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(文+写真:船尾 修/写真家)
ハルビンという地名が日本人に深く刻み込まれることになったのはおそらく1909年(明治42年)のことだろう。当時、枢密院議長の職にあった伊藤博文が訪問先のハルビン駅プラットホームで凶弾に倒れた。暗殺の手を下したのは朝鮮民族主義活動者の安重根であったといわれている。
枢密院というのは天皇の最高諮問機関であり、国政に関して内閣と並ぶ権限を持つ組織である。伊藤はその枢密院の初代議長を務めたが、ハルビンで暗殺されたときは4度目の議長就任後のことだった。
よく知られているように伊藤は初代の内閣総理大臣に選出されている。そしてその後、第5代、第7代、第10代と4度にわたって内閣総理大臣を務めた。であるので、おおざっぱに言うと、内閣総理大臣と枢密院議長を交互に務めていたようなものである。現在もそうだと思うが、権力者というのはこうやって要職を自分の息のかかった者同士でぐるぐるとまわしていくものらしい。
伊藤の命が安重根に狙われたのは、1905年(明治38年)に韓国統監府の初代統監に就任したことが原因だ。統監府が置かれたことにより、朝鮮半島においての統治権を実質的に日本がもつことになった。その流れが1910年(明治43年)の韓国併合へとつながるのである。
しかし伊藤は当初、韓国の併合には反対の立場だった。保護国という形で十分であり、いずれ力がついたところで独立させればよいと考えていた。ところが軍隊を解散させ、内政権を奪うという形で保護国化を進めた結果、その一方的かつ高圧的なやり方に対して反発が起こり、独立運動が盛んになっていった。徐々に日本の手に負えなくなったため伊藤も考えを改め、併合へと傾いていったといわれている。
伊藤がハルビンを訪れていたのは、こうした歴史の転換点にある時期に満洲や朝鮮半島の問題をロシアの蔵相と話し合うためであった。1904年(明治37年)の日露戦争で勝利した日本は満洲における南満州鉄道(満鉄)などの権益を確保していたが、弱体化する清国を横目に、日本とロシアの間では利権や領土を巡る駆け引きが行われていた時期である。
手を下した安重根はすぐに官憲によって拘束され、旅順にあった監獄に移送され、最高法院での判決を受けて処刑された(「本連載(1)旅順、建国への助走」において残存するそれらの建物について解説している)。安重根は朝鮮民族の抵抗を命懸けで貫いた人物として、韓国では抗日最大の英雄として現在でも尊敬されている。
「極東のパリ」と称された国際都市
さて話をハルビンに戻そう。現在のハルビン市は人口700万人を超える大都会であるが、街の建設が始まる19世紀末には無人の荒野が広がる寒村であった。清国の領土であったが、国境を接するロシアのアムール州や沿海州は1860年(万延元年)前後に清国から割譲された地域であることからみてもわかるように、ロシア帝国の圧力を常に受けていた。
1896年(明治29年)になるとロシアは清国から東清鉄道(中国東方鉄道)の敷設権を得ることに成功し、沿海州のウラジオストックから満洲の綏芬河を経て、ハルビン、満州里を結ぶ鉄道の建設に着手する。これに先立ちロシアはハバロフスクからのシベリア鉄道の建設を進めており、両鉄道は1904年(明治37年)にロシア領のチタにて連結。モスクワと極東を結ぶ遠大な鉄道路線が完成することになった。
おそらく日本はその情報に接して戦慄したはずだ。というのはシベリア鉄道の全線開通は、モスクワから短時間で大軍隊を極東に派兵できることを意味するのだから。そういう意味でも日露戦争はもはや避けることができなかったのかもしれない。しかし日本は多大な犠牲を出しながらも日露戦争に辛勝したことにより、ロシアの南下政策をぎりぎりのところで食い止めることができた。
翌年のポーツマス条約で日本は満洲における長春以南の鉄道をロシアから譲り受け、南満州鉄道(満鉄)が設立されるが、東西に延びる東清鉄道の運営権はロシアがそのまま保有することになった。この一件を見ても、日露戦争以降も満洲北部ではロシアが影響力を保持し続けたといえるだろう。ロシアがこの東西に延びる東清鉄道の利権を最終的に放棄したのは、満洲国が建国されて3年後の1935年(昭和10年)のことである。
