福井県の山深い場所に、その集落はある。京都府滋賀県との県境に近く、県道35号から南に伸びる頼りない一本道しか交通手段はない。都会の喧騒とはかけ離れたこの場所に、かつて9世帯が暮らす永谷集落があった。

 その平穏な村にダム計画が持ち上がったのは、今から40年前の話だ。ダムが完成すれば、集落は水没して消滅する。穏やかな日々を過ごしていた住民たちは、賛成派・反対派に分かれて対立したが、最終的には全世帯が移転し、集落は無人となった――。

 ここまでは、ダム建設の時によくあるエピソードかもしれない。しかし、話はこれで終わらなかった。無人集落となったあと、なんと計画が根底から見直され、結局、ダムは建設されなかったのだ。そして、ダム計画に翻弄され続けた廃集落は、今も山奥にひっそりと佇んでいる。

11年前に初めて足を運んだ理由

 私が初めてこの場所を訪れたのは、11年前のことだった。廃墟探索が趣味の私は、福井県に、とある廃集落があると耳にした。それが永谷集落だったのだ。

 しかし、正直なところ、最初はあまり現地に行くつもりはなかった。“廃墟マニア”の勝手な理屈だが、時間を掛けて廃集落を訪れても、巨大な工場廃墟のような派手さはなく、廃屋がポツンポツンと点在しているだけだ。

 また、学校や旅館のように、かつて不特定多数の人を受け入れていた建物とは異なり、個人宅は外から観察するのは気が引ける部分がある。

 だがその後、ここが廃集落となってしまった経緯、ダム計画に翻弄された過去を知るとどうしても気になってしまい、実際に現地を訪れることにしたのだ。

険しい一本道の先に取り残された廃集落

 永谷集落は全方向を山に囲われており、アクセスするには北側に回り込むしかない。ただでさえ細い一本道は荒れ、舗装も所どころで剥がれてしまっていた。路面の倒木と落石を避けながら、険しい道を進んでゆく。

 なんとかたどり着くと、永谷川に沿って廃屋が点在していた。たった9世帯の集落ではあるが、神社とお寺のほか、公園もあったようだ。その全てが、廃れてしまっている。

 母屋のほか、離れや蔵が設けられている家屋が多く、先祖代々ここで暮らしてきたことがうかがえる。時代を感じさせる建物や、家の前にはレトロな残留物が転がっていたりして、見どころがとても多い。半壊してしまっている建物から、大正3年の新聞が顔をのぞかせていて、つい見入ってしまった。

神社に残された“200年以上前の残置物”

 川沿いの一本道を上流から下流側に進んでいくと、左手にお寺と神社が並んでいた。双方とも廃村の際に正式に移転したようだが、神社には狛犬が鎮座していた。神社には〈寛政九年 愛岩山 大工長兵衛作〉と書かれた木の部材が落ちていた。寛政九年ということは西暦1797年なので、200年以上も前ということになる。直前に何かの工作物が朽ちて、この文字が露出したようだ。

 墨で書かれたその文字は、すぐに消えてしまうだろう。大正3年の新聞と同様、廃墟にある残置物との出会いは、まさに一期一会だ。どんなに貴重な物であっても、建物とともに自然と朽ちていってしまう。それは、保存も解体もされず、放置されている廃墟の宿命といえるだろう。

 こうした廃集落を訪れる際、部外者である私は、傍観者に徹するよう努めている。自然に朽ち果て、あるいは人為的に取り壊される廃墟を、ただ眺める。破壊しないのはもちろんのこと、そこにある物を動かしたりせず、触ることも極力控えるように気をつけている。

慎重に川を渡った先には……

 集落内を巡り、残すは川の向こうにある一軒のお宅だけになった。川を渡る橋は既に朽ちていたため、やむなく靴下を脱いで川に入る。

 初秋だったが思いのほか水は冷たく、寒さに震えた。水深は浅いものの流れが早く、川底には苔が生えていて滑りやすい。ゆっくりと慎重に、対岸へ渡った。

「部落を割る関電電発に絶対反対」

 冷えた足を拭って対岸に上陸し、廃屋の正面に回り込む。そこには、手書きの看板が掲げられていた。

〈部落を割る関電電発に絶対反対〉

 この看板が、集落の歴史を如実に表しているように感じた。おそらくは、ダム計画に反対し、最後までここで暮らしていた方のお宅だろう。

 集落内には、もう一つ〈関電の電発に反対〉と書かれた看板があった。筆跡やペンキの色から察すると、作者は同じだろう。ダム計画に翻弄されたこの廃集落は、悲哀という言葉では表せないほど、独特の空気感に満ちている。

80年代に持ち上がった“2回目のダム計画”

 この集落を二分したダム計画というのは、当時日本で最大級となる揚水式水力発電を建設しようというものだった。揚水発電は、電力需要の少ない夜間に電力を使って水を高所に汲み揚げ、その水を昼間の電力需要ピーク時に放流して発電する。発電というよりかは、蓄電という意味合いが強い。この揚水発電を行うには、揚げた水を貯めておく上部池と、放流した水を貯めておく下部池の2つの池が必要になる。

 1960年代に持ち上がった計画では、由良川の上流、京都府の山林に上部池のダムを造り、三国峠を隔てた福井県名田庄村(ここに永谷集落も含まれる)に下部池のダムを建設する予定だった。しかし、山林は貴重な原生林であり、所有する京都大学や地元住民が猛反発したため、計画は一旦見送られた。

 1980年代になって再びダム計画が持ち上がると、地元も誘致を進める推進派と反対派の二派に分かれ、争いを繰り広げた。だが結局、名田庄村では永谷、出合、挙原の3集落が水没予定地となり、多くの世帯が転居を余儀なくされた。

なぜダム計画は白紙に戻されたのか?

 永谷集落では反対派の住民が最後まで残ったが、1985年、ついに無人となった。しかし、反対運動の広域的な盛り上がりや、町長の改選といった政治的な動きによって、やがてダム計画は再び白紙に戻された。その後、現在に至るまで、ダムを建設しようとする動きは全くみられない。

 出合、挙原の集落跡も訪問したが、ここ永谷集落が最も現存する家屋が多く、当時の痕跡を留めている。単純に廃集落という括りで全国をみても、これだけ完全に集落全てが廃屋となり、現存している場所は非常に少ない。廃墟マニアの目線では、日本屈指の廃集落といえるが、ダム計画に翻弄された過去が、重く心にのしかかる。

 廃墟というのは、光の当たる部分だけではなく、影の部分も我々に見せてくれる。むしろ影の部分があるからこそ、解体されず、保存もされず、廃墟になっていることが多いのだ。

10年後の“再訪”で目にした光景

 11年前に訪れて以来、永谷集落をもう一度見たいとずっと思っていたが、アクセスが困難であることもあって、なかなか機会に恵まれなかった。しかし、前回の訪問からちょうど10年となる昨年末、再び永谷集落を訪れることができた。

 だが、木造家屋にとって、10年という歳月は残酷だった。幾つかの建物は倒壊し、瓦礫の山と化していた。お寺もペシャンコに潰れ、神社は傾いていた。川の向こうにある邸宅は残っていたが、掲げられていた〈部落を割る関電電発に絶対反対〉の看板は無くなっていた。

 ダム計画に翻弄され続けた悲哀の廃集落。ここに人々が暮らし、そして去って行った経緯を示す痕跡は、着実に色褪せつつある。完全に失われるまでの時間は、そう長くはないだろう。

撮影=鹿取茂雄

(鹿取 茂雄)

“廃村”と化してから約35年が経過した永谷集落(2019年撮影)