名前が分からない、喋れるのは「お母さん」「わかんない」だけ…脳梗塞になった清水ちなみが明かす失語症の日々 から続く

 久しぶりの我が家では、元日のサッカー天皇杯を見たり、ニューイヤー駅伝箱根駅伝を見てゆっくり過ごしました。

 1月の終わりには、リハビリテーション専門の大きな病院に移りました。

 私を担当してくれる言語聴覚士は、爽やかな女の先生でした。(第4回/第1回第2回第3回より続く)

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リハビリで「雨」「犬」という漢字を覚える

 最初はいつもの言語のテストSLTA)。紙に、漢字、ひらがな、数字を書きます。最後はアタッシェケースを取り出し、中に入っている器具を指さして「これは何?」と尋ねます。はさみとか、家の鍵とか日常で必ず使うものです。

 リハビリは一コマ40分。たぶん、全国共通でしょう。

 まだ時間の概念がしっかりしていなかった私は、リハビリが始まる時刻がよくわからないまま、大きな病院内をフラフラしていることが何度もあったので、「清水さんがいない!」と、看護師さんが大騒ぎして探し回ってくれました。

 言語の先生ばかりでなく、リハビリの先生は皆さん朗らかでニコニコしています。嫌な感じの先生だったらリハビリに行く気が失せてしまうので、明るい雰囲気を身にまとう訓練をしたんでしょうね。

 私が最初に覚えたのは数字です。

 1から10までを覚えるのは本当に大変でした。その後、自分の名前と住所を覚えました。これも、すごく時間がかかりました。

 前号で、自分の名前が記号のように感じられたと書きましたが、自分の名前を書けるようになったいまでも、どこか他人事のような感じがします。あと、数字の概念も完全にはわかっていません。50円とは10円玉が5個であるとは思っていますが、どこかピンとこないのです。

 言語の先生は優秀な女性で、私ができるかできないかのギリギリを狙ってテストをしてくれました。できなかったことが宿題になるのです。

「雨」「犬」という漢字を覚えるのが、どんなに大変だったか!

「これは何?」

「あめ!」

 これだけのことが言えません。

 失語症のないほかの患者さんが手伝ってくれて、私が大声で「あ、ぬ!」というと、「違う。あ、め!」などと、特訓してくれました。

 土日の二日間、家に戻って子どもたちと練習して、ようやくモノになる感じでしたが、今から思えば楽しかった。子どもたちも結構スパルタで「もう一回、やってごらん」と、楽しんでいましたから。

旦那へのサプライズ電話作戦!

 そんな頃、私はあることを思いつきました。三月の終わりには旦那の五十歳の誕生日があります。若く見られたい旦那は「あーあ、五十歳かよ。イヤだなあ」と気にしていたので、病院から電話をかけて、からかってやろうと思ったのです。

 俄然やる気になった私は、ひとりで作戦会議。まずは病室で、置いてあるガラケーを眺めます。ぜんっぜん使い方がわかりません。これは無理です。

 では電話ボックスはどうでしょう? 私はテレフォンカードを持っています。もしかしたらできるかも。試しにやってみると、カードは無事に入ったものの、そのあとがわかりません。

 言語の先生や運動の先生、病室の患者さんなど、いろいろな人に質問するうちに、電話の仕組みが少しずつわかってきました。

 最後の難関は、家の電話番号を間違えずに押すこと。視野が欠けているために、プッシュボタンの数字が見えないのです。私はゆっくり、一個ずつじゃないと押せないのに、ちょっとグズグズするとすぐに切れてしまいます。何度か練習を重ねて、とうとう旦那の誕生日の朝に、電話をかけました。

 無事に自宅の電話番号を押し終わると、すぐに旦那が出ました。

「はい、もしもし

「……ご、ご、50!」

 旦那は、子どもたちの朝ご飯を作っているところだったそうです。

 当時の話を旦那に語ってもらいましょう。

すごいインパクトがあった。まだ、あなたが電話をかけるのはとても難しいはずなのに、どれだけ頑張って公衆電話でかけてきたかと思うと、感動したけど、同時に、ああこの人は、昔から、くだらないことに情熱をかける人だったなあと、膝が砕けた」

