸素の循環装置を埋め込んで、外気を呼吸する肺を通じた酸素と二酸化炭素の交換をしないで済むように、もともと人間が宇宙に行くための技術として出てきたんです。

 アメリカのトランスヒューマニズム党では、アメリカの合衆国憲法の人権修正条項を模して、「トランスヒューマン人権宣言」を掲げています。ペットを家族の一員とし、高等哺乳類を人間のように扱うのと同じ感覚で、サイボーグや体を機械に置き換えた人間も人間だ、だから人権を認めろと。人間と同じ知的能力を持っている人工知能も人間として認めろ、という超近代的な人権宣言です。

 トランスヒューマニズムは、よく調べてみると、危険思想だと批判している人たちがいうような、人間を人間でないものにしてしまおう、という思想や運動ではないです。むしろ、人間でないとされてきたものをきちんと人間扱いしましょう、体を機械に置き換えた人たちが差別されないようにしましょう、最終的には人工知能を搭載した機械も人間扱いしましょう、という、「人間(ヒューマン)」の範囲を、科学技術の進展に合わせて、広げていきましょうという主張なのです。少なくとも、アメリカのトランスヒューマニズム党のトランスヒューマニズム人権宣言は、そうです。

 先端科学技術を用いた人間の改造を目指す思想は危険だとか、人間を人間でなくするような技術の使い方はいけないっていうのは、たしかに一つの歯止めになるかもしれない。でも人間の本質というのは機械に置き換えたらなくなっちゃうような簡単なものなのか。どれだけ機械に置き換えたとしても、人間は人間だっていうこともあるかもしれない。トランスヒューマニズムは、あまりに技術礼讃の楽観主義で、危ういきわどさを持ちながらも、人間の概念を広げる思想という可能性もあるのではないか。そうした方向での議論はしていくべきだと思います。

人工知能は人間を超えるか?

──人工知能を使った医療には、誰がどこまでどのように責任を持つのでしょうか。

橳島:今人工知能といわれているもののほとんどは単なる情報処理アプリケーションです。扱うデータが膨大だっていうだけなんですね。だから医療現場の人工知能も情報アプリに過ぎなくて、現状はあくまでお医者さんの診断と治療方針の選択を補助する道具に過ぎません。レントゲン写真、CT画像、心電図などと同じです。だから責任は、その道具を作った人や使った人にあります。

 人工知能が人間を超えるものになるっていうけど、そもそも人間の知能っていうのは何か、何ができれば人間の知能なのか、それすら本当は分かってない。人間の知能が何なのかを考えるきっかけになるのが人工知能だ、くらいに思っていた方がいい。人間の脳で扱える情報の量を超えたら何かすごいことが起こる、ってみんな思ってたんだけど、私には別に何も起こるとは思えません。情報を処理した結果、何をするか、何をしないのかっていうのは人間の手に残されているはずだから。

 人工知能がプログラムを自分でどんどん開発していくような研究もあるでしょう。人工知能が、人間の手から離れたところで、人間には全然考えつかないようなプログラムやアルゴリズムまで作るようになっちゃったら、それは大変なことにはなるだろうけど、じゃあそうなったら人間はどうするか。そういう試練に人間は直面するべきだと思いませんか。自分たちよりも上の存在に直面した時に、自分たちがどんな存在なのか、問い直すきっかけになるからいいんじゃないの、くらいに私は思ってます。

生命倫理研究者としての原点は「葬送」

橳島:大学では社会学をやって、研究テーマは「葬式と墓場の研究」だったんです。人間が死ぬといろんなことをやらなきゃいけないんですね。葬式のやり方と人間の死体の処理の仕方、お墓にその社会の一番基本的な人間関係と、「人間とはこういうもんだ」っていう価値観がわーっと出てくるんです。

 人類社会にはものすごくいろんなバリエーションの葬法、葬り方があります。木の上に吊るして腐るままにする風葬とか、火葬と土葬だけじゃないんです。チベットには鳥葬といって鳥に食べてもらう遺体の処理の仕方もある。私は、そういう死ぬとか死んだあとを研究対象にして、民俗学や人類学も随分勉強しました。

 ただ現代では「死ぬこと」っていうのは何よりも医療の問題になります。そこで初めて「安楽死」や「臓器移植」の問題にたどり着きました。私が臓器移植を取り上げたのは、死んだあとに自分の体の一部を他の人にあげる、「新しい死体の処理の仕方のバリエーション」としてなんです、倫理的に問題だからと考えて取り上げたんではなかったんです。

 その後、研究者として、分子生物学・生命科学の研究所に就職したので、医学のこと、脳死や臓器移植を本格的に勉強するようになり、さらに現実の展開に合わせて生殖医療とか遺伝子技術も取り上げて、と研究テーマをどんどん広げてきました。その成果としてこの本では先端医療全般について書いていますが、それだけでなく、臓器提供はもちろん、医学教育の解剖実習とか外科の手術練習とかのために死後自分の体を提供するといった、死んだあとのことについても多くのページを割いています。それは葬送とか遺体の処理の仕方に私の原点があってのことだったんです。

先端医療の目に見えるルールがない日本

──臓器移植や生体手術、デザイナーベイビー(望みの性質を備えた胚を選んで提供するサービス)や、くすり赤ちゃん(先に生まれた子に骨髄や臍帯血を移植するために似た免疫タイプで作られる子ども)を目的にした着床前診断、延命措置の判断など、日本における先端医療の法律があまりに無整備なことに驚きました。

橳島:フランスはそうした先端医療の開発と研究のルールを定め、管理・規制する膨大な法律を作っています。その他の国でも、特に命の始まりを操作する先端医療については法律がたくさんあります。でも日本では、法令のようなはっきり目に見えるルールが必要だと言われながら、長年、ほとんど何もできないままきています。
 
 それはなんでなんだろう。理由の一つとして思うのは、要は先端医療に関わることって他人事なんですね。不妊じゃなかったら体外受精は自分に関係ないし、心不全とか肝臓がダメになる病気にならないと臓器移植もピンとこない。他人事感がまん延しちゃってなかなか進まないんですよ。

 フランスでも同じです、みんな他人事です。フランスで法律を作ってきた役人や国家議員は実はごく少数で、一握りの専門家に任せて全部ちゃんとやってもらう。それも一つの手で、フランスはそういうやり方がみんな好きなんです。あとフランスではお金をかけて官民で「生命倫理全国国民会議」っていう大がかりなイベントを何年かに一度やって、インターネットで双方向のページを政府が作り、各地で討論会もやる。生命倫理と先端医療について知る、話し合う議論の場を作って、他人事を乗り越えようと努めています。

 日本ではルールが「法律」という分かりやすいかたちで決まっていない。空気を読んでみんなで同じことをやる無言の同調圧力にはいい面と悪い面があって、尊厳や人権を抑圧する面もあるけど、人間の命をいじって変なことをするような人も今までは出てこなかった。これからは分かんないですよ。これまでのように何のルールを決めずに、のほほんとやって来られた状態はそう長続きしないのではないでしょうか。

 ルールを作る努力はしなきゃいけない。当事者にならなきゃ関係ないっていうんじゃなくて、命のことだからいつかは自分に関わりが出てきて、いつ当事者になるか分からないから、知って考えてみて損はないんじゃないか。この本が他人事感を超えていく最初の一歩、そのための準備や土台になれば嬉しいです。(構成:添田愛沙)

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