アフター・コロナの世界ではリモートワークが普及したことにより、人々の時間と空間に対する感覚にも変化が生じた。例えばコロナ前であれば、用件と用件の間には空間の移動や雑談といった一種の“無駄”が伴うのが一般的であったが、リモートワーク下では日常からそのような余白が消失しつつある。これはいわば時間と空間が細切れになった状態とも言い換えられるだろう。

(参考:ソーシャルディスタンスが変えた創作のスタンダード:宮本道人×松永伸司が語り合う(前編)

 一方でエンターテイメントの世界に目を向けると、SCRAPが企画運営する「インサイドシアター」やARGといったイベントのチケットが即完売するなど需要が高まっている傾向がある。その背景には、時間と空間が細切れになったことにより単調になってしまった日常に対し、物語を滑り込ませたいという欲求があるのではないだろうか。

 本稿ではInside Theater Vol.1「SECRET CASINO」の脚本を担当したイシイジロウ氏とゲームAI開発者の三宅陽一郎氏を招き、「今の時代」におけるストーリーテリングの役割と今後の展開について、ディスカッションを行った。

イシイジロウ:株式会社ストーリーテリング 代表取締役社長。チュンソフト(2000年入社)、レベルファイブ(2010年入社)において、おもにアドベンチャーゲームのシナリオ・監督・プロデュース、ディレクションを務めたのち、2014年に独立。2015年株式会社ストーリーテリング設立。ビデオゲームのみならずアニメーションの脚本や実写映画、舞台の原作など活動の場を拡げている。代表作は『428 ~封鎖された渋谷で~』(総監督/チュンソフト)、『タイムトラベラーズ』(ディレクター/レベルファイブ)、『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』(監督/チュンソフト)、『文豪とアルケミスト』(世界観監修/DMM GAMES)、『新サクラ大戦』(ストーリー構成/セガゲームス)など。最新著書は「IPのつくりかたとひろげかた 」星海社新書。

三宅陽一郎:ゲームAI開発者.立教大学大学院人工知能科学研究科特任教授、九州大学客員教授、東京大学客員研究員。国際ゲーム開発者協会日本ゲームAI専門部会設立(チェア)、日本デジタルゲーム学会理事、芸術科学会理事、人工知能学会理事・シニア編集委員。著書『人工知能のための哲学塾』 『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』『人工知能のための哲学塾 未来社会篇』(BNN新社)、『人工知能の作り方』『ゲームAI技術入門』(技術評論社)、『なぜ人工知能は人と会話ができるのか』(マイナビ出版)、『<人工知能>と<人工知性>』(iCardbook)など。共著『デジタルゲームの教科書』『デジタルゲームの技術』『絵でわかる人工知能』(SBCr) 『高校生のための ゲームで考える人工知能』(筑摩書房)『ゲーム情報学概論』『キャラクターアニメーションの数理とシステム』(コロナ社) など。翻訳監修『ゲームプログラマのためのC++』『C++のためのAPIデザイン』(SBCr)、監修『最強囲碁AI アルファ碁 解体新書』(翔泳社)、『眠れなくなるほど面白い 図解 AIとテクノロジーの話』(日本文芸社)など。

・今、リアリティの「リ・ビルディング」が行われている
イシイジロウ(以下イシイ):リモートワークの普及で、間違いなく時間感覚は変化しましたよね。いわゆる「どこでもドア」的な感じで、時間をショートカットして動けるようになったのが現在だと思います。そしてその結果、従来とは時間と空間に対する感覚も変わりました。これまでは「移動」という行為によって、時間や空間の感覚が調整されてきた側面がありますからね。

 もっとも僕は、この「時間を飛び越えている感覚」って、人類にとってみるとこれが初めてのことではないんじゃないかと思ってます。ネットの黎明期はもちろん、電話の黎明期にもあった感覚ではないか、と。

 ともあれ、「画面の向こうは、自分と同じ時間・同じ現実なのか?」という点が、あやふやになる瞬間は増えています。それこそネット越しのテキストのやりとりですら、そうです。

 例えば亡くなった方のSNSには、その方の過去の時間が保存されています。ではLINEでやりとりしている相手は、自分と同じ時間に存在しているのか? 端的な例を挙げれば、海外とやりとりをしていると時差による「時間」には明確なズレがあります。

 リモート演劇やリモートインタラクティブには、この「あやふやさ」の面白さがあると感じています。例えば僕は三宅さんがさきほどオンラインになったと認識していますが、この認識に対して「いえ、もっと前からいましたよ」と三宅さんが言い出す――こういうのって、フィクションとして面白いんですよね。

 この面白さは、ストーリーを作るクリエイターとして、この数ヶ月間感じていることです。

三宅陽一郎(以下、三宅):リアリティが変化してしまった結果、僕らはいま新しいリアリティを模索しているのだと感じています。もう一度、自分のリアリティをリ・ビルディングしているんだけど、そこにはさまざまな選択肢がある。