 私は大満足でした。

テイラー博士とお母さん

 さて、言語の訓練は、最初は「顔」や「料理」のような漢字を覚えるところから始まり、「運転する」とか「水を飲む」のような二語の文章に進んでいきました。足し算や引き算も学びはじめました。

 ある時、言語の先生が「お母さんの話を聞かないけど?」と言いました。

 お母さん! 私が病気をしてからこだまのように連呼していた「お母さん」。先生に聞かれて、咄嗟に思い出したのは、自分の母親ではなく、ある本の中に登場するお母さんでした。

奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』(新潮文庫)の著者は、ハーバード大学で脳神経科学を研究するジル・ボルトテイラー博士。女性脳科学者が自分が脳卒中になった経験を書いてベストセラーになりました。日本語訳は2009年2月に発売され、私は10月に読みましたが、11月には自分もくも膜下出血になりました。読みたてほやほやで同じ病気になったということです。

 脳卒中を起こして入院したテイラー博士は、母親が駆けつけてくると知らされたとき、「母親とはなにか?」がわからなかったそうです。「お母さんお母さん……」と繰り返し、頭の中のファイルを見つけて開き、ようやく「大切な人であるお母さんがくる!」とわかって興奮したといいます。そして飛行機に乗って飛んできたお母さんは、テイラー博士の目を見て、シーツを持ち上げ、ベッドに潜り込んでギュッと抱きしめたのです。

 おお、感動する話ですね。博士は私と同じく左脳が壊れ、失語症になったのですが、お母さんと一緒にジグソーパズルをして「色」がわかったり、絵本を読んで「文字」の組み合わせが単語になることを理解しました。お母さんという最高の教師がいるおかげで、みるみる回復したそうです。

「お願いだから母には内緒に」

 さて、私にもお母さんがいます。ただ、病院が遠かったことと、何よりも母がいると私がひどいことになるとわかっていたので、「お願いだから私が病気になったことは母には内緒にしてくれ」と旦那に頼んだのです。

 たとえば、ひらがなよりも象形文字である漢字のほうが、イメージを掴みやすいので、リハビリではまず漢字を学びます。日本人子どもの頃から、漢字、ひらがなカタカナを使って言葉の意味を理解してきましたが、失語症の患者にとって、日本語に漢字があることは本当に助かります。ひらがなの組み合わせよりも、漢字のほうが、意味がわかりやすかったからです。もしも英語だったら、最初っからABC……とアルファベットを学ぶので、より大変だったろうなと思います。

 でも、もしも私の母がそばにいたら、毎日毎日「“あいうえお”からやんなさい」といって聞かなかったでしょう。思い込みが激しいからです。

 子どもを産んだときも、母には生まれた後に連絡しました。今回も、私がギリギリで頑張っているときに、母がいたらたまったもんじゃありません。私の母は、テイラー博士のお母さんのような人ではないからです。

 結局、旦那から母に伝えてもらったのは退院直前の四月。彼女は絶句したそうですが、私の言語障害がひどいので、いまは病院にはこないでほしい、と旦那が丁寧に伝えてくれました。

 今回のテーマは「私が言葉をどう取り戻していったのか?」「私は何をできるようになったのか?」でした。脳の病気になって以来、できないことばかり。周りの人たちのおかげでなんとか生きてきました。

 左脳の四分の三で送る生活は困ったこともありますが、言い換えれば、私はあの世に左脳の四分の一を置いてきたとも言えます。それによって、たとえば、色が鮮やかになるとか、匂いに敏感になるとか、ストレスが少なくなったとか、月が青く見えるとか、驚くべき変化がいろいろあったのでした。

※最新話は発売中の『週刊文春WOMAN 2020秋号』でご覧ください。

しみずちなみ/1963年東京都生まれ。青山学院大学文学部卒業後、OL生活を経て、コラムニストに。著書に『おじさん改造講座—OL500人委員会』(文春文庫)など。

(清水 ちなみ/週刊文春WOMAN 2020夏号)

1988(昭和63)年。OLを辞め、執筆生活に入った頃