T字の形に敷設された東清鉄道のうち、東西と南北が交差する地点がハルビンである(下の地図)。そのため鉄道が敷設された後はヨーロッパ世界と満洲が結ばれたこともあり、交易や商業などの拠点としてハルビンの街は急速に発展していくことになる。それに伴い、ロシア人だけでなく、中国人や欧米人、さらには日本人も先を争うようにしてこの街に集まってきた。
この街に建設された建物の多くは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで大流行したアール・ヌーヴォー(フランス語で、「新しい芸術」という意味)様式を取り入れていた。モダンで優雅な西洋式の建築群の中にさまざまな民族・人種がひしめく活気にあふれる街。「極東のパリ」とも称された華やかな国際都市がハルビンであった。
こうした西欧風の建築物が次々に建てられていたピークは1920年代初頭。そのころはロシア人と中国人がそれぞれ15万人から20万人前後の人口を抱え、街を実質的に支配していた。日本人の移民も流入し続けてはいたがまだ3000人ほどだった。日本人の人口が飛躍的に増えるのはやはり満洲国の建国後のことである。
ロシア系ユダヤ人の受難
ロシア人がこの街で中国人と並んで多数派となったのは理由がある。1917年(大正6年)にロシア革命が起きた際、社会主義政策を嫌う人たちはパリやベルリン、プラハなどへ逃げ出したが、国境を接する満洲のハルビンもその例外ではなかった。社会主義ソビエト連邦に対して、自由主義社会へ属したいと願う彼ら亡命者たちは「白系ロシア人」と呼ばれた。ハルビンに居住するロシア人の人口は、革命から内戦へと移行するなかの騒乱により一気に3倍に膨れ上がった。
社会主義政権を嫌ったハルビン在住の白系ロシア人は1930年代に入ると「ロシア・ファシスト党」(RFP)を結成するなどしてソ連への抵抗を示すようになっていく。そのためロシアに対して潜在的な軍事的脅威を感じていた関東軍がこの動きを見逃すわけがなかった。ハルビンが関東軍の支配下に入ったのは、1932年(昭和7年)の満洲国建国の直前であったが、それ以降のハルビンの統治にRFPを積極的に利用するようになっていく。
実際、情報戦を担うハルビン特務機関や憲兵隊、警察機関などはRFPに所属する白系ロシア人を多数積極的に雇用し、手駒として使っていた。RFP側としても日本や満洲国の軍事的な後ろ盾を得ることにより、反社会主義戦線を形成していく狙いがあったのだろう。
そのような情勢のなかでひとつ厄介な問題が持ち上がった。ハルビンに逃れてきていたロシア人のなかにはたくさんのロシア系ユダヤ人が含まれていたことである。帝政ロシアには500万人を超えるユダヤ人が居住していたが、彼らの活動は制限・迫害されていたため、ハルビンに逃れてくる人も少なくなかった。1920年代にはその数2万人に達していたといわれている。
白系ロシア人のRFPはその綱領に「ユダヤ人の排斥」も掲げていた。このためユダヤ人の暗殺や身代金目当ての誘拐が立て続けに起こるようになってしまったのである。人種や民族の融和した経済発展の続く国際都市ハルビンは、時代と共にいつのまにか憎悪と人種差別が入り混じる硬直した都市へと変貌していくことになる。
計画倒れに終わってしまったが、日本は「河豚計画」というものを練っていた時期がある。これはユダヤ人の持つ資産や資本を満洲国に投下させるために、彼らを積極的に移民として受け入れ、自治区のようなものをつくろうというものである。ただロシアやヨーロッパでのユダヤ人問題というのは非常に扱いの難しい問題であるため、うまく料理しないと毒がまわって大変なことになるという意味で、河豚計画と非公式に呼ばれた。
特に日本の同盟国であるドイツではユダヤ人に対する扱いが日に日に厳しさを増す中で、日本が(満洲国が)受け入れるということは現実的に難しく、この計画は頓挫することになった。