 このことは、ネット上で開催される脱出ゲームも含め、ゲームにおいても同じだと思います。

 リアル脱出ゲーム(※)で言えば、空間の移動ができなくなったわけですから、これは「使えなくなったツールがある脱出ゲームだ」と言うことができます。空間の移動が伴う脱出ゲームであれば、「主催者とインタラクションしない時間」が間違いなく存在しましたが、空間の移動がなくなった以上、対面のインタラクションでずっとリアリティを維持しなくてはならない――言い換えれば、遠隔で保つことができるリアリティはコミュニケーションやインタラクションに特化したリアリティなんです。だから例えば「今から一分間、一緒に滝を見ましょう」みたいなことをすると、どうしても間が持ちません。

 この「インタラクションで物語が続く」というのは、現実とも同期しています。例えばZoomを使ったリモート会議であれば、開始0秒から機関銃のように喋り続けて会議が終わるといったリアリティが同時に再構築されていますよね。

イシイ:情報のやりとりだけに特化したときにエンターテイメントはどうなっていくのかというのは、すごく悩んだ点ですね。「SECRET CASINO」を演出していくにあたっては、シーケンシャルなものとインタラクティブなものがすごく混ざっているんです。

 先ほど三宅さんがリ・ビルディング言葉を使われましたが、「SECRET CASINO」を作るにあたって僕がよく使った言葉が「リ・エンジニアリング」なんです。

 リアル脱出ゲームはもともと「脱出ゲーム」というコンピューターゲームだったわけですよね。それを「リアル脱出ゲーム」にリ・ビルディングしたとき、いろんなことが起こりました。そうしてできた「リアル脱出ゲーム」をコミュニケーションに特化されたリモートの場に戻すとき、リ・ビルディングされ、再びここで新しいリアリティに変換されているわけです。

 結果、リモートリアル脱出ゲームには、「リアル脱出ゲーム」が持っているリアルは当然残っているのだけれど、もともとあったコンピューターゲームとしてのリアリティも同時に存在している状態になってるんですね。なので作っているとき、内心で「ここはカットシーンだな」「ここはインタラクティブシーンだな」と思って作っていた部分はあります。

三宅:それは「SECRET CASINO」に参加して、僕も感じたところです。

 Web上のリアル脱出ゲームがリアルに移ったとき、場所の持つ力がそこに影響を与えたと感じました。「横浜レンガ倉庫が会場です」ということであれば、「横浜レンガ倉庫」というシチュエーションが体験に影響を与えるようになったな、と。

 このような表現力の発展は、当然コンピューターゲーム側でも起きてきたことです。すごく古いアドベンチャーゲームだと画面を見て「瀬戸内海は綺麗だな」と感じるのはかなり難しかったのですが、ハードウェアの性能向上にあわせていろいろな演出ができるようになっていきました。

 でもリアル脱出ゲームなどの空間を使った体験型イベントがオンラインに戻ってくることによって、現実世界の力を持ってくるのが厳しくなりました。結果、カットシーンやテキストシーンのようなリアリティに一度戻したんだな、というのはすごく感じましたね。90年代のテキストアドベンチャーが持っていたリアリティに近いな、と。

イシイ:そうなんですよ。ある意味で先祖返りはしているなと感じています。例えば80年代のアドベンチャーでも、フォーマットとしては再現できると思いますね。

 でもそれがリアル脱出ゲームを通った上で、生の役者さんがリアルタイムで演じるということが起きたとき、CGやイラストキャラクターでは出ないリアリティが圧倒的にあるんですよね。そこが人の心を動かしていると思っています。

 実は僕は10年近く前に同じような構造のストーリーをコンシューマゲームで作ったことがあるんですが、どうしても「ゲームの中の世界」にしか見えなかったんです。ゲームの中にあるリアリティを現実とつなげても、プレイヤーはそれをメタな感覚で「お約束」としてしか理解してもらえない。

 でも「SECRET CASINO」には「現実が殴ってくる」感覚がすごくあります。実際、コンピューターゲームにおいては第4の壁が破られても、ある意味知れてるんですよ。フィクションと現実の接点が分厚すぎて、破っても「破ったね」ということがはっきりしすぎるんです。

 リアル脱出ゲームの恐ろしくも凄いところは、もともと第4の壁を取っ払ったところから始まるところです。つまり、観客はもう内部化していて、第4の壁の中で始まるわけです。

——第4の壁について、もう少し詳しく解説をお願いします。

イシイ:演劇の舞台には背中・上手・下手と壁が3つあります。この3つの壁に囲まれたのが演劇で、これを役者は越えられません。ここにもう1つ、見えない壁があって、それが観客と役者を区切る「幕」に相当する部分ですね。

 ただこの第4の壁は、現実には存在しないので、壁が存在しないかのように観客と役者が会話できます。近代演劇ではよくあることですが、これが「第4の壁を越えた」状態です。

三宅:「SECRET CASINO」の場合、「スクリーンのこちら側に引き受けねばならない役割がある」というのはリアル脱出ゲームをやり慣れている人にはわかっていると思うんです。自分が物語内部における自分なのだ、という感覚ですね。

 ただリアル脱出ゲームの経験が少ない方の間には、「素の自分」として入っていったり画面をオフにしていたりと、参加するという意思ではない人も見受けられたかなと。つまり大きく分けて二種類の参加者がいましたよね。

