■80年前にオリンピックを奪われたアスリートたち

戦後75年にあたる2020年は、本来東京でオリンピックパラリンピックが開催され、今頃はまだ熱戦のあとの余韻が残っているころだったに違いない。
しかし、新型コロナウイルスパンデミックによって、大会は延期となった。
多くのアスリートにとって五輪は人生に一度あるかないかの晴れ舞台であり、そのためにできうる限りの準備をして臨む。「延期」という事実を受け入れるのには、選手に与えられた「アスリート」という旬はあまりにも短い。

今から80余年前、同じようにオリンピックという一世一代の舞台を奪われたアスリートたちがいた。1940年東京オリンピック第二次大戦前夜、日本も世界も戦争に向かうなか、政府は五輪を返上し、東京大会は幻となったのだ。

戦争によってオリンピックの夢を断たれた選手たちの中には、その後兵士として戦地に向かい、そのまま帰らぬ人となった人物も少なくない。彼らはどんな気持ちでオリンピックの中止を受け止め、戦地に赴いたのか。

『幻のオリンピック 戦争とアスリートの知られざる闘い』NHKスペシャル取材班・著、小学館・刊)は、丹念な取材と、アスリートたちが残した手紙や手記などの文献調査によって、彼らが抱えていた葛藤や希望に迫る。彼らの人生からは、新型コロナ禍によって東京五輪が延期を余儀なくされたうえに、来年の開催の可否を取りざたされている今こそ考えねばならない問いが浮かび上がってくる。

それは、
「五輪とは何なのか?」
「そもそもスポーツの役割とは何なのか?」
という、オリンピックにかかわる根本的な問いかけである。

幻となった東京大会の前の1936年に開催されたベルリンオリンピックは、ナチス・ドイツプロパガンダと国威発揚のための一大プロジェクトだった。第二次世界大戦によって中断されていたオリンピックは戦後ロンドン大会で復活したものの、1972年ドイツミュンヘン大会では、開催中にテロ事件が発生(イスラエルの代表選手11人が死亡)、モスクワ五輪は、ソ連(現・ロシア)がアフガニスタンに侵攻したことに抗議したアメリカの呼びかけで日本はボイコット、金メダル確実と見られていたマラソンの瀬古利彦、柔道の山下泰裕(現・JOC会長)ら178人が‶幻の代表選手〟となってしまう。

翌大会のロサンゼルス五輪は、不祥事続きで大赤字となっていたオリンピックを、テレビ局からの莫大な放映権料や公式スポンサーを募って立て直しに成功、いまにいたる「商業五輪」がはじまる。
こうしてアスリートは、国際政治や戦争、そして経済要因に翻弄されてきたのである。

「本当は、東京五輪が開催されているなかで、みなさんに考えてほしかった。しかし、コロナで延期が決まり、中止も検討されるような事態になって、選手たちが置かれている状況が、奇しくも1940年大会の時と同じになってしまいました。

もちろん戦争とウイルスの災禍を同列に語ることはできませんが、しかし改めて ‶スポーツとは何なのか〟‶五輪とは何なのか〟という問いが、時代を超えて浮かび上がってきました。この本を出す意味合いがよりはっきりした感があります」

この本の著者、NHKスペシャル取材班の一人で、同局のスポーツ情報番組部チーフ・プロデュ―サーの大鐘良一(おおがねりょういち)さんはこう語りはじめた。本書のもととなったドキュメンタリー、NHKスペシャル『戦争と‶幻のオリンピック〟アスリートの知られざる闘い』の取材を始めたのは2018年、放映は2019年の夏。まだ2020年の五輪が盛大に行われることを誰も疑っていなかった頃のことである。

■戦時下では、アスリートの死でさえ戦意高揚に利用された

本書によれば、戦争で命を落とした日本人アスリートは37人いるという。

そのなかには、サッカー日本代表が初めて参加した1936年ベルリンオリンピックで、強豪スウェーデンを相手に逆転勝利を収める立役者となった、エースストライカー松永行(まつながあきら)のように、戦地に赴く前まで「戦争に行きたくない。サッカーを続けたい」と言い続けた選手もいれば、やはりベルリン大会で致命的なミスからメダルを逃し、捲土重来を期すはずだった東京オリンピックを奪われたことで目標を失い、自ら志願して戦地に向かった陸上短距離走者の鈴木聞多(すずきぶんた)のような選手もいる。

「戦没オリンピアン」37人には、37の人生の物語がある。彼らに中では、1932年ロサンゼルス大会、つづく1936年ナチスの「国策オリンピックベルリン大会に参加したものが圧倒的に多数を占める。メダリストになったものも多い。しかしロサンゼルス大会の1年前には満州事変ベルリン大会の翌年には盧溝橋事件が起き日中戦争が本格化するなど、時代は戦争へと大きく傾いていく。

「そのような(戦争が当たり前のような)時代だったのでアスリートたち自身は、スポーツを国家が政治的に利用している、などとは考えていなかったと思います。それについての意見や発言なども、取材をした限りでは見出せませんでした。

ただ、スポーツをスポーツとしてやっていく中で、国の威信を背負って競技に臨んでいたのは確かですし、戦争の匂いがだんだんと濃くなっていく時期ですから、オリンピックで戦うアスリートの姿を日本が他国と戦う姿と重ねて見る向きは出てきます。そうやって純粋にスポーツができる環境ではなくなっていく重圧になにかしら息苦しさを感じていたのではないでしょうか」(大鐘さん)