話は少し飛ぶが、バルト三国のひとつリトアニアの在カナウス日本領事館員だった杉原千畝は、外交官になってすぐに勤務したのが在ハルビン日本総領事館であったことは意外に知られていない。あらためて説明するまでもないが、リトアニアがソビエト連邦に飲み込まれていく過程で大量に生まれたユダヤ人などの避難民に対して、杉原は外務省の方針に逆らって自らの判断で1940年(昭和15年)にビザを発給したことでよく知られている。
そのビザによって他国へ逃れることができ命が助けられたため「命のビザ」と呼ばれ、現在でもユダヤ人たちに語り継がれている日本が誇る真の外交官である。杉原が在ハルビン日本総領事館から満洲国外交部へ移籍したのは1932年(昭和7年)の満洲国建国時であり、ユダヤ人の受難を現地において肌で感じていたはずである。そうしたバックグラウンドがあったからこそ、「命のビザ」が発行されることになったのではないかと私は想像している。
満洲のなかでも異質で特別な街
少し当時の政治の話が長くなりすぎた。戦前のハルビンを体で感じたいのなら、まず松花江という街の北側に流れる大河へ向かおう。松花江は、ロシアとの国境を流れるアムール川の支流である。冬季には完全凍結するこの川に沿って「斯大林公園」がある。「斯大林」と書いて「スターリン」と読む。そこから駅に向かって全長が1.5キロほどの「中央大街」が延びており、幅の広い石畳の道が歩行者天国になっているためいつもたくさんの観光客で賑わっている。
かつてロシア語で「中国人街」を意味する「キタイスカヤ」と呼ばれていたこの通りは、東清鉄道が開通後に最も早く建設が進んだところで、石畳の道の両側には20世紀初頭の建築が現在も残存しており、その数は30にものぼるという。このキタイスカヤを中心としたエリアはプリスタン(埠頭地区)と呼ばれ、ロシア資本だけでなく欧米や日本の資本も入って当時ハルビンでもっとも隆盛を極めた。
私が初めて訪れたのは厳冬期の1月で、マイナス30度にも下がる気温の中をありったけの衣類を重ね着して歩きまわったものである。その極寒のなかを中国人観光客たちは路上に並べて売られているカチカチに凍ったアイスクリームを食べながら歩いていたのには驚かされた。知り合った上海のほうから来ていた方は、冬に開催される「氷雪大世界」を見るためにハルビンへ来たそうで、これほどの古い西欧建築が集中しているところは中国では他にどこにもないと言っていた。氷雪大世界というのは札幌雪まつりのようなもので、この期間中は氷を彫刻した巨大な作品が展示される。
隆盛を極めていた100年前は、パリのモンマルトル、ロンドンのピカデリーと並び称されるほど西洋の文化の香りが立ち昇る通りであり、カフェーやバーで夜どおし賑わったという。満洲のなかでもハルビンは異質で特別な街であった。
なかでも日本人音楽家にとっては、「極東のパリ」ハルビンは憧れの街だった。ソビエト革命によってロシアを追われたユダヤ系ロシア人の芸術家たちが多数このハルビンへ流れ着いたこともあり、街にはたくさんの劇場や音楽ホール、映画館などの文化施設がオープンし、室内楽や交響楽、オペラの上演などが頻繁に行われていたからである。東清鉄道が運営するハルビン音楽専門学校もあった。
日本初の管弦楽団を組織し、西洋音楽を普及させた作曲家であり指揮者の山田耕筰は、1925年(大正14年)にハルビンの「東支鉄道交響楽団」と日本人演奏家を交えた「日露交歓交響管弦楽演奏会」を日本で主宰した(注:清朝時代には東清鉄道と呼ばれたが、清朝が滅亡後は東支鉄道あるいは中東鉄道と呼ばれた)。この演奏会が基礎となり、後に「日本交響楽協会」が発足するが、これは現在のNHK交響楽団(N響)の前身である。
またハルビンには1936年(昭和11年)に創立されたハルビン交響楽団という日露中の混成楽団があったが、指揮者の朝比奈隆は1944年(昭和19年)に満洲へ渡り、ここで指揮を務めた。朝比奈はそのままハルビンで終戦を迎えている。
ロシア人、中国人、欧米人、ユダヤ人、そして日本人たちが夢見たハルビン。街をぶらぶら歩けば、栄華を極めた「極東のパリ」の記憶がいまもあちこちの建築物に色濃く刻まれていることを知るだろう。
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