 でも物語が進行するにつれて「自分はただの観客ではダメなんだ」という理解が生まれていって、自分も参加していくという側にシフトしていきました。これは確かに、「壁に果てしなく近づいていくという感覚」でしたね。

イシイ:SCRAPリアル脱出ゲームは、もともと「客席も舞台の上にある」んでしょうね。なのでエンドクレジットでお客様の名前が出るというのもよくあって、これはまさに「あなたの出演者ですよ」というメッセージです。

 そんななかで、僕は今回「第5の壁」という言葉を自分の中で使いました。これは「次元」の壁ですね。空間や時間を超えていく体験をしてほしいなと思ったんです。

 具体的に言えば、「本当の現実を触ってくる感覚」「時間を触ってくる感覚」です。「舞台に座っている観客である自分の、裏の日常が触られる感覚」「自分は観客であると同時に出演者でもあるという覚悟の先を触る」と言い換えることもできます。この感覚って既存のメディアだとなかなか得られないものなんですよね。

 これって参加者が自宅にいるからこそできることでもあります。分かりやすくいえば、リアルタイムで家に何かが届く、とか。あるいは例えば家の中の何かが変わっていくとか。そういう事が「第5の壁が触られる」ことだと思っています。これをどう実現するかと考えたときに出てきたのが「SECRET CASINO」のシナリオギミックなんですね。

 ネタバレになるので詳しくは語れませんが、この仕組みには「とんでもないことに触れた」感があると思いました。

三宅:これまでのリアル脱出ゲームではできなかったことをやっているわけですね。

イシイ:似たようなギミックは存在すると思います。ただ、やはり舞台装置の中でしかないんですよね。しかもリアルタイムで触るものはリアルタイムでしかない。例えばリアル脱出ゲームで司会者が「私は三日前の私です」と言い出しても、それは「そういうお約束」でしかないですよね。

 でもリモートという、自宅とフィクションのリアリティが曖昧な世界にこれが割り込んでくると、「三日前の私」が一段上のリアリティになるわけです。

三宅:2014年に『3D小説 bell』という作品がありました。あれは新聞小説のようにブログ上で少しずつ小説形式の物語が投稿されて進行するのですが、ブログ更新日時と小説で描写する日時を必ず揃えることで現実空間と物語を接続していました。読者は小説内で何時間後かに起きると予告されたバッドエンドを、小説を読み解きバッドエンドの回避策を全国各地のスポットやWebサイト、投稿動画といった数多のメディアから見つけ出して現実世界側をあらかじめ書き換えておくことで、バッドエンド時刻に更新される小説描写にも影響を与えられる形式だったと思います。

 「SECRET CASINO」はそれともまた違っていて……これが特定のイベント専用サイトが書き換わっていくだけなら「物語の内側」という感触ですよね。でもそうではなく、ユーザーにできるだけ大きく迂回させることで、本来なら作り手の届かないはずの場所が変化しているところに、新しいリアリティを感じました。

イシイ:分岐した物語(フィクション)が書き換わっているのではなく、世界自体が書き換わっている感覚ですね。まさに現実側のフローチャートが書き換わっている。

 セーブデータを遡って書き換わっていくダイナミックさというのがデジタルゲームの面白さだと思っています。未来が書き換わるのはアクションゲームがまさにそれなんですが、過去から書き換わるというのは「弟切草」が発明した、物語そのもの・世界そのものが書き換わる感覚だなと。これは第5の壁の考えた方に近いと思います。壁自体は壊してはいないですが。

 「あなたのいる世界」が、ちょっとしたことでさらりと書き換わったということですよね。そしてゲームの中の世界が書き換わったことによって投影された可能性の現在が見えるわけです。

三宅:そういったインパクトが求められているところがありますよね。

 日常が空間的にも制限されて、現実というものを遠いニュースからもう一度組み立て直しているという中で、日常の裏側にタッチされるということに対して感度が上がっている。

 実際「インターネットのリアリティ」というものは20年前からありますが、昨今はそれが増していますよね。かつて現実世界や現実の人によって組み上げられていたリアリティが、今は遠隔ビデオやネットを介したニュースといったインターネットのリアリティによって組み上げられているようになっています。

 そうやってセンシティビティが上がっているところでWebの書き換えというリアリティを利用したというのは、今の時代に刺さっているなと感じます。そこが第5の壁を破れたひとつの理由でもあるのかなと。ユーザーがネットに依存する度合いが高まったところでこういうエンタメが作られたということには、すごく時代性を感じます。

イシイ:リアリティという問題については、フェイクニュースが拡散していく現実というのがあるわけですが、あれもまたリアリティのなさがなさしめているのかもしれないな、と思います。リアリティがないから、あれだけのことを無責任にできてしまう。目の前にあるリアリティがあるものには石を投げられなくても、リアリティがないものには簡単に石を投げられますからね。

・人が解脱しきれないところにエンタメの面白さがある
三宅:リアリティという点について言えば、「場の持つ力」というものはすごかったんだなと改めて感じることがあります。

 かつては会議があって、打ち合わせがあって、というスケジュールが組まれていた場合、会議室で会議をして、終わったら部屋を移動してミーティングをする、といった形で仕事が進んでいました。これによって、「場」というものを使って自分をコントロールすることができていたんですよね。

