水城せとなの人気コミックを、大倉忠義と成田凌をキャストに迎えて映画化した『窮鼠はチーズの夢を見る』が公開されている。監督を務めた行定勲はこれまでにも『ナラタージュ』『劇場』など、恋愛関係にある人物を主人公にした作品を数多く手がけているが、本作では「恋愛のプロセスを順を追って省略することなく、丁寧に描けた」と振り返る。

穏やかで美しい妻と暮らしながら、仕事で知り合った女性となりゆきで不倫関係を続けている大伴恭一の前に、大学時代の後輩、今ヶ瀬渉が現れる。卒業後、興信所で探偵として働いている今ヶ瀬は、恭一の不倫現場を抑えた写真を手にオフィスを訪れ、ふたりは7年ぶりに再会する。不倫の証拠を隠したい恭一は、今ヶ瀬に懇願するが、彼の返答は「ずっと好きだった」という告白だった。

その後、妻と離婚し独身になった恭一の家に、今ヶ瀬が転がり込んでくる。ストレートに想いを伝え続ける今ヶ瀬と、“流されやすい”性格ゆえ少しずつ状況を受け入れていく恭一。ふたりの生活は続いていくかに見えたが、恭一の元恋人との再会や、今ヶ瀬の嫉妬がふたりの関係を引き裂いていく……

本作は恭一と今ヶ瀬の関係が変化し続ける様を高精細な描写で綴った作品で、ふたりの心は常に揺れ動き、その距離や関係も目まぐるしく変化してくが、それがわかりやすいセリフや劇的な展開によって描かれることはない。「“見せつける”ものが好きじゃないですよ」と行定監督は笑顔を見せる。

「この映画をすでに観たある人が『ドラマの掘り下げが弱いんじゃないか?』って言ったそうなんですけど、僕としては『ドラマには興味ないから』って反論もあるんですよ(笑)。ドラマや葛藤がないと人間が憤りを感じたり、自分の愚かさを省みたりしないと思っているから、ドラマを展開させたり、“掘り下げが足りない”なんて言葉が出てくるわけですよね? でも、この映画の登場人物はドラマがなくても十分に葛藤しているし苦悩しているんですよね。それに人間って思ったよりも強いから、そんなにも日常的に苦悩したり葛藤したりはしないものだと思ってるんです。もし仮に死にたくなるようなことが起こったとしても、きっかけは、そんなにドラマティックなことではなくて、日常のささいなことだったりするかもしれない。ふと頭によぎったことが死と直結していたりするのかもしれない。そういう脆さがあるのもまた人間で。だから、ドラマを掘り下げるみたいなことにはあまり興味が持てないわけです」

恭一の部屋に転がりこむ今ヶ瀬、それを完全に受け入れるわけではないが流されるままにしている恭一。先ほどの“ドラマの掘り下げが足りない”と言った方はもしかしたら見落としてしまったのかもしれないが、この映画では大きなドラマこそ起こらないものの、大倉忠義と成田凌はシーンごとに感情を細やかに変化させ、両者の距離は近づいたり離れたりしながら止まることなく刻一刻と変化していく。この物語は恋愛を描いた作品を多く手がけるも“関係が停滞したふたり”を描き続けてきた行定監督にとって新機軸なのではないだろうか。

「明らかに停滞している、あるサークルの中から逃れられない人たちがその中をぐるぐると回っていて、そこから抜け出す発露みたいなものを見つけ出す瞬間が映画の醍醐味というか。それは良くも悪くも逸脱なのかもしれないですけど、そこが見つかると映画になるなって発想がずっとあったんです。でも、『窮鼠…』は最初から停滞の中にないんですよね。発見とか、次の扉が開いていく展開になっている。それは観客が離れないように話をどんどん先に進めていくテレビドラマの類の物語で、僕としては得意ではないはずなんですよ」

しかし、行定監督は映画のラストに出てくる“あるセリフ”に出会い、この映画を手がけたいと思ったという。

「ラストに出てくるあのセリフに出会った時に、このセリフに行き着くための顛末をどう描くのか? それを脚本家と作業するための枠組みにしましたし、今までに自分でも感じたことのない愛の物語になると思ったんです」

自分の感情をストレートにぶつけ続ける今ヶ瀬と、それを受け入れるのか、単に流れているのか“一見したところは”わからない恭一。ふたりの関係は恋人でも、元恋人でも、憧れでも、意地でも、単なる欲望でもない。相手を好きになる理由がない。相手を好きな理由がわからない。監督が語る通り、本作は多くの観客が登場人物の感情に似たものを感じたことがあり、その苦悩や迷いがわかるのに、その正体が一体、何なのか説明できない愛の物語を描いている。

「成瀬巳喜男の『浮雲』にも似た感じがこの映画にはあって、根本的に相手のことをどんな感情で捉えているのかよくわからないというか、例えば人を好きになると“この人の顔が好きだな”とか“自分のことを好きと言ってくれるから好き”とか(笑)何かしら定義づけますよね? でもこの映画のふたりはそれとは明らかに違う向き合い方で、ふたりはそれが一体、何なのか手探りで見つけようとしている。だから、曖昧さがいつもより増しているのかもしれないですよね。なぜこんな感情になるんだろう?って。この映画におけるふたりの恋愛はまだ完全に明確な状態じゃない。そこが魅力なのかもしれないです」

なぜそんな感情になるのかわからないまま、恭一と今ヶ瀬は変化を繰り返し、やがて監督が出会った“あるセリフ”にたどり着く。恭一と今ヶ瀬は映画の最後の最後でどこに行き着くのだろうか?

「この映画では、恋愛のプロセスを順を追って省略することなく、丁寧に描けたと思っているんです。ふたりは進み続けて、これ以上はないだろうなってのが、この映画のラストのイメージとしてありました。それは“行き止まり”で、その淵に立つってのはよっぽどのことだと思うし、ここに来たことがふたりのこの後の人生に大きな影響を与えるんだと思う。でも、“淵まで行ける幸せ”ってのもあると思うんですよね」

『窮鼠はチーズの夢を見る』
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『窮鼠はチーズの夢を見る』