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(文+写真:船尾 修/写真家)

 この満洲国に関する連載のなかで、「満洲第七三一部隊」について書くかどうか実はずいぶんと迷った。七三一部隊についてはこれまで研究者やジャーナリストたちによっていろいろな形で報じられてきたし、詳細を知りたければ常石敬一氏の著書『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』や青木冨貴子氏の『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』を読めばよい。また森村誠一氏による『悪魔の飽食』はベストセラー作家による著書であったため発表当時は大きな話題を呼んだ。

 しかし私が迷ったというのは、記事の内容が二番煎じになってしまうことではない。七三一部隊のやってきたことがあまりにも非人間的で残虐なため、それらを蒸し返すことに対して気が進まなかったからだ。それでもやはり書こうと思ったのは、生体実験という倫理的にとうてい許されない行為がなぜあの時代に行われたのか、それも正規の軍人ではなく医者や研究者の手によって行われたのはなぜなのかを今一度私なりに考えてみたかったからである。

 そしてその検証を行うことが結局は「満洲国とはいったい何だったのだろうか?」という問いに対する答えにつながるような気がした。さらには人間性を奪い去る軍隊のシステムやその延長線上にある戦争というものを紐解く手掛かりになるかもしれないと思ったからだ。

古代ギリシャ、ローマ時代からあった生物兵器

 新型コロナウイルスの感染拡大が始まって早や7カ月が過ぎた。人類にとって未知のウイルスであり、また当初は感染率・死亡率ともに非常に高いと思われたため、世界中の人々をパニックに陥れた。その結果、人的移動が大幅に制限されることになり、戦後最大ともいえる大きな経済的打撃を受けることになった。

 国境が封鎖され、人的・物的移動だけでなく行動までもが制限され、人々は見えない「敵」に怯える。私たちが今暮らしているこの世界で起きている事象はまさに戦時下と何も変わるところがない。戦争と明確に異なるのは、「敵」が国家という人間の意識の集合体ではなく、自然界に存在するウイルスであるという点だ。

 そのウイルスも存在が認められた当初は「未知」であったことから、人為的に作り出されたものではないかということが疑われた。またその発生源として、2018年に完成したばかりの中国科学院武漢ウイルス研究所ではないかとも疑われているが、中国政府は公式に認めていないしまた認めるわけもないので、その真偽については永遠に謎のままであるだろう。

 ウイルスは生物と無生物の中間に位置するものであり、自分だけでは存在することができない。細胞の中でしか存在できないため、自己を増殖させるために生物(人)から生物(人)へ感染するという特徴を持っている。感染するとウイルスによっては死を引き起こすこともあるため、人々は恐怖におののくことになる。

 そのためこうした有害な生物や細菌、ウイルスを武器として戦争で使用することを考える人間が出てきても不思議ではない。古代ギリシャローマ帝国の時代では、水源地に有毒植物を投げ入れたり、蜂やサソリを相手に投げつけたりするという方法がとられた。やがて伝染病で死んだ遺体を相手陣地に捨てることによって病気を蔓延させる方法が考案される。武器というものはこうしてエスカレートしていく宿命を負っている。

 生物を利用する兵器のことを生物兵器と呼ぶが、核兵器化学兵器と並んで大量破壊兵器と総称される。それを使用することによって相手を無差別に大量に殺傷することができるからである。あるいはそれを保有することによって、敵にこれ以上攻撃をさせない抑止力というものが生まれ、心理戦で優位に立つことができる。

 また生物兵器化学兵器は少人数、少ない予算で開発・運用することができるため、重装備化ができない国やテロリストにとっては魅力的な戦法のひとつになりうる。戦後の日本で起きたオウム真理教によるサリンを用いた無差別殺傷事件を思い起こしほしい。たったあの程度の人数で日本中を恐怖に陥れることができるのである。

 生物化学兵器を野放しにしないための国際法として、すでに戦前の1925年(大正14年)にジュネーブ議定書(正式名称は「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」)が定められた。ただしこのときに制定されたのは、あくまでも「使用」が禁じられただけで、「開発」や「保有」についてはなんら言及がなかった。日本は当時この議定書にサインはしたが、批准したのは戦後の1970年昭和45年)になってからのことである。