 でも会議も打ち合わせもすべてオンラインになって、「場」がなくなりました。もう僕らは垂直的に感情を切り替えたり、モードを切り替えたりしなくてはならないわけです。例えばこれまでは通勤時間を使って「起動」して、「会社で働く」ことにつなげていたんですが、いまでは会議開始時間の30分前まで寝ていたとしても、いきなり会議が始まってしまう。このように「場」を失った状態で、どういう生活を築けばいいのか、どう順応していけばいいのか、というのは大きな課題になっているように感じます。

 そしてそういう状況があるからこそ、物語においても「場」をもっと使いたい、という欲求はこれからの拡張としてあると思います。画面の向こうと対話するだけでなく、一見すると間が悪いんだけど、引き込まれるみたいな技術が、インターネットの上でも要求されていくのではないでしょうか。

 実際、こういう垂直的な立ち上げって、切り替えがしんどいんですよね。リモート会議と会議の間の時間を使って皆でモンスターを倒しましょうとか、そういう「移動している感覚」がほしいと感じることは多々あります。このように、擬似的な空間感覚を再現する需要は出てくるのかなと感じますね。

イシイ:確かに、散歩をしたり、車を運転したり、お風呂に入ったりと行った行動のバックグラウンドに思考を置いておく、みたいなことがこれまではあったんですが、リモートだとそういうのはなくなっちゃいましたね。

三宅:ただこの先、もし生まれたときから学校も会社もリモートだという社会が成立したら、もしかしたら「こんど実際に移動して会議をしてみよう」という、いわば会議ごっこみたいなものが生まれるかもしれない。

 リモートが当たり前になってたかが3ヶ月程度ですが、かつての「リアル」のほうが、実はごっこ遊びだったんじゃないかという、そんな逆転現象も感じています。

イシイ:その逆転状態こそが社会の進むべき道なのかな、と思うこともありますね。

 僕は肉体というものが好きな人間ではないんですよ。小さい頃から「何で肉体ってあるんだろう」と思ってました。仏教的に考えて肉体って苦しみしかないだろう、と。一方で僕はSFが好きだから、「情報だけの存在」とか「精神集合体」とかに早くなればいいのになと10代の頃にはもう思ってました。

 だから自分が情報体になったようなこの数ヶ月が、僕はすごく楽しいんです。

 とはいえエンタメという面から考えるとここには問題があって、肉体の苦しみがあるからこそエンタメは面白いんですよ。解脱しないところにエンタメがある。

 なので「SECRET CASINO」でも肉体的なことをやっています。枠の中の世界だけでなく、移動することで肉体的なものを表現したかったんですよね。

三宅:エンタメと身体という点からいえば、新型コロナパンデミック前にリアルイベントが流行ったというのは、オフィスワークが一種のバーチャル化していたからだと思ってます。

 毎日毎日朝から晩までコンピューターを触り続けて仕事をしているなか、じゃあ土日もそうやって遊びたいか? と言われたらNOですよね。 

 そこにリアルゲームが解放としてあらわれてきた。山にいったり釣りをしたりするようなアクティビティと同じくらいのリアリティを持つものとして、リアル脱出ゲームが受容されたのだろうと思います。

 でもその「オフィスワークのバーチャル化」は一気に加速し、日常が全部バーチャルになってしまった。土日にリアルゲームもできない状況です。そこでギリギリの身体性を復元したい、という微妙なポイントは発生してくるでしょう。

 「SECRET CASINO」は肉体的なことをやっているというお言葉がありましたが、それは自分も感じました。役者がカメラの向こうにいる人とつながろうという感覚や、こちらが携帯を急いで取り出そうという思い。そういったぎりぎりのところで身体性が確保されていた感覚ですね。

 こういった身体性のリアリティは今後も求められていくでしょうし、それがないと保てないリアリティはあると思います。

イシイ:SCRAPのきださおりさんは身体性を大切にするクリエイターなんですよね。リモートでのリアル脱出ゲームでも、参加者に「着飾って来てください」というリクエストをされたりします。

 家で楽しむエンタメなのだから楽な格好で参加してもOKなはずなんですが、着飾ることで、身体性を意識して参加することになるわけです。これはきださおりさんらしい拘りだし、イシイとの違いでもありますね。

・「場」が生成してきた物語のアーカイブは人生の補助線だった
三宅:「場」についてさらに言えば、僕みたいに自我が弱いタイプだと、会社に一歩踏み入れることで会社員になれたという側面があります。「場」の持つ力で「会社員」になれたんですね。カンファレンスで発表するときも同じで、登壇した瞬間に「講演者」になれました。

 でも「場」がなくなると、そういう形成力もなくなって、ずっと素の自分でいるしかなくなりました。そうなると、「場」による変化の力がほしくなるんです。「ちょっとだけ違う自分」になるための「場」がほしいな、と。

 でも今後はそういう「場」の力がない、という前提で考えていく必要があります。実際、場に甘えていたのも事実ですしね。ちゃんとした社会人や、ちゃんとした講演者になるにあたって、「場」の力を借りてギリギリやっていたわけです。

