(舛添 要一:国際政治学者)

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 臨時国会が始まった。28日からは、菅首相の所信表明演説に対する代表質問が行われたが、日本学術会議の任命拒否問題などについて、苦しい答弁が続いた。高い支持率でスタートした菅政権であるが、ここに来て躓いているような感じがする。

 いずれの世論調査でも支持率が低下しており、たとえば日経新聞の調査(10月23〜25日に実施)によると、内閣支持率は63%で、先月よりも11%も低下している。逆に、不支持率は28%で9%増えている。支持率は、とくに女性では17%減、18〜39歳の若年層では15%減である。

支持率低下の原因は学術会議問題の対応のまずさ

 この支持率低下の最大の理由は、日本学術会議の任命拒否問題である。先の日経新聞世論調査でも、この問題に関する政府の説明を、「不十分だ」と考える人が70%に上り、「十分だ」という人は17%のみである。一般的に人事については、任命権者がその理由を述べないこととなっており、学術会議の件もその例外ではない。

 しかし、この問題が明るみになり、批判の声が高まったときの対応があまり上手くなかった。日本学術会議に改革のメスを入れなければならないことは確かであり、先の日経新聞の調査でも、この組織を行政改革の対象とすることに、「賛成」が62%と多く、「反対」は22%と少ない。

コロナ対応が最優先なのに、いまここで学術会議改革に手を付けるのはミス

 菅政権の対応を「戦略ミス」というのは、第一に政権発足時には低姿勢でミスを少なくする、つまり、ウオーミングアップ、慣らし運転で静かに始動するという姿勢でなかったことである。

 従来は学術会議が推薦する候補者をそのまま任命してきたが、この慣例を破れば、野党を含め学界や世論から大きな反発が生じることは予想されたはずである。そのことに考え至らなかったとすれば、それは想像力の欠如である。

 新型コロナウイルスの感染拡大に対応せねばならない今、この組織をすぐに改革する喫緊の理由はない。しかも、政権は発足したばかりなのである。これは、多くの時間とエネルギーを割くべき課題ではない。政治とは選択であり、政策に優先順位をつけることである。たいへん無駄な選択をしたと言うしかない。

 菅首相は官房長官を長く務めたこともあって、安倍政権の継承という色彩が強く、新政権ということを目立たせたい気持ちも分からないでもない。携帯電話料金の引き下げ、デジタル庁の創設、不妊治療の保険適用など次々と具体的な政策を掲げたのも、そのためである。これらは、右翼とか左翼とかいった政治思想とは無関係な身近な課題であり、広範な国民が歓迎するところである。

任命拒否で「左翼嫌いの右翼」のイメージが

 その意味で、第二に、イデオロギー色が付着してしまったのはまずい。8年間近く官房長官職を務めていたときは、政治的に中立な実務型、官僚型政治家の顔を国民に印象づけてきた。ところが、今回の任命拒否問題で、「左翼嫌いの右翼」という烙印を捺されることになってしまった。

 そういう印象を残さないためには、任命拒否の対象に右翼的意見の候補者を数名入れる(そういう候補がいればの話だが)ということをすれば、政治的立場に関係なく自分の判断で任命したと主張することもできたであろう。そのような才覚を働かせることのできる側近や官僚が不在だったのは残念である。

 しかも、「安全保障関連法に反対する学者の会」に賛同した学者は、105人中、拒否された6人以外にも10人はいる。この会を標的にしたのならば、首尾一貫しない。菅政権の情報収集能力はその程度なのか。これでは、情報網を張り巡らせて官僚を監視し、支配するという強面のイメージが台無しになる。

 そう考えると、やはり、先述したように、何の戦略もなく、問題になることなど予想もしなかったというのが本当のところではなかろうか。

 候補者105人の推薦リストは「見ていない」と言いながら、自らの判断で任命拒否をしたというのは、やはり説得力がない。これでは、11月2日から始まる衆議院予算委員会での質疑応答が思いやられる。

「総合的、俯瞰的」という言い回しの無意味さ

 その観点から気になるのは、第三の問題に、「言葉の貧困」である。その典型例が「総合的、俯瞰的」という言葉であり、普通の国民が聞いてもよく分からないし、何の意味もない言葉である。