世界が戦慄した「生体実験」

 前置きが少し長くなってしまったが、生物兵器化学兵器を研究開発する機関として満洲国に設置されたのが満洲第七三一部隊である。これは秘匿名(通称号)であり、正式名称は「関東軍防疫給水部本部」という。表向きは感染症などの予防と対策に関する研究を行い、前線で戦う兵士への安全な水の供給を担う部署ということになっている。

 ソ連国境に最も近い大都市であるハルビンの南郊、平房というところに七三一部隊の施設が完成したのは1940年(昭和15年)。6平方キロもの広大な土地に鉄道の引き込み線もあり、また飛行場も隣接しているという大掛かりなもので、特別軍事地域に指定された。たとえ日本軍飛行機であっても許可がない限りは上空を飛行できないほどの徹底的な機密漏洩管理が行われていた。

 部隊長は軍医の石井四郎。1920年(大正9年)に京都帝国大学医学部を卒業した石井は陸軍に入隊して軍医となるが、欧米に派遣されている間に生物兵器(細菌兵器)の重要性を認識するようになったといわれている。あるいはもしかしたら軍部の要請によって欧米での細菌兵器開発の実情を探るために石井が派遣されたのかもしれない。石井は帰国すると陸軍軍医学校の教官に任命され、防疫研究室を立ち上げた。

 満洲国が建国された1932年(昭和7年)に石井は満洲へ向かい、七三一部隊の前身となる防疫給水部を統括する。その当時、石井は東郷一という偽名を使っていた。軍医が偽名を使うこと自体、その組織が単に防疫や給水を目的としたものではないことを暗示している。

 平房に施設が移転した後、七三一部隊は本格的な活動を開始する。最盛期には3500名にも及ぶ人員が所属していたこの部隊では、ペストやコレラ、赤痢など約25種類の病原体の研究が行われていた。劣悪な環境下に置かれる兵士を疾病から予防し、安全な水を供給することは、戦時下においては重要な後方任務である。であるから病原体を研究する機関はどの国の軍隊でも所持していただろうし、兵士の健康を保持する軍医の役割も大きかっただろう。

 ではなぜ七三一部隊の存在が戦後、大きな問題となったのか。それは生物・化学兵器を研究・開発しようとした行為に対してはもちろんのこと、その目的のために人体実験、それも生きた人間を使うという行為に対して、世界が戦慄し、批判を集めることになったためである。

 人体実験そのものは現代において禁止されているわけではない。たとえば新薬の開発においては、一定基準を満たせば人間に治験のために投与することは認められている。また臓器移植もすべての部位ではないが可能だ。しかしそのためには本人の同意はもちろんのこと、様々な制約を乗り越える基準なり条件が必要なのは言うまでもない。

 七三一部隊がやったのは生体実験だった。ペスト菌を皮下注射して経過を見る、実際に拳銃を発射して弾丸がどのように頭蓋骨を貫通するのかを調べる、零下30度の場所で足や手を凍らせて凍傷の進行度を観察する、麻酔もせずに生きた人間から臓器を取り出して病原体の感染を調べる等々、聞いただけで身の毛もよだつような非人道的な実験を行った。

 被験者は、満洲国に居住していた中国人モンゴル人の他、ロシア人の捕虜などであったが、部隊に連れてこられてからは「マルタ」という暗号で彼らは呼ばれた。マルタというのは「丸太」のことである。この施設に入れられたが最後、ほとんどの人は人間性を剥奪され、動物実験で用いられるネズミや猿のように扱われて殺害された。その数は約3000名にものぼると推定されている。

施設を爆破し、公文書を焼却

 戦後しばらくの間は、そのあまりの非人間的かつ残虐性ゆえに、七三一部隊の存在自体がソ連や中国による捏造ではないかということが疑われたが、その後に機密解除された関連する公文書がアメリカやソ連で見つかり、運よく生き延びることができた中国人が証言するなどして、事実であることが明らかになった。

 また実際に七三一部隊員であった複数の元隊員が戦後になって自分の犯した罪を償うべく証言しているし、最近でも七三一部隊について言及した当時の陸軍の文書が国内で発掘されてもいる。

 ただ日本政府は肯定も否定もしない態度を一貫して取り続けている。これはある意味で仕方のないことで、関東軍のなかでも七三一部隊のあった場所は特別軍事地域に指定され部隊内でも他の部署との往来は厳しく制限されていたから、内部で何が行われているかを知る人はごく限られていた。さらに1945年昭和20年)8月にソ連軍が侵攻してきたときに証拠隠滅を計るために施設の大部分は爆破された。文書もほとんどが焼却され、重要な書類だけは幹部によって日本へ持ち帰られた。そのため日本政府自身が回答できる内容を持ち合わせていないのが実情だからだ。