イシイ:ここ10年くらいで「場」の力って弱まってきたと思うんですよ。僕が独立したのも、「場」の力が弱まっているからだったりします。

 実は自分も場に依存してきたタイプで、家で仕事できない人間だったんですね。でもSNSの発達で、仕事が24時間、家でもできるようになり、これによって場の力が弱まりました。「会社じゃなくても仕事できるじゃないか」という実感が得られたんですね。

 いまは家でも仕事できているし、もう会社やオフィスを作りたいとも思いません。組織や「場」が、必要だと思わなくなったんです。

三宅:多くの会社がすんなりと在宅ワークにシフトできたのも、「場」の力が弱まっていたという背景はあると思います。案外みんな、ふっとシフトできましたよね。

 これが10年前だったら、かなり苦しかっただろうと思います。

イシイ:そうですね、10年前だったら、僕も「会社に行きたい」「会社に行かなきゃダメだよ」と言っていたと思います。

三宅:僕の場合、これまでは休日にもわざわざ、なにかの作業をする場合には、場を変える必要があったんです。その場にいないと、入らない「モード」があったんですよ。場が持つ雰囲気が必要だと思っていたんです。

 でも、そんな僕ですら気づかないくらい、ゆっくりと場の力が減っていった以前であれば、「場」がストーリーを与えてくれていました。大学という場ではこんな生活があって、会社という場ではこんな生活があってという事前のインプットも、さまざまな物語を通じて獲得できました。

 でもいまや自分自身、一人で物語を作っていかなくてはならない。社会が急激に変わったことで、参照できるアーカイブがほとんど存在しない状態です。

 そのうえ、学生時代と会社員時代で、自分から見える「場」は同じです。同じ場所で、同じものに囲まれながら、違う物語を作るというのは、普通はできないのでは? と思ってしまいます。

イシイ:確かに、物語のアーカイブを使えないのは辛いですね。

 僕の場合、高校時代に祖母から曽野綾子の『太郎物語』を読めと言われまして、実際それが将来へのイメージになって、安心できていたいんですよね。物語のレールに乗った自分の人生がイメージできていました。

 そうか……僕は自分で物語を作っているからなんとかなっているのかもしれないですね。

三宅:今、参照できるのは「裸の太陽」(アイザック・アシモフ1957年)とかですかね? むしろ現実がSFを追い越して、SFの世界にいるみたいな感覚すらあります。

 なので、この状況におけるロールとなる物語を提供する必要と需要は高まってくるでしょうし、そこに素材を提供するのはエンタメの役割だと思います。昔からヒーローというものは長い距離を移動してきましたが、まったく移動しない主人公が求められる時代なのかもしれません。

・主人公性を誰に持たせるべきか?
三宅:「SECRET CASINO」に参加してみて驚いたのは、参加者の多くがみんな、自分の顔を映していて、かつバーチャル背景も使っていないということでした。自分の顔を出して参加するという意思は、つまり自分=主人公という感覚になれているのかなと。ゲームでいえばFPS、一人称視点での参加ですね。

 僕はそういうのが苦手でTPS参加、つまりゲームの中にアバターを置いて、背中越しにゲームをしたいという欲求が強いんですが、「SECRET CASINO」の参加者はFPS的なものにすっと順応しているなあと感心しました。これって普通のPCゲームを遊ぶ層とは、違う層を掴まえているという証拠のひとつでもあるな、と。PCゲームが好きな人は、仮託するキャラがいたほうが楽だと言うことが多いですからね。

イシイ:「SCRAPリアル脱出ゲームからはIPが生まれない、キャラクターが生まれない」と相談されることがあるんですが、「だからこそ特別で人気があるんですよ」と僕は思っています。

 これは主人公性の問題で、SCRAPリアル脱出ゲームには観客に主人公性があるんです。自分が完全に主人公である体験がリアル脱出ゲームであって、司会者やNPCが主人公性を持ちすぎると観客としてはイヤなんですよね。

 ただ、これをリモートにもってくると、なかなか上手くできないんです。例えば「同時参加人数が5人まで」とかいうことにせざるを得なくなってしまう。

 その点、「SECRET CASINO」は当初から100人参加に拘ってたんですが、そうなるとやはり主人公性を画面の向こうに持って行かざるを得なかったですね。画面の向こうに感情移入して、リアル脱出ゲームのノウハウを使って画面の向こうを応援する……そういう実験的な作品になったのではと思っています。

 ただこれは本当に難しい話で、主人公性そのものはZoomでも感じることができるんです。事実、参加者には自分がどう映っているかを意識している人と、してない人がいます。そして自分がどういうカメラアングルで映っていてもOKな人、言い換えれば自分自身が映る画面を見ず、他の画面に集中している人は、三宅さんの指摘でいう「FPSの人」だと思います。

 一方でエンタメを作る人は自分を客観視する癖があって、これは映像型だと特にそうです。こういう「TPSの人」は、自分がどう映っているかが気になるし、カメラをどこに置いているかを考えながら生きている。だから僕もZoom会議でも同じことを気にして、考えていたりします。

