太平洋戦争期、各地を焼き尽くしたB-29爆撃機は、日本にとってはとんでもない厄介者でしたが、実はアメリカも相当、手を焼いたとか。当時は日本だけでなく、アメリカもかなり無茶をしていたというお話です。

日本との因縁浅からぬB-29爆撃機 アメリカにとっても厄介な代物…?

アメリカ軍用機のなかでも、日本人に特別な感情を抱かせるのが、ボーイング B-29「スーパーフォートレス爆撃機でしょう。東京をはじめ日本中を焼き払った挙句、広島と長崎に原爆を投下しました。日本上空に堂々と侵入し、日本軍の迎撃をものともせず焼夷弾をバラまいて引き上げていく、「スーパーフォートレス=超空の要塞」という異名にふさわしい無敵の厄介者でした。

戦争末期に至るまで、日本政府やメディアは戦況について楽観的な情報ばかり出していましたが、飛び回るB-29の姿を下から見上げた日本人は、この戦争の結末を感じとっていたことでしょう。

一方でアメリカの国力のシンボルのような「超空の要塞」は、実はアメリカにとっても取り扱いの面倒な厄介者だったのです。

その厄介の原因のひとつがエンジンでした。

B-29は最大9tの爆弾を抱えて高度9000mの高空を最高速度640km/hという高速で飛行する、それまでの航空機の常識を覆すような桁違いの性能を持っていました。この性能の決め手が大馬力のエンジンです。

B-29のエンジンに選ばれたのは「ライトR-3350サイクロン18」でした。もともとアメリカ本土からドイツへ飛べるような大型爆撃機用に設計されたもので、9気筒の星形エンジンをふたつ重ねる複列式18気筒という複雑な構造となり、開発は難航していました。

日本を燃やしたが自らも燃えまくったB-29

そして、B-29に装備されたR-3350エンジンに付けられたあだ名が「火炎放射器」でした。

空気抵抗を減らすようエンジンカウリングの直径をギリギリに絞り込んだため通気が悪く、シリンダーヘッド部分の潤滑が不足気味で、これがオーバーヒートするとバルブが飛んで火災が発生しました。また9つの気筒が2列で放射状に並んだシリンダーの間に冷却用空気を通すため、バッフルという板が設置されていましたが調整が微妙で、これが損傷したり取り付けが歪んでいたりすると、すぐオーバーヒートしてこれまた火災になりました。R-3350のスペックは高かったのですが、すぐ燃えるという信頼性の低さが大問題でした。

B-29の開発を急ぐアメリカは、1942(昭和17)年9月21日に試作1号機XB-29-BOを初飛行させます。しかしこの試作1号機も1943(昭和18)年2月18日、エンジン火災を起こして墜落します。搭乗していたボーイング社のテストパイロットや技術者、墜落した先である食品工場の従業員や消防士など31名が死亡する惨事でした。試作1号機がいきなりB-29墜落事故第1号になったのです。

アメリカ議会に調査委員会が設置されるスキャンダルでしたので、事故自体は公表されなかったものの情報はメディアに漏洩し、日本にも知られることになります。R-3350の代わりとなるエンジンも無く、その後、改良が重ねられ信頼性は改善されますが、次々に行われた設計変更や改修でサプライチェーンは大混乱となっていました。

遅々としてすすまぬB-29の製造…ついに強権が

1943(昭和18)年3月アメリカ陸軍航空軍に、日本を爆撃する専門部隊である第20爆撃集団が編成されます。しかし肝心のB-29が、エンジンのサプライチェーンの混乱などもあり、製造は遅々として進捗していません。1944(昭和19)年1月の段階で完成していた機体は97機でしたが、実際に飛べるのは16機という状態でした。

カンザス州にあるボーイングウィチタ工場で製造されたB-29は、同州のマッコーネル基地に集められて最終調整を行い、第20爆撃集団の基地があるインドのコルカタ近郊の飛行場へ進出することになっていましたが、第1陣が出発する予定だった3月10日に至るも飛べる機体は1機もないという有様でした。

この惨状に陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド大将は激怒し、現代でいえばパワハラ事案になるような、強硬な業務改善を命じます。問答無用でパーツを最優先で調達させ、最大のマンパワーを投入して製造に全力を向けさせたのです。

日本と戦う前の「カンザスの戦い」

カンザス州はアメリカ中西部に位置し、全域が大平原という土地柄です。湿潤大陸性気候で冬の寒気は強く、3月の平均気温は最高摂氏13度、最低摂氏1度となっています。この寒風吹きすさぶ野外にパーツの足りないB-29が並べられ、多くの技術者労働者が巨体にとりついて寒さに震えながら突貫作業に追われたのです。この作業は後に「カンザスの戦い」と呼ばれるほど過酷なもので、現場はストライキ勃発寸前だったといわれます。

こうした努力の結果、1か月後の4月15日までに150機のB-29が軍へ引き渡されました。その直前、4月4日には、B-29をまとめて運用する統合参謀本部直属の第20空軍が創設されており、これ以上の遅延は許されないぎりぎりのタイミングでした。

飛行機増産のブラック労働は日本に限ったものではありません。アメリカもやはり必死であり、「超空の要塞」は無理と無茶を重ねて日本に飛んできていたのです。

ちなみに戦後の、アメリカ空軍第9爆撃航空団の調査によれば、第20空軍ののべ出撃機数は3万3004機でした。損失は754機で、内訳は戦闘によるもの494機、そのほかの要因による損失は260機となっています。これを戦闘で撃墜しにくい厄介な爆撃機と見るか、事故の多い厄介な爆撃機と見るかは、見解のわかれるところです。

飛行中の「超空の要塞」ことB-29爆撃機(画像:アメリカ空軍)。