表紙

純粋に競技に没頭したくても、時代がそれを許さない。

東京五輪メダリスト候補だった陸上競技スプリンター鈴木聞多は、日中戦争の最前線に送られる。そして毛沢東率いる共産党軍との激しい戦闘で戦死。その墓碑には陸軍大将が揮毫した「皇国青年の士気を昂揚す」の言葉が刻まれ、新聞の訃報記事には「壮烈鬼神の散華」「短距離の至宝 鈴木君聖戦に散る」の見出しが躍った。国もメディアも、アスリートたちを容赦なく戦意高揚のために利用したのである。

■「スポーツは兵士育成を目的とすべき」という国家に抵抗した男

一方で、当時のスポーツ界には、時代の風向きに抵抗する人物もいた。

水泳代表チームの監督だった松澤一鶴(まつざわいっかく)だ。ロサンゼルス大会で男子6種目中5種目、ベルリン大会でも、3種目、女子では前畑秀子が女子で初めて金メダルを獲得する、史上最強の水泳チームを育てた名伯楽である。

アスリートの死でさえ戦意高揚に利用される世の中だから、競技そのものも例外ではない。スポーツは楽しむものではなく、「国防競技」という戦争を遂行するための兵士育成を目的としたものであるべきだという意見が、戦時下では強く主張されるようになっていた。

そんななか、松澤は一風変わった主張を繰り広げる。

「スポーツを戦争に役立つ能力の養成に使うのはいい。しかし、スポーツが本来持つ競技性や楽しさを切り捨てるべきではない」

松澤は、スポーツは国家に役立つものであるべきだという国の意向には従う姿勢を見せつつ、純粋な競技としてのスポーツを守ろうとした。

松澤が非戦・反戦の立場だったかどうかは定かではない。しかし松澤の戦時中の言葉が残っている。

〈「より速く、より高く、より強く。」
これこそスポーツの真の精神であり、スポーツマンが人生に臨む真の姿であろう。そこにこそ躍動があり発展があり、真の生命があるのではないか。〉

スポーツが国策に蹂躙され、その後、戦争によって14人もの教え子の命が失われた経験は大きな悔恨を残したに違いない。

こんなことはもう、二度と起こしてはならない。幻のオリンピックから24年後、松澤の思いは、大会組織委としてかかわった1964年東京オリンピックで結実する。

この大会の閉会式では、「平和の祭典」とされるオリンピックを象徴するような光景が見られた。国ごとではなく、選手たちが国籍も人種も性別もなく、一斉に国立競技場に入場し、のちに東京方式と呼ばれることになる「平和の行進」である。後の大会でもすっかり恒例となったこの式次第だが、昭和天皇・皇后も臨席された競技場に整然と入場する段取りだったところ、まったく偶発的に起きた「予期せぬハプニング」にだとされてきた。ところが、本書では、この説を覆す、ある証言が明らかにされている。

「みんなが、当たり前の光景として見ていた平和の行進の裏に、松澤のスポーツへの思いや、選手を失った無念の気持ち、戦争への悔いなどが凝縮しているのがわかった時、五輪とは何なのか、スポーツとは何なのかという問いへの答えを見つけた気がしました」(大鐘さん)

そう、1964年東京オリンピック閉会式の「平和の行進」は、松澤一鶴によって仕組まれたものだったのである。そのいきさつと松澤の計画については、ぜひ本書を読んでいただくとして、大鐘さんはどんな答えを見つけたのだろうか。

「‶平和の祭典〟といっても、五輪はシンボルでしかありません。だから、五輪自体が平和に寄与するかどうかはわからない。ただ、アスリートたちが懸命に走り飛び投げる、スポーツに取り組むことで生まれた生のドラマを見た時の感動は、国籍や人種、民族を超えて共有できるもので、もしかしたら‶その瞬間〟だけは、世界が同じ感動で結ばれることはできるのかもしれません。それは、平和への願いと相通じるものだと思っています」(大鐘さん)

シンボル」であるがゆえに、五輪は常に時代の空気に染まってきた。では、2021年の五輪は、もし開催されるならどんな大会になるのだろうか。大鐘さんは最後にこんな話をしてくれた。

表紙

「先日、JOC会長の山下泰裕さんにお話をうかがう機会があったのですが、山下さんは今回の大会について、1920年のアントワープ大会と重ねて話されていました。当時は、第一次世界大戦スペイン風邪の流行で、世界が大きなダメージを負っていた時期で、アントワープ大会はそこからの復興を目指して、もう一度世界各国一つにまとまろうよ、という機運の下に行われた大会でした。

来年、東京で五輪ができるかどうかはまだはっきりしませんし、さまざまな意見があることは承知していますが、どのような形になるにせよ開催できて、世界のアスリートが東京に集まって切磋琢磨することができたとしたら、それは国家や民族の枠組みを超えてすばらしいことですし、世界が大きな困難を乗り越えたシンボルとして大きな意味を持つ大会になるのではないでしょうか。

そして、それを私たちが見ることができた時の感情は、1964年に松澤が平和の行進を見た時の感情と同じなのではないかと思います」

(山田洋介/新刊JP編集部)

『幻のオリンピック 戦争とアスリートの知られざる闘い』の著者の一人、NHKスペシャル取材班の大鐘良一氏