 リアル脱出ゲームの参加者の皆さんは自分の主人公性にこだわりのある、FPS型の人が多いのではと感じました。自分の目がカメラであり、だからこそ主人公になれるわけです。TPSだとそう簡単には主人公になれません。TPSの型の主人公だと照れくさくなったりもしますしね。自分がどう映っているか、とか、そういうことが気になります。

三宅:PCゲームのファンは、アクションゲームが好きな人であっても、あるいはアドベンチャーゲームが好きな人であっても、「誰かの背中に仮託する」というTPS参加に馴染んできたと思っています。そういうユーザーをPCゲームが育ててきたと言ってもいい。例えばアドベンチャーゲームなら、クールで斜に構えた主人公がいて、その人物の受け答えを見ながら、選択肢だけ選ぶとか。

 でもリアルだと「自分を主人公にする」才能を持った人が多いなあと感じます。あるいはそれは、自分の役割を演じるところに開放感を感じているのではないかな、とも。日常におけるロールを24時間果たし続けなくてはならない毎日にあって、一瞬だけ他のロールをできる場のひとつが、リアルゲームなのではないでしょうか。

・個人を役割から開放する移動という行為をゲームが補完する
イシイ:「日常でロールが強要される」というのは、ありますね。これがまた、移動がなくなったことによって、逃げ道もなくなってしまいました。場所と空間の固定とは一種の奴隷化でもあるわけですから、場所と空間が固定されることが苦しい人は、絶対に苦しいと思います。

三宅:移動するという行為は、自分が主役なんですよね。「自分は会社員であり、だからこういうことをして、こう移動する」というのは一種のロールプレイですよね。会議で移動しますというのなんかは、すごくロールプレイングっぽい。

 かつては、会社を一歩出れば「素の自分」になって、そこから例えば百貨店に入れば自分は「お客様」になれました。映画なんかもこれと同じで、空間を移動することで自分の役割を変えていけたし、柔軟性を保っていられたんです。

 でも場所と空間を固定されると、そういう一時的なロールがなくなってしまいます。その閉塞状況から抜け出し、あるいはガス抜きをするというのは、エンターテイメントの役割だと思うんです。

 ゲームで言えば『あつまれ どうぶつの森』や各種MMORPGなど「プレイヤーにロールを与える」ものはいろいろありますが、リアルゲームが持つ「身体をもってロールする」という開放感には特別なものがあります。だからこそ、需要も途切れない。

イシイ:そう考えると、もっとやるべきことは多いですね。

 まだまだ、今の作品では足りていないことも多い気がしてきます。

三宅:その上で、自分自身のロールと空間は、ある程度まで紐付いてると感じるんですよね。百貨店でもバーでも、なんなら会社や家庭でも、空間が許容するロールを獲得するわけです。

 これを逆に考えると、ちょっとずつ違う自分を演じてきたことがなくなるということは、ちょっとずつ空間を失っているということだと言い換えられます。そうなってきたからこそ、バーチャルに空間を増やしたくなっているのかな、と感じるんです。

イシイ:「空間としてのロールを失っている」という考え方は、納得感が高いですね。ドラマにしてもゲームにしても、頭の中で空間を移動できているところがありますし。

 ただ実際には、やはり空間でロールしている人のほうがずっと多くて、空間が制限されることによってそこで失われたものもたくさんある。だからこそ多くの人の空間的なロールをサポートする必要があるし、その点でも「SECRET CASINO」のような作品はもっとたくさん必要なのだろうと思います。

・「SECRET CASINO」は1対1×100を目指した
イシイ:自分の精神を安定させるためのネットワークをどう作るかは、これから大事になると思います。ひきこもってしまってコミュニケーションが怖くなるとマズいですから、群れとのコミュニケーションをし続けることは必要なんです。僕にとってみると「SECRET CASINO」を作るにあたって集団とコミュニケーションをとっていくというのは、自分の精神を安定させる意味合いもありました。

 また逆説的に言うと、「SECRET CASINO」はインタラクティブ・ムービーとしての側面も有していますが、従来のそういったエンターテイメントはユーザー1人に対してシナリオを書いていたんですね。

 でも「SECRET CASINO」は1対1が100個あるという、「群れなんだけど、個と線が全部つながっている」という構造になっています。このようなシナリオ概念は従来あまりありませんでした。つまり「SECRET CASINO」は、「プレイヤー群に対してインタラクティブシネマを作る場合、どんなシナリオが適切なのか」という実験でもあったと思っています。

三宅:僕は実際に「SECRET CASINO」に参加する前の段階では、「参加者が100人もいるなら、俺は何もしなくていいな」「誰かが引っぱってくれるだろうから、なんとなく参加して終われるだろう」と若干思っていたんです。

 でも参加してみると、「自分も何かしなくてはならない感」「自分がインタラクションしている感」が100人分担保されている感覚がありました。この感覚がなぜ成立しているのかはわからないのですが、これってこれまでなかった感覚だなと感じました。

イシイ:今の時代って個と個が線でつながっている時代ですよね。これを群れや群として心理的に理解し、そこに参加することで新しいロールを作っていくにはどうしたらいいのか。ここを解明すれば、肉体側への揺り戻しにも対抗できるんじゃないかなと思います。

三宅:リアルゲームの場合、「場」に行って、自分が引き受けるべきロールを「待つ」ところがあります。少なくとも僕はそうです。そこで擬似的な社会に参加していくんですよね。

