日本では古来から、言葉には霊的な力があると考えられた。「言霊(ことだま)」だ。口から発した言葉自身の霊力が、吉事や凶事をもたらすと考えられた。言葉自身に霊力があるかどうかは別として、重要な地位にある人の言葉で、社会や人々の心が急速に変わることは珍しくない。中国で政権を担当する習近平国家主席(共産党総書記)の場言葉の場合、過去の政治指導者と比べて「政治的言霊力」はどうなのだろうか。ちょっと比較したくなった。(写真は「CNSPHOTO」提供)

■人民を戦闘的に「教え諭す」毛沢東の言葉

  まず、建国前から共産党の指導者だった毛沢東だ。彼が好んで使った言葉のひとつに「張り子(はりこ)の虎」がある。「こけおどし。恐れる必要はない」との意だ。「帝国主義」、「反動派」、「核兵器」、「米国」などを「張り子の虎」と言ってのけた。

  その他、「政治とは血を流さない戦争だ」、「銃口から政権が生まれる」、「革命とは食事に客を招くことではない。(中略)革命は暴動である。ある階級が別の階級を転覆させる暴力的行動である」などがある。

  毛沢東の言葉には、かなり戦闘的なものが目立つ。そして人々を「教え諭(さと)そう」とする雰囲気のものが多かった。毛沢東崇拝にともない、「語録」も神格化された。毛沢東の言葉の場合、「人為的にパワーアップされた言霊力」をも獲得したと言ってよいだろう。

■トウ小平発言には抜群の「政治的言霊力」

  毛沢東の死後に中国の最高指導者になったトウ小平の場合はどうだろう。最もよく知られるのは「黒猫でも白猫でも、ネズミを捕る猫がよい猫だ」だ。それまでのやり方にとらわれず、とにかく経済発展を目指すとの意思表明だった。

  改革開放政策にしり込みする幹部に対しては「纏足女(てんそくおんな)のようなヨチヨチ歩きでどうする」と叱咤した。トウ小平は比喩(ひゆ)表現の名手だった。理屈抜きでもわかりやすい「たとえ」を多用し、人々を動かすことに成功した。「改革に反対するな。改革に反対する人間は、反対運動などせずに寝ていればよろしい」といった、保守派に対する挑発的な発言もあった。

  香港が英国からの返還される前、「中国軍は香港には駐屯しない」との噂が出た。外国人記者から「それは正しいのか?」との質問を受けたトウ小平は、ただひと言「胡説八道(フーシュオ・バーダオ=ウソ八百)」と回答した。

  言葉を長々と連ねて説明するより、単刀直入に言った方が効果的な場合があることを熟知していた。トウ小平の発言は、人々の心に突き刺さった。人々はトウ小平の言葉に動かされた。抜群の「言霊力」と言ってよいだろう。

■硬軟あり、下ネタもありの朱鎔基名言集

  トウ小平の抜擢により中国の指導者になった江沢民国家主席はどちらかと言えば、無難な表現に終始した。「公有制の実現形態は多様化できるし、そうすべきだ」、「中国の事をしっかりとやる鍵はわが党にある」などの発言がある。言わんとするところは分かるが、トウ小平の「寸鉄人を刺す」名言に触れた後では、迫力のない言葉の使い方だった。

  江沢民政権下で1993年−98年に首相を務めた李鵬氏については、言葉づかい以前に演説が不得手で、国民の失笑を買うことも、しばしばだった。しかし98−2003年に首相を務めた朱鎔基氏は違った。

  98年に江西省内で建設直後の堤防が決壊して洪水が発生した際には、現地を視察して手抜き工事の実態を知り「豆腐渣工程(おからのように、もろい建築工事)」、「王八蛋工程(ばか野郎工事)」などと言って激怒した。汚職問題で陳希同北京市長が失脚した際には、「棺桶を100個用意する。最後の1個は私の分だ」と、腐敗官僚と“刺し違えてもよい”との決意を示した。

  ちなみに、朱鎔基首相は清廉潔白な政治家と評価されていた。また、2002年に首相を退任した後は学究の生活に入り、その後の共産党内の派閥争いにも関与しなかった。上海市長時代にも汚職撲滅に精力的に取り組んだことで知られる。中国では「腐敗撲滅」を叫ぶ高官がしばらくして、自らが汚職問題で失脚することがしばしばあるが、朱首相は自らが“汚いこと”に無関係であるからこそ、綱紀を正せたことを、「オレのケツにクソはついていなかったからだ」と表現した。