 公文書というものは本来、後世に生きる者が当時の状況を検証するための資料として役立てるものである。公文書を検証されて困る人というのは、自分たちの行為が不正義であるのが露呈してしまうから困るのである。だから公文書の改竄や破棄ということが起きる。こういう問題は何も現在に始まったことではない。

 七三一部隊についての記事を執筆すると、「日本側が作成した文書もないし、政府も否定しているのだから存在しなかったのだ」とか、「中国やソ連の出してくる証拠書類などどうせ捏造に決まっているし、アメリカの文書だって信用できない」と批判する人が必ず出てくる。しかし、そう思い込みたい気持ちはわからないでもないが、これまで明らかになっている断片的な証拠をジグソーパズルのようにつなぎ合わせると、やはり事実は事実として受け止めなければならないのは明白である。

「悪魔の誘惑」に絡み取られたのか

 この部隊があった場所は現在、「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」として一般公開されており、今も発掘作業が続けられている。私は二度この場所を訪れたが、中国人観光客に私が日本人であることを悟られないよう、おどおどしながら見学したことを思い出す。アウェー感は半端なかった。

 見学しながら常に胸に突き刺さっていた疑問は、生体実験を実際に行ったのが軍医という名を借りた民間人であったことだ。七三一部隊に所属する隊員のうち約2200名が軍属という位置づけの医学者や細菌学者、微生物学者などであり、しかも京都帝国大学などに在籍する優秀な研究者が多かった。

 医者というのは本来、ひとりの人間の一生を左右しかねない重要な決断を下す判断力が求められるはずだし、研究者であるならば人間に対しての生体実験など許されるわけがないことぐらい常識であるはずだ。日本国内では許されないが、満洲国では許される。そういうふうに自己弁護したのだろうか。それとも軍隊に入るときに誰かからそう聞いたのだろうか。

 私は大学で生物学を専攻したのでそのあたりの事情について想像することができるのだが、たとえばネズミという実験動物を使って何かの実験を行うとする。実験の結果、自分の立てた仮説が正しいことがわかったとする。しかしここで問題となってくるのは、ネズミでうまくいったことが果たして人間でも同様の結果が得られるのかどうかということだ。研究者としては是が非でもその実験を人間に対してやってみたい。しかし倫理的にそれは禁止されている。

 ところがもし誰かが、満洲へ行けばできるらしいぞ、と囁いたとき、その研究者は「悪魔の誘惑」に打ち克つことができるだろうか。七三一部隊へ渡った研究者の多くはおそらくその「悪魔の誘惑」に絡め取られてしまった人たちなのではないかと想像するのである。

 もうひとつ、これは戦争や軍隊というものの本質であると思うのだが、戦争を遂行する人間には何か大義名分が必要だ。日本の場合それは、「お国のため」であり、「天皇の名誉のため」であった。だから生体実験のような本来なら道義的に許されないようなことでも、「お国のため」という免罪符を首にかけることによって生きた人間に手をかけることができたのではないだろうか。

 戦後しばらく石井四郎は米軍からの追及を逃れるべく、自身の嘘の葬儀まで行って身を潜めていたが、2年後にとうとう米軍の尋問を受けることになる。その際、石井は満洲から持ち帰った研究データをすべて米軍に手渡した。条約で禁止されている生体実験の資料は米軍にとっても喉から手が出るほど欲しいものであったからだ。

 その取引の見返りとして、石井をはじめとして日本へ逃げ帰った元七三一部隊員は誰一人として東京裁判で裁かれることなく無罪放免となり、大学や研究所、病院などの現場へ教授職などとして復職することになった。そして戦後の日本の医学界・科学界は七三一部隊DNAを内包したまま再出発したのである。

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ハルビンの南郊、平房に残る満洲第七三一部隊の跡地で、ひときわ目を引くのがこのボイラー室。本館や住居などへスチーム暖房を提供する他、実験室では24時間体制で細菌培養を行っていたため、そのためのボイラー室も巨大であった。最盛期には3500名の人員を抱えていた七三一部隊がいかに巨大な施設であったのかを物語っている。ソ連が侵攻してきた報に接し、証拠隠滅を計るため施設は爆破されたが、このボイラー室は完全に崩壊することなく残された。 拡大画像表示