 でも「SECRET CASINO」は「自分は100人のなかの1人に過ぎない」という感覚がないんですよね。これって、これからの社会における個人は、「群れの中の一人」ではなくなっていくのだという示唆なのかもしれないと感じます。

 実際、場であったり、場にいる群れの力から、自分の座標を知りたいという欲求ってあると思うんですよ。自分は「会社にいる、新入社員である」とか。これによって存在の不安が消せますし、実際にそのための仕掛けってたくさんあったわけです。「社員が肉体としてひとつの場所に集まる」「リアルな場に集まって社会の座組をみんなが理解する」というイベントや構造は、どこの会社にもありました。そしてこういう形で自分の序列を確認し、それによって安心を得るというのは、人間の動物的なところでもあります。

 でもこの要素がフレキシブルになって、1対1がたくさんになった。これって、人間の精神に対してかなり大きな違いになるのではないかと思います。

 いま、我々がもつ「帰属意識」というものが変革を迎えている。社会的リアリティの変化を促されているのかなと。

 昔なら組織に新しいメンバーを迎えるにあたっても、「ここの席に座って」で片付いた側面がありました。その「場」の力で、その人を集団に溶け込ませられたんです。でも今は、誰ともコミュニケーションがないまま「自分」と「その社員」ということになりがちなんですよね。

 ただこれは、強引につなげようとでもしない限り、人と人のつながりが広がっていかないということでもあります。外部延長性がないんですよ。GDCのような技術カンファレンスでもこれと同じことがあって、かつては自然な外部性が存在しました。隣にたまたま座った人と雑談するとか、となりのブースにいる人と話し込むとかですね。

 でもオンライン開催になって、そういった外部性がぱったりとなくなってしまいました。「だからカンファレンスに集中できる」とも言えますが、広がりがなくなったのも事実です。昔ならパーティ会場で会ったその場で仕事や登壇をお願いできたんですが、バーチャルで会った人だとなんとなくそこまで踏み込めないんですよ。

 なので長期的に見ると、今作られている新しい社会的リアリティにおいては、人間はどんどん狭いところに蛸壺化していき、相互につながるのが難しくなっていくのではないかという不安も感じます。

イシイ:人狼もリアルとネットで体験が違うんですよね。

 リアルなら、集まって雑談して、終わって駅まで帰る間に雑談があったりします。でもネットだと人狼を遊ぶだけになるんです。なのでネットの人狼で三宅さんと会ったとしても、そこで「三宅さんってどんな仕事されてるんですか」とか聞くチャンスはありません。「今回初参加の人は誰か」とか、ネットだとなかなかフォローもできないですしね。

 ただこれも、将来的には変わっていくんじゃないでしょうか。僕らの世代はどんなにデジタルに強いといっても、非デジタル・ネイティブです。だからマッチングアプリとか言われると心理的障壁を感じますが、若い世代はマッチングアプリを「隣に誰かがいた」くらいの感覚で使っています。僕らが思っているより、彼らは身体性を飛び越えて、ショートカットしている感があるんですよ。

 そう遠くないうちに、僕らは世代に置いて行かれているのかもしれないですね。

三宅:僕はいま立教大学で教えているのですが、講義がずっとリモートなんですよ。学生たちも僕らが知っているキャンパスライフとは全然違う生活をしていて、互いにまったく会っていない。そうなると僕なんかは「一回も会わずに『学友』になれるのだろうか?」とか思ってしまいます。

 でもこの、「群れはある程度リアルでなくてはならない」という感覚、あるいは「この人とはリアルで会っている」「この人とは会ってない」で区別するような感覚は、もしかしたら古い感覚なのかもしれないですね。

イシイ:大学について言えば、「学友という群れにコミットしなくてもよくなった」という見方もあると思います。ある大学の学生という存在でありつつ、別の群れに参加していてもよいわけですよ。

 現代は、群れを選択する自由度が上がっています。SNS黎明期のように、意欲ある若い人は、知らない人とバンバンつながりを作っているんですよね。その一方で会社や学校が群れとしての吸引力を失っているのも間違いなくて、それに対して別の価値を持っていく必要がある。「人が集まって楽しいでしょ」では、もう無理なんですよ。

 なにより、人に対して群れを強要することにはそれ独自のメリットもありますが、「強要された群れにハマらなかったら生きていけない」という側面もあるというのは重要だと思っています。

三宅:学校に馴染めなかったらアウト、という状況は確かにありましたし、今もありますね。

イシイ:それから、これは体験型エンターテイメントに関わっていて気付かされたことなんですが、リモートでの参加が可能になる前って、それまで常連のように参加されていた方が、突然ふっと参加しなくなることがあったそうです。「そうです」というのは、僕は気づいてなくて、きださおりさんに教えられたからなんですが。

 なぜ突然、参加が途絶えるかと言うと、いわゆる「リアルの事情」です。子供が生まれた、病気をした、転勤した、などなど、いろんな理由で参加できなくなる人がいました。でもリモートで体験型エンターテイメントをやるようになって、そういう人が参加者として戻ってきたんですよ。