 26日の夜、菅首相はNHKの「ニュースウオッチ9」に出演し、日本学術会議の会員が一部の大学に偏っているとして、民間や若手、地方からも選任される多様性の確保が必要だと述べ、「最終的には選考委員会の仕組みがあるが、現在の会員が後任を推薦することもできる可能性がある。結果的に一部の大学に偏っていることも客観的に見たら事実だ」と指摘した。しかし、これは必ずしも的確な指摘ではない。

 さらに、「『総合的、俯瞰的』と申し上げてきたが、幅広く客観的という意味合いもある。民間出身者や若手研究者、地方の会員も選任される多様性が大事だ。組織全体の見直しをしなければならない時期ではないか」と付け加えた。

 そして、6人を任命しなかったことについては、「任命すると公務員になる。学術会議で選考したものを追認するのではなく、政府として関与し、責任を取る必要がある。ただ説明できることとできないことがある」と従来の説明を繰り返した。

 29日の参議院本会議での答弁でも、「憲法第15条第1項は、『公務員の選定は、国民固有の権利』と規定しており、この規定に基づき、日本学術会議法では、会員を総理大臣が任命することとされている。今回の任命も、日本学術会議法に沿って行ったもので、法の解釈変更ではない旨は、国会において内閣法制局からも答弁しているとおりだ」と述べている。

 以上のような答弁は、役人が書いているのであろうが、正確さにも欠けるし、とにかく言葉が貧しすぎる。日本語にはもっと国民に分かりやすい、豊かな言葉があるはずである。大臣経験者として言えば、国会での答弁は官僚が準備したものを基本とするが、最終的には語彙や言い回しの変更などは答弁者自らが行う。私も、役人と議論しながら何度もそれは行った。

 そして、国会ではなく、マスコミの取材に応じるときには、もっと自分の言葉で語ってよい。日本学術会議の任命問題そのものについて、ほとんど理解していなかったのではないか。そう考えると、やはり、第一点で指摘したように、この問題はあまり深く考えずに対応したのではないか。

「自助・共助・公助」や「絆」、あまりに陳腐な言葉選びのセンス

 それに関連して、菅首相は、目指す社会像として、「『自助・共助・公助』そして『絆』です」と述べているが、あまりにも陳腐な言葉である。自民党は、いつも「自助・共助・公助」と主張しており、自民党の首相なら、誰でもそう言う。私が厚労大臣のときも、何度も言ってきた言葉である。さらに、「絆」も、良い言葉だが、東日本大震災以来、使い古されてきた言葉である。

 菅首相ならではのスローガンやビジョンがほしいが、それはどのような言葉を使って、どのように表現するかにかかっている。オバマ大統領は、 “Yes, I can.” と言い、トランプ大統領は “Make America great again.” と叫んだ。いずれも平易な言葉であるが、大衆を動かす力があった。

 しかし、「自助・共助・公助」や「絆」では、そのような効果は全くない。前者は、知っている人には古くさいイメージしかないし、知らない人は、言葉の意味すら説明できないであろう。後者は、あまりにも普通すぎる。

 しかも、新型コロナウイルスの感染拡大で苦境に立つ人が多いときに、「自助」という言葉は虚しく聞こえる。「共助」にも限界がある。今、求められているのは政府の財政出動であり、「公助」である。現に、政府が展開している各種のGoToキャンペーンは、「公助」の典型である。タイミング的にも賢い言葉使いではない。

「不条理」の作家、アルベールカミュの名作『ペスト』の中には、「自粛警察」が跋扈する日本の姿とは違う人間の生き様が描かれている。それは、「共感と連帯」だ。私なら、「自助・共助・公助」や「絆」ではなく、「共感と連帯」を採用するだろう。少なくとも陳腐なイメージは避けられるからである。

 菅首相は、様々な分野で「参与」のような形でブレーンを集めている。しかし、日本語、演説、イメージといった分野を担当する専門家はいない。パフォーマンスを勧めているのではない。堅実な実務家の姿と共に、国民に夢と希望を与える言葉がほしいのである。政治は言葉である。

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