第1次世界大戦で、初めて旋回式の砲塔を搭載する「ルノー FT-17 軽戦車」を開発したフランス第2次世界大戦でもスペック的にはドイツより優秀な戦車を数多く揃えていました。しかし結果は大敗北を喫します。問題は運用面にありました。

戦車先進国だったはずがわずか1か月で大敗北!

第1次世界大戦の末期、1918(大正7)年5月頃にフランス軍が投入した「ルノー FT-17 軽戦車」は、車体前方にある運転室、中央の全周旋回砲塔、分離されたエンジンルームと、現代戦車に通じる設計思想が初めて盛り込まれた戦車でした。

大戦間期も戦車先進国と目されていたフランス軍でしたが、第2次世界大戦中の1940(昭和15)年5月から始まったドイツ軍との戦闘では、わずか4週間、戦車のみに限るともっと早く戦闘能力を喪失してしまいます。一体どんな原因があったのでしょう。

ドイツフランス侵攻時、フランス軍戦車の陣容は、騎兵戦車の「ソミュア S35」、軽戦車の「オチキス H35」、中戦車の「ルノー D2」、重戦車の「ルノーB1」などでした。どの戦車も火力、装甲は共に高く、当時ドイツ軍の主力と目されたIII号、IV号戦車より優れていました。戦車の数もフランスイギリス合わせて3000両は超えており、2500両程度のドイツよりも多く揃えていたそうです。

しかも、ドイツ軍は主力のIII号、IV号戦車の数がまだ準備不足で揃っておらず、実質的な主力は訓練用のI号戦車とそれを発展させたII号戦車チェコから接収した35(t)、38(t)などの軽戦車でした。このように戦車の性能や数では優勢だったはずのフランス軍が敗れた理由には、旧態依然とした運用法に原因の一端があるといわれています。

個々の性能は優れていても連携不足が深刻だった!

いまさら説明する必要もないかもしれませんが、ドイツ軍フランス侵攻時、定石と目されていたベルギーオランダ方面からの攻撃を陽動として、フランスが構築した要塞線であるマジノ線が途切れているアルデンヌの森を、機甲師団を主体とした戦力で抜け、ミューズ川を渡り、英仏海峡に到達することで英仏連合軍を包囲する作戦を選びました。

仏独の本格的な戦車同士の戦闘は、ドイツがアルデンヌで大規模攻勢に出る直前、1940(昭和15)年5月12日から14日にかけて、ベルギージャンブルー近郊で行われたアニューの戦いが最初で、そして最大の戦車戦といわれています。戦闘自体は、この方面でのドイツ軍の攻勢を一時的に止めることに成功しますが、主力だったフランス第2、第3軽機械化師団のソミュア S35やオチキス H35は、ドイツ第3、第4機甲師団相手にかなりの損害を被ります。

数の上ではフランス側がオチキス、ソミュア合わせて400両以上、対するドイツはまともに戦力となるIII号戦車70両程度、IV号戦車が50両程度と、ドイツ側が圧倒的に劣勢でした。それでもドイツ戦車部隊が有利に戦闘を進められたのは、戦車無線の存在があります。無線機を利用した車両同士の流動的な連携により、機動面でフランス戦車を圧倒したのです。ドイツ軍は再軍備を開始し、戦車開発と同時に無線にも力を入れており、車長用に喉の振動音を直接拾う咽喉マイクをいち早く利用していました。一方、フランス戦車は無線が装備されていない車両が多く、旗信号を用いるなど、個々の車両の連携が不十分でした。

また、フランス戦車は歩兵支援用車両という思想から抜け出せない、古い考えで作られていたのに対し、ドイツ戦車は戦車単体での動きを重視していたため、ソミュア S35を除く戦車相手ならば速力でもかなり有利で、重装甲の戦車を撃破できないまでも、機動力を活かし、履帯を狙うことで行動不能にさせました。

電撃戦の前に機動力不足を露見させトーチカになる戦車も

この歩兵支援に固執した戦車ばかりという状態は、いわゆる電撃戦でアルデンヌを抜けてきたドイツ機甲師団を阻止するべく動くときに、さらに大きな問題になりました。重装甲にしすぎた影響で燃費が悪く、給油に手間取ってしまったのです。

それはまとまった部隊行動をする場合に顕著で、広く知られるところでは、ドイツ軍ベルギーシャルルロワ方面での第5、第7機甲師団のムーズ川渡河を阻止しようとしたフランス軍第1戦車師団が、約36kmの移動に16時間もかかったといわれています。もともと足の遅い戦車が多いとはいえ、なんと徒歩よりも遅い速度です。しかも、整備も不十分で戦場にたどり着く前に落伍する戦車も多かったといいます。

また、電撃戦の要だったセダン方面のラインハルト装甲軍団相手でも、長大な戦線に散らばった戦車を上手く編成することができず、機動力で防御手薄な突出部の側面を突き、補給路を断つことができませんでした。

これは、あまりに早いドイツの攻勢に、フランス軍司令部が混乱して命令を二転三転させた影響もありますが、フランス戦車がもともとマジノ線などと同じく、防衛戦で歩兵を支援することに比重を置きすぎたという面もあります。結局、かなりの数の戦車が戦線には投入されず、地中に埋められトーチカがわりにされます。

残ったルノー D2、ルノー B1など、本来ならば圧倒的有利にドイツ戦車を相手にできる車両なども、戦場でまとまった数が揃わず、機動力の高いドイツ戦車部隊や、対戦車砲にも転用可能な8.8cm砲に各個、撃破されていくのです。

敵は陸上ばかりにあらず 制空権も喪失して…

英仏連合軍が完全に劣勢に転じたあとの1940(昭和15)年5月21日、アラスで戦車戦が行われますが、混乱するフランス軍にかわり、ここで主体となったのはイギリス軍の戦車部隊でした。フランス第3軽機械化師団は後方を担当します。

このフランス戦車部隊は、退却するイギリス軍を追撃してきたドイツ軍の一時的な押し戻しには成功しますが、航空支援によって結局、撃破されています。この頃になると、完全に制空権はドイツが握っており、その空陸一体の攻撃にさらなる損害が出るようになりました。

第1次世界大戦では戦車先進国だったフランス第2次世界大戦時でもその優れた開発能力は、戦車の性能を見ると維持されていたといえるでしょう。ただ、あまりに防衛戦に固執したプランで戦車も開発してしまった関係上、鈍重な動きをしているあいだに、軽快なドイツ戦車に圧倒されてしまったのです。結局、硬くて強いだけではだめだったわけですね。

ルノー FT-17 軽戦車(柘植優介撮影)。