 こういう形で、リモート化することによって救われた人もいるということもまた、無視すべきではないと思います。

・コロナ禍は“30年後の未来の記憶”を見せている
三宅:「場」の力というものは、動物的な本能を機能させるためにあったのかもしれないですね。そしてこれまでは動物的な仕組みを使って、会社という組織を動かしてきた。

 MMORPGでも、プレイヤーは仮想的な身体を持ちますが、これも非常に動物的で。そしてそこで起こるプレイヤー相互のインタラクションとして「守ってくれた」「ヒールしてくれた」「アイテムをくれた」といった動物的な原理を持ち込むことで、仮想的なものにリアリティを与えてきました。

 でもいまや僕らは、本当の意味での人工的な組織を作るという局面に晒されています。

 会社というものも、本来は仮想的なものだと思います。そしてそこにリアリティを与えるために、身体的リアリティを使ってきた。けれどこれからは身体や本能抜きで組織を作る必要があります。

イシイ:動物的な本能や、脳のエラーとどう折り合いをつけていくかが問われる時代ですよね。

 僕としては「情報」として生きていくのが好きなのですが、でも脳と身体に支配されているのも事実だし、身体や脳のエラーを使ってブーストしたほうが良い情報としての生き方が出てくることもあります。

 でも身体に流されるようでは駄目なんですよ。身体をコントロールして情報やエネルギーをどう生むが大事なんじゃないかと考えています。

三宅:実際、コロナ前の段階で「新歓や飲み食いを通じて帰属意識を育む」といった慣習は廃れつつありました。この動きがコロナで一気に進んで、30年ぶんをすっ飛ばした未来に到達した感があります。特に日本は身体に依存する側面の多い社会でしたしね。

 ただ、そうやってすっ飛ばしたからこそ、いろんなところで問題が噴出するかもしれません。また、身体が使えなくなるぶんの欠損を埋め合わせるシステムも必要になるでしょう。

 身体はいろいろな問題を引き起こしますが、むしろそれが我々の生の正体でもあります。身体がないと知能は作れません。脳だけでは世界に参加できないんです。植物が土に根を張るように、知能は身体で根を張っていて、身体で世界に参加し、時間と空間の作用を受け続けています。そして我々は移動するという身体や、会うという身体を通して、自分の物語を作っていました。

 なので社会が身体の側に揺り戻すことを期待する人もいるでしょうし、逆に、だからこそ戻るなよ、と思う人も少なくないでしょうね。

イシイ:そうですね、今の状況にひとくぎりがついたら、旧態依然としたもので大部分塗りかえられるだろうなとも思います。動物としての群れの本能は強いですし、抑圧された本能は逆襲するものですから。

 だからいま想像する新しい未来はいったん古いもので塗り替えられ、その後でゆっくりと技術が軟着陸する方法を探していくのではないでしょうか。

三宅:本来はゆっくりと進む変化だったはずのものが、タイムスリップしたようなものですからね。

 オンラインへの変化は遅かれ早かれ起こったでしょうが、今回はドラスティックな変化として現れました。本来なら会議のオンライン化ひとつとっても「オンライン会議で良い派」と「オンライン会議では駄目だ派」がゴタゴタするはずが、一瞬で変わりましたよね。

イシイ:「我々は未来を見た」という感覚がありますね。

 ただ、多少古い時代のシステムが戻ってくるにしても、「情報のネットワークだけでつながる社会、自分が群れを選ぶ世界というものは確かに存在するのだ」という未来の記憶を持つことはできます。

 この「30年後の未来の記憶」が、10年後に社会的な仕組みとして戻ってくるのだろうと思いますよ。

三宅:事実、この擬似的なタイムスリップは、何もかもハッピーな物語ではないですしね。飲食店やゲームセンターのように、戻らないと困るところもたくさんあります。

 そういう意味で、揺り戻しは社会の必然です。だからこそ、まさにご指摘のように「揺り戻したあと」をどう作っていくかが大事ですね。

イシイ:「群れを選択する自由」は残って欲しいですね。

 群れというものにも良いところ・悪いところがあるわけですが、ライブコンテンツが強くなっていったことが示すように、群れをエンタメとして楽しむことにはネガティブではないんです。

 ただ、群れを強制される状況からは、脱するべきだと強く思います。

三宅:物理的空間を越えて場を選び得る、「自分で群れを選べる社会」というのはスローガンとして残したいですね。

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 「新しい生活様式」という言葉が象徴するように、社会が急激な変化を迎えることによって、社会を支えてきた「場」のあり方もまた急激に変化した。その結果として未来を先取りするかのような変化も発生すれば、あまりにも急激すぎる変化に伴う摩擦もまた発生している。

 そんななか、人生そのもの、あるいは人生のさまざまなステージにおける葛藤や日常を指し示す物語にもまた「新しい物語体験」が要求されるようになったが、現状ではまだまだそのような物語体験が十分に出そろっているとは言いがたい。

 今こそ「先んじて訪れた未来における人生」、あるいは「先んじて訪れた未来の社会」を指し示す物語体験が、もっとたくさん必要なのだ――そんなことを感じさせてくれる対談であったように思う。

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(徳岡正肇)

Unsplashより