『週刊文春WOMAN』2019年GW号で70歳にして子、孫と離れて田舎のサ高住に入ったことを綴ったノンフィクション作家、久田恵さんの原稿には大きな反響があった。そして今、介護ヘルパーの勉強を始める。(肩書、年齢等は掲載時のまま)

◆ ◆ ◆

 栃木県那須町のサービス付き高齢者住宅(サ高住)「ゆいま~る那須」で暮らし始めて1年10か月が過ぎた。私は70歳になったのをきっかけに、これからの人生を自然の中で静かに暮らそうと、移住してきたはずだった。が、人生は常に想定外に展開する。

 気が付けば、私は介護ヘルパーの学校に通い始めている。公共交通が不十分で、学校までは車で行く。この地では、運転免許証の返上どころではないのが高齢者の現実なのだ。

 そんな山里の廃校になった小学校2019年11月、「日本オムツ外し学会」総会なるものが開かれた。

 オムツ外し学会とは何か? 提唱者は三好春樹氏。長年にわたって介護現場から「介護とはなにか」を発信し続けてきた理論家で、介護にかかわってきた人の間ではよく知られた存在だ。三好氏は特別養護老人ホームに勤務していた頃、半ば強制的にオムツをつけられた人がたった数日で尿意の感覚をなくし、オムツが外せなくなっていくのを目の当たりにした。そこでオムツの高齢者たち一人ひとりと丁寧に向き合い、尿意を回復させ、オムツを外すことに成功した。

 オムツが外れた人はみな、生き生きとしてくる。それは人間の尊厳の回復でもあった。そこで「オムツ外し」は介護の原点であると、1988年、学会を立ち上げたのだ。

 学会では排泄ケアだけでなく、介護される側の高齢者を主体にしようとする新しい介護の実践が報告される。今回も学会の「集まれ!那須へ」との呼びかけに、全国からユニークな活動を展開する介護関係者が100人ほど集結。そこで現場発の実践事例が報告され、議論がなされた。

 三好氏からは「認知症は病気ではない」という新しい視点から、介護現場での対応方法についての提言がなされた。その他、東京三鷹で「看取りの家」をやっている看護師さん、介護保険サービスに特化した「ヘルパー指名制」の事業所を立ち上げた実践、介護に演劇を取り入れる試みなどなど。

 さまざまな報告を聞きながら、私は長きにわたった自分の介護の日々を思い起こし、新しい介護のウェーブが本流となる日がきっと来るのだと、泣き出したいような思いにさせられていた。私の人生に「介護が降ってきた」のは、39歳のときだった。まさに青天の霹靂。晴れ渡った5月の朝、母が目の前で崩れ落ちる姿が今もくっきりと記憶に刻まれている。

 64歳だった母は、こうして脳血栓で倒れた後、13年半もの長きにわたり、重い失語症と片麻痺を抱えて日々を送った。最後の2年はほぼ寝たきりの生活になった。娘の私は、母の介護とその後の老父の介護を含めて21年に及ぶ介護生活を続けることになった。母は遠くの専門病院でリハビリを受けることになったが、言語治療士が不足していた時代で、母の失語症治療も手探り状態。医師から「家族が自力でやりなさい」と言われ、言語治療の本を買い自己流で対応するしかなかった。

 なかなか効果は得られず、運動機能の回復に一途に期待をしていた。ところが、少し母が杖で歩けるようになったというときに事故が起きた。リハビリ中に担当者が同僚と喋って目を離していた隙に、母が転倒。リハビリは中止。入院可能期間が過ぎたと、退院を迫られた。事故は伏され、謝罪もなかった。

 自宅での介護生活が始まったが、母の絶望状態は深刻だった。紐をベッドマット下に隠し、深夜にそれで自死しようとするのだ。

 私は母に泣いて頼んだ。つらい気持ちはわかる、でも死なないで。それをされたら私も父も幼い息子もみんなが傷ついて、ちゃんと生きていけなくなる、と。

 母は左手でたどたどしく日記を書くようになった。リビングの真ん中を母の車椅子の場所にし、私は母に必死で話しかけた。母はうなずいたり、苦笑したり、表情で気持ちを伝えてくれるようになり、お互いの思いが次第に通じ合えるようになっていった。

の尊厳が傷つけられてしまう

 そんな中、私に父が言い続けた。

「仕事を続けなさい」

 私は頑張り続けたが、息子に激しいチック症状が出て、カウンセラーに相談に行けば、「母親が働いているなんて最悪」と断罪され、私は慢性胃潰瘍に苦しみ、貧血で路上で倒れた。

 それより一番、心がズタズタにされたのは、週一で派遣されてくるヘルパーさんが、母を見るなり「おばあ~ちゃん」と抱きついたり、赤ちゃん言葉でしゃべったりすること。悪意がない分悲しく、このままでは母の尊厳は傷つけられ、また生きることに絶望してしまう、と思った。

 再チャレンジのために連れて行ったリハビリ病院も家族には厳しかった。

「あなたは介護を休みラクしたいのでしょうが……」

 仕事の調整ができず、母を一日だけ頼んだショートステイでも、施設の玄関から迎えの車までの数メートルだけ手を貸して欲しいと頼んだら、玄関を一歩でも出たらこちらの業務外なので「別途、役所にヘルパーを頼め」と断わられた。

 医者までもが、言わないでほしいことを平気で本人の目の前で言うのだ。どうせ本人は分かりっこない、とばかりに。

 最後の2年半は、寝たきりになった母を介護し、家族と共に看取ってくれる老人ホームに出会うことができた。私と父は神奈川から都内にあるホームの近所に住み替えて通い詰めた。