  朱首相が最も力を入れたのは経済と金融の改革だった。WTO加入に向けての米国との交渉では、周囲の反対を振り切って、自らが出席。国内的な“しがらみ”を重視して、「譲歩しないでほしい」という同席者を無視して、交渉を進めた。朱首相にとっては、WTO加入そのものだけでなく、WTOが加入を認める状態にまで、自国の経済・金融構造を強引にでも改革していくとの目的があった。

  だから米国側の個々の要求に対して「今はキツい。国内で猛反発が生じるかもしれない。しかし、いずれせよ改革せねばならないことだ」と判断すれば、即断即決で応じた。

  ただし、最後のぎりぎりの線では米国側に「これ以上譲歩すれば、私は首相をクビなる」と言って笑わせ、それ以上の追及をかわした。交渉内容は大きく分けて7つの分野に及んだ。中国側はそのうちの2つでは大きく譲歩したが、それ以外では米国側の譲歩を引き出した。

  朱鎔基首相は「怒りの発言」、「どぎつい発言」が多いことで有名だが、結果を勝ち取るために硬軟を使い分ける点でも「言葉の名手」だったようだ。

■決意あれど言霊力に乏しかった胡錦濤

  「政治的言霊力」とは結局のところ、発言者の「胆の座り方」を反映するものだ。自らの立場や利益を度外視して、「どうしても実現させたい。人を動かしたい」という理念と情熱を持つ場合にこそ、その発言は人を動かす。

  江沢民主席と朱鎔基首相の引退後、次の政権をになった胡錦濤主席だが、08年の四川大地震に際しての「いかなる困難も英雄的な中国人民を参らせることはできない」、また政治方針のシンポジウムでの「大衆の利益に小さなことなどない」など、理念と決意を明確に示す言葉を残しているが、トウ小平や朱鎔基元首相のような、圧倒的な力で聞く者に迫る発言は見当たらない。

■現状では「言霊力」見られない習近平

  さて、現在の指導者である習近平国家主席だ。対外的にも注目を集めた発言としては09年2月に外遊先のメキシコでの「腹がいっぱいになって暇(ひま)になった外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」、「第1に、中国は革命も輸出しない。第2に、中国は飢餓や貧困を輸出しない。第3に、中国はあなた方(外国人)に悪さをしない。これ以上、何を言うことがある」がある。

  分かりやすい表現を心掛けたことは理解できるが、はたしてこの「言葉」で人の心を動すことができるだろうか。かつてのトウ小平や朱鎔基首相の言葉のように、受け取る人を思わず「なるほど」と納得させる“威力”はない。なぜだろう。

  まず、「腹がいっぱいになって暇になった外国人」などと、相手を不必要にけなしている点がある。この発言を聞いた外国人は、まず反発心を感じることになる。そうなったのでは、発言の内容をよく考えてみようという気には、とてもならない。

  さらに、「中国はあなた方(外国人)に悪さをしない」の部分もいただけない。中国の言動に対しては、さまざまな批判がある。中国側にも“言い分”があることは理解できるが、一方的に「自分たちは悪くない」と主張されても、それを聞く者にとっては、何の説得力もない。

  考えてみれば、トウ小平や朱鎔基の“名言”は、「どこまで踏み込めるか」というぎりぎりの点に迫っての言葉だった。それ以下では「腰が引けた」内容になり、それ以上言えば「虚言」になる。いわば「失言すれすれの大胆発言」だ。自分自身の存在を駆けた「勝負の言葉」でもあった。聞く者には、トウ小平や朱鎔基が常に「命がけの勝負をしている」ことが伝わった。だから迫力があった。

  その後の習近平主席の発言も、「言いたいことは分かるが、どうも真意が伝わってこない」たぐいのものが多い。打ち出したスローガンも「中国の夢」と、極めて抽象的だ。言い方を変えれば、どのようにも解釈できてしまう言葉だ。このような言葉で、人を「その気」にさせるのは難しい。

  政権が本格スタートしてからまだ日が浅く、自らが重大な局面に対する判断を人々に示す機会があまりなかったということはある。しかし今のところ、習近平主席の発言は、党内と大衆を強引にでも牽引(けんいん)することができるまでの「政治的言霊力」を見せつけてはいないようだ。(編集担当:如月隼人)