 けれど、やっと出会えたその介護老人ホームでも、実習で来た女子学生が母を見るなり「怖いっ」と逃げ出した。医者が「もう駄目だね、“胃ろう”にするかあ」と言うので、母がぽろぽろと涙をこぼした。それを見て私も泣くと「なんで、この人まで泣いてるの?」という言葉が返ってきた。世間は介護される高齢者を一人の人間として配慮をもって丁寧に扱わない、そのことが心底身に沁みた。

 そして母が逝くと、ショックで父は急に衰え、数年後には母の居たホームに入居することになった。

清掃係の女性が「この病院から早く出さないと」

 父の体調が急に悪化して救急車で運ばれた老人病院で見たのは、ゾッとする光景だった。ベッドと椅子一脚がかろうじて入るベニヤで仕切られた狭い部屋が、料金のかかる個室と称され廊下の片側にずらりと並んでいた。その一つひとつに、寝たきりの高齢者がチューブでつながれて寝かされていたのだ。

 清掃係の女性が私にささやいた。

「この病院から早く出さないと、お父さんは死んじゃうよ、早く、早く」と。

 なんとかその病院を脱出し、移った先の病院では点滴の際にはベッドサークルに手を縛られ、意味もなく拘束着なるものを着せられたりした。

 私は強引に父をホームに連れ戻した。医療を捨て、ホームでの「ひと匙ずつの重湯」から始める丁寧な個別介護を選んだのだ。

 父はみるみる回復し、2年後の2008年、“胃ろう”も過剰な点滴も拒否し、娘の私に手を握られておだやかに逝った。ちなみに救急車で運ばれた老人病院は、数年後につぶれた。

 親の介護を終えると、私は60歳になっていた。息子は自立して家族を持ち、今度は私自身の介護をどうするか、自分で考えねばならない年齢に至っていた。

 介護を長く続けると、多くの人が介護後遺症で鬱に陥ったり、長期の離職で貧困に陥ったりする。この間、私が「物書き」という究極の在宅ワーカーとしてなんとか経済自立できたのは、ほとんど奇跡のような幸運だった。

 けれど、いつまでも介護へのこだわりからは自由になれなかった。これは介護体験を生かすしかないと、6人の女性で取材チームを作り、現場の介護士たちの聞き書きを始めた。それは「介護職に就いた私の理由」というタイトルで、ウェブサイトに3年間にわたって連載された(2018年、『100歳時代の新しい介護哲学』として現代書館より出版)。

 介護の実情を現場で取材をしながら手探りで学んでいく。この過程で、私はさまざまな介護職の人たちと出会うことになった。

お漏らしをしたら「自爆!」

 印象的だったのは、私と同じような介護体験をした人がこの世界には思いがけないほど多かったことだ。

 介護職に就いたのは「まっとうな介護ができなかった母親への贖罪だ」と語る人。「20歳から20年もの母親への介護体験を経てやっと踏み出せた仕事が、介護職だった」と語る人。患者さんがお漏らしをしたら「残念なお知らせをします。○○さん自爆!」と叫ぶのを聞いて悔しく、自分の手で父親の在宅介護を決心し、仕事を辞めたという人。

 病院勤務を辞めて、定員5人の家で「看取り」を始めた看護師さんが言った。

「どこで何されたんだか、体が拘縮しきっていて人が触ると暴れちゃうようになっている人をね、まず人間に戻すところから始めないとならないのよ」と。

「入所したら、みんな『オムツ』になっちゃう……、そんな世界を変えるために介護職になった」と語る人もいた。その人は大学生のときに特養ホームアルバイトし、その実態に腹をたて、介護職員になり、若くして特養ホームの副施設長として働いていた。

 このように新しい介護のありかたを求める介護職の人たちが、実はたくさんいるのだ。私たちは確信した。その実践の新しい波がいよいよ本格化する時代へと今、向かっているのだ、と。

 那須のサ高住には2019年、そんな介護関係の人たちが「合宿」と称して遊びにやってきた。その中心にいたのが、キャンピングカーで全国を旅しながら「介護の重い人もゆっくり一人で入れるお風呂」を販売している「介護界の寅さん」ことリハビリデザイン研究所の山田穣氏だった。

 以来、山田氏は毎月のように那須にやってくる。実は、彼はもともとオムツの会社を経営していた。彼を改心させて「お風呂屋さん」にしちゃったのが、「オムツ外し」提唱者の三好氏だ。取材を通して介護の世界に希望をもたらしてくれた介護職の人たちの多くも「オムツ外し学会」の仲間だった。介護問題に行き当たれば、「オムツ外し学会」に行き当たる、のである。それは介護の現場で、オムツは「介護する側の都合優先の介護」の象徴であり、三好氏の「オムツ外しは介護の原点」であると痛感してきたからだ。

 私も同じだ。

 この国で一番人数の多い団塊世代が後期高齢者へと突入し、未曾有の大介護時代の幕が開ける日も近い。私はその世代の一人として、自分の住むサ高住に老々介護のシステムを作り、介護の自給自足生活を目指したいな、と思っている。両親の介護で体験した「絶望」、その後の取材の日々で知った「希望」を糧に、介護される当事者が望む介護のあり方を自ら求めることで、新たな介護モデルの実践につなげるのだ。

 そんなわけで、「70代にもなって」ではなく「70代になったから」こそ、介護ヘルパー学校へ通い始めた私なのである。

(久田 恵/週刊文春WOMAN 2020年 創刊1周年記念号)

